第36話 英雄

 一度後退して態勢を立て直したアレリア王国側の本隊は、既に攻勢を終えているであろう別動隊からの報告を待った。

 報告はその日の午後には届いた。司令部の天幕にて、到着した伝令から別動隊の攻勢の結果を聞いたツェツィーリアは、しばし無言になる。


「……そうか。アランブール卿は死んでしまったのか」


 表情こそ変わらなかったが、ツェツィーリアの穏やかな声は、どこか寂しげな気を纏っていた。

 ヴァンサン・アランブール男爵。ツェツィーリアにとって信頼できる部下だった。それだけではなかった。自分が幼い頃に戦死した父の話を、彼は色々と聞かせてくれた。

 静かに目を閉じ、彼の死を悼んだ後、ツェツィーリアは再び口を開く。


「それで、敗因は敵の伏撃ということだったな? 総勢百人に過ぎない敵の別動隊、その全兵力と激突していたら、いきなり側面から数十人の伏兵が湧いてきたと」

「は、はい。確かにそのような戦闘経過となりました」

「その伏兵だが、軽装の者が多くなかったか?」

「……言われてみれば、そうだったかと。兜どころか胴鎧さえ身につけていない者もいました」

「なるほど……おそらく、私と同じような策を考えた者がいたのだろうな」


 山道の付近の農村から民兵を徴集あるいは募集し、正規軍人と同じ装備を着せ、目立たない隊列後方に並べる。その民兵たちと入れ替わった者たちが伏兵として森に潜む。一見すると総兵力は変わっていないので、斥候などに隊列を見られても、部隊を分けて伏兵を置いたと気づかれることはない。

 自分が山道に敵の予想以上の別動隊を充てた策と、ほぼ同じ仕掛け。敵将マティアスがこちらの策に気づいてから真似したわけではないだろう。そんな不確実な真似をするくらいなら、マティアスはあらかじめ山道にもっと多くの兵を割いたはず。

 ということは、エーデルシュタイン王国側の別動隊の誰かが、同じ策を自力で思いついたのだ。

 一体どのような人物なのだろうか。ツェツィーリアは奇妙な親近感を覚えながら、一人微笑を浮かべる。


「閣下。これからどういたしますか?」


 伝令を下がらせた後、副官が尋ねてくる。


「……悔しいが、今回は撤退だな」


 そう答えながら、しかしツェツィーリアの表情は穏やかなままだった。


「ただちに撤退準備を始めてくれ。別動隊にも伝えるんだ。明日にはここを出発して、明後日には後方で別動隊と合流。敵が逆侵攻を仕掛けてこないことを確認した上で完全撤退する」

「はっ」


 敬礼して答え、副官は司令部の天幕から出ていった。


「……決着はお預けだ。マティアス・ホーゼンフェルト伯爵」


 一人になったツェツィーリアは、父の仇の名を呟く。顔には微笑を浮かべながら、その手は強く握り込まれて震えている。


・・・・・・


 敵側の別動隊に勝利した翌々日、敵軍の撤退を確認した上で、エーデルシュタイン王国側の別動隊は本隊のいる北方平原に戻った。

 その間、フリードリヒは使いものにならなかった。

 戦闘を終えた後の後処理や撤収準備に関しては指揮官のオリヴァーが主導すれば何ら問題なく、初陣にしては十分以上の働きをしたフリードリヒが休んでいても苦言を呈する者はいなかった。二百ほどの援軍を引き連れてきたグレゴールでさえ、フリードリヒの様子を見ると、今は休んでいるよう命じてきた。

 北方平原への帰路も、ユーリカに手を引かれるようにして馬に乗り、そのまま彼女に先導されてただ馬の背に揺られていた。

 そして、連隊長マティアスへの報告はオリヴァーに任せ、自身はまた天幕に籠った。

 頭の中を巡るのは、あの戦場の光景。皆に投げかけられた言葉。

 泣き叫ぶ兵士たちの姿が、並べられた兵士たちの遺体が、変わり果てた姿となった騎士ノエラの死に顔が、ずっと脳裏から離れない。ふとした瞬間に血と臓腑の臭いが思い出され、吐き気を覚える。濁った絶叫やしくしくと泣く声が聞こえる気がして耳を塞ぐ。そんな状態が続いていた。


「フリードリヒ、いるか」


 本隊と合流してからどれくらいの時間が経ったかも分からず、ユーリカに寄り添われながら思考と記憶の堂々巡りを続けていると、天幕の外から声をかけられた。

 マティアスの声だった。


「……はい、閣下」

「入るぞ」


 力なく答えると、天幕の入り口が開かれる。


「無理をするな。座ったままでいい」


 ふらふらと立ち上がって敬礼したフリードリヒは、そう言われて天幕の床にへたり込む。ユーリカも立ち上がって敬礼し、彼女なりに空気を読んだのか、フリードリヒから少し離れてマティアスの視界に入らない位置に控えた。

 マティアスは立ったまま、フリードリヒを見下ろす。


「山道での戦いについては騎士オリヴァーから聞いた。お前の智慧で勝利を掴んだそうだな。よくやった」

「……」


 何か答えなければと思い、しかしフリードリヒには言葉が思い浮かばなかった。頭に靄がかかっているかのようだった。

 そんなフリードリヒを、マティアスの青い双眸が見下ろす。腑抜けたようなフリードリヒの有様を見ても、マティアスは怒りや苛立ちを表すこともない。穏やかな目だった。


「……私はこう考えている。勝利のため、国を守るために死んだ者たちこそが真の英雄であると」


 唐突に、マティアスは言った。

 英雄。その言葉を、フリードリヒは彼自身の口から初めて聞いた。


「この時代に生き、国を守る上で、戦いは避けられない。戦いがあれば死は避けられない。戦えば誰かが死ぬ。だからこそ、私は勝ち続けてきた。指揮下の騎士や兵士たちの死が避けられないのであれば、せめてその死を大義あるものとするために。勝利を掴み、国を守り続けることで、死者たちを英雄とするために」


 マティアスの口調はいつもと変わらない落ち着いたもので、しかしそこには、ひどく重苦しい気配があった。


「騎士として戦い、若くして将となってからも戦い、そして私自身が英雄などと呼ばれるようになった。皆が私に何を期待しているかは分かっている。揺るぎない勝利を、自分が命を賭して戦う希望を、家族が命を捧げて戦ったことへの救いを、私に求めているのだと理解している……戦死者の遺族たちから直接言われることもある。英雄のもとで戦い、その命を勝利の礎とした親や伴侶、我が子を誇りに思うとな」


 そこで微かに、マティアスの口からため息が零れる。


「生ける英雄。この呼び名と共に、私は幾百もの死を背負っている。これからも背負っていく。生きながらにして英雄と呼ばれるとはそういうことだ……お前にも私と同じ運命が待っている。智慧を用いて戦い、その上で勝ち続けるのであれば、お前もいずれこうなる。指揮下の騎士や兵士たちの死を背負いながら戦い続け、勝利を重ね、その運命を歩み続けた果てに、お前は歴史に名を残す何者かになるだろう」


 その言葉を聞いたフリードリヒは、愕然とした。

 そんな運命を歩む自分を想像しようとして、しかしできなかった。


「フリードリヒ。私の私生児を詐称したお前の罪をここに赦す。王国軍に入り、戦いに臨み、勝利を成したその功績をもって、お前は贖罪を果たしたものと見なす。お前が望むのであれば、ユーリカと共に私の従士を辞め、騎士であることを辞め、王国軍を除隊しても構わない……後のことはお前自身が決めろ」


 そう言い残して、マティアスは立ち去った。

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