第35話 勝利のあと

「勝ったね、フリードリヒ」

「うん……よかった。上手くいって」


 フリードリヒは安堵の息を吐きながら、その場に座り込む。

 自信はそれなりにあった。自分が考えた策の概要をもとに、オリヴァーが上手く実行に落とし込んでくれたので、勝算は十分だと思っていた。

 同時に、頭の片隅にはやはり不安もあった。傭兵崩れの盗賊、それも完全に油断しきった相手には勝利したことがあるが、果たして自身の策略は隣国の正規軍を相手にしても通用するのか。そう思っていた。

 結果的に、通用した。勝利を掴んだ。ホーゼンフェルト伯爵家の従士として取り立てられ、騎士に叙任されて王国軍に入り、そうした待遇に見合うであろう成果を示せた。

 何者かになる。そんな目標に向けて、新たな一歩を刻んだと言っていいだろう。


「フリードリヒ、皆のところに行く?」

「……そうだね。オリヴァーを手伝わないと」


 戦いが終わってもやることは多い。死体の片付けや負傷者の手当て。まだ使えそうな矢や、戦闘の最中で放棄された武器や鎧などの回収。野営地で待機している者たちへの報告と、援軍を迎える準備。敵はまだ完全に退却したわけではないので、監視や防衛準備もしなければならない。

 既に山道の方では、皆が後処理に動き出している。いくら軍人としての初陣だったとはいえ、いつまでも座り込んで休んでいては駄目だ。

 そう思いながら、フリードリヒは立ち上がり、斜面を下りる。

 戦いを終えた仲間たちのもとに歩み寄り、そして――そこで、戦場の現実を目の当たりにする。


「痛い! 痛い痛いいたいぃぃああああっ!」

「暴れるな! おい、こいつの足を押さえろ! 傷口を縛り上げる!」


 片足の肉が裂け、骨まで見えている兵士が暴れるのを、他の兵士たちが数人がかりで押さえつけている。

 そのうちの一人が、負傷した兵士の傷口を布で巻き、力いっぱい縛り上げる。それがよほど痛かったのか、負傷した兵士は濁った絶叫を上げる。


「嫌だ、死にたくない。母さん。母さんに会いたい……」

「大丈夫だ。お前は立派に戦ったと家族に伝えてやる。お前は神の御許に行くんだ。何も怖がる必要はない」


 まだ若い兵士が、腹から内臓を溢れさせ、涙を流しながら言う。その手を年配の兵士が握り、優しく語りかけている。


「おい! 結婚したばかりの嫁さんが待ってるんだろう! 目を開けろよ!」

「もうやめろ! こいつは死んだんだ。安らかに眠らせてやれ」


 胸に剣が深々と突き刺さり、どう見ても絶命している兵士の肩を、彼の友人らしき兵士が掴んで泣きながら揺さぶっている。近くにいた別の兵士が、それを見かねて止めに入る。

 そんな凄惨な、あるいは悲痛な光景が、至るところでくり広げられていた。


「……」


 それを、フリードリヒは呆然と見回す。

 昨年の盗賊との戦いでは、フリードリヒが指揮したボルガの住民たちは全員が無事だった。軽傷者は少数いたが、死んだ者はいなかった。

 なので、フリードリヒは今日、ここで、初めて目の当たりにした。

 自分の考えた策を実行した結果、痛みに苦しむ仲間たちを。死にゆく仲間たちを。


「おい、騎士の遺体はそっちじゃない。兵士とは分けてこっちに寝かせろ」


 そんな声が聞こえて、フリードリヒはそちらを振り返る。

 山道の一角に、友軍の遺体が並べられていた。おそらくは、後方から遺体運搬用の荷馬車が来るまでの暫定的な措置として。

 まだ戦場に置かれたままの遺体も多く、この当座の遺体置き場に運ばれているのは数人。ほとんどは兵士だが、ひとつだけ騎士の遺体もあった。

 歩み寄って確認すると、遺体は騎士ノエラのものだった。敵軍を山道に誘い込む百人、その次席指揮官として戦った彼女は死んでいた。変わり果てた姿だった。

 剣か槍の直撃を受けたのか、下顎から喉元にかけて、肉も骨も抉り取られていた。剥き出しの舌が垂れていて、開いたままの目は虚ろで、そこに光は皆無だった。

 フリードリヒも、彼女とは交流があった。王国軍に入隊し、フェルディナント連隊に迎えられた初日、ふざけてフリードリヒとユーリカの頭を撫でてきたのが彼女だった。その後も度々、彼女とは話す機会があった。

 婚約者がいると、彼女は言っていた。


「……っ」


 吐き気がこみ上げ、咄嗟に口元を押さえる。


「……フリードリヒ」


 ユーリカに心配そうな声で名前を呼ばれ、肩に手を置かれる。今は彼女の方を振り向く余裕もない。荒い呼吸をくり返し、何とか吐き気を飲み込む。


「フリードリヒ、無事だったか」


 オリヴァーの声が聞こえた。フリードリヒは呆然としながら、彼の方を向いた。

 彼は負傷していた。鼻から左の頬にかけて、痛々しい傷を負っていた。


「どうしたんだ、そんな呆けた顔をして。疲れたか? ……ああ、この傷か。水で洗ったし、後で強い蒸留酒で消毒するから大丈夫だ。死にはしない」


 フリードリヒの視線を受けたオリヴァーは、まだ血が完全には止まっていない左頬に触れながら平然と言った。おそらく生涯消えない跡が残るであろう自身の顔の傷について、彼が言及したのはそれだけだった。

 そして、オリヴァーはフリードリヒの前、横たえられた遺体を見下ろす。


「……ノエラは残念だった。惜しい騎士を亡くした。だが無駄死にじゃない。俺たちは勝利した」


 語るオリヴァーの横顔を、フリードリヒは呆然としたまま見る。


「こちらの損害は、今のところ死者十数人。最終的には二十人ほどになるだろうか……三倍の敵と戦ったことを考えると、奇跡的な結果と言っていい。フリードリヒ、これもお前のおかげだ」

「っ!」


 お前のおかげ。

 その言葉に、フリードリヒは恐怖を覚えた。足元をふらつかせ、ユーリカに肩を支えられた。


「そうだろう、皆」


 オリヴァーが呼びかけると、近くにいた兵士たちが同意を示した。

 よくやったフリードリヒ。お前のおかげで勝てた。国を守れた。戦功を挙げられた。それら自分に向けられているらしい称賛の声は、ひどく遠く聞こえた。


「皆、お前には感謝している。下手をすれば全滅していてもおかしくなかったのを……おい、本当にどうしたんだ? 大丈夫か?」


 真っ青な顔のフリードリヒを見て、オリヴァーは怪訝な表情になる。


「フリードリヒは味方が死ぬのを初めて見たの。去年の盗賊との戦いでは、フリードリヒと一緒に戦ったボルガの住民は誰も死ななかったの」

「……なるほど、そういうことか」


 ユーリカの言葉を聞いたオリヴァーは、納得した様子で頷く。


「フリードリヒ。ユーリカと一緒に、先に後方の野営地に戻れ。天幕で休んでいろ」

「……でも」

「いい。後のことは俺たちだけで大丈夫だ。今回はもう休め」


 それ以上は何も言わず、フリードリヒは無言でただ頷いた。

 ユーリカに肩を支えられながら、山道を東に戻る。

 その後ろ姿を見送るオリヴァーに、歩み寄って声をかける者がいた。


「ただ賢しいだけの若造じゃなかったようだな、フリードリヒは。参謀として実戦で使える策を出せる奴だった」


 そう言ったのは騎士ヤーグ。軍歴で言えば別動隊の最古参で、オリヴァーが伏兵を指揮する間、山道を進軍する百人の指揮権を預かっていた壮年の騎士。


「そうだな。あいつを見出したホーゼンフェルト閣下のご判断は、やはり正しかったのだろう……後は、この現実を乗り越えられるかどうかだ。こればかりはあいつ次第だ」


 オリヴァーが戦友たちの遺体に視線を向けながら言う間にも、新たな遺体が運ばれてくる。


・・・・・・


 山道を東に抜け、野営地に戻ったフリードリヒは、自身の天幕に入るなり膝から崩れ落ちた。


「……っ!」


 まだ動揺が収まらない。むしろ酷くなっている。鼓動が異様に速い。息がひどく苦しい。視界が歪む。

 死んだ。仲間が死んだ。

 出会ってからまだそれほど経っていない。それでも、共に時間を過ごした。共に訓練をした。食事をした。泊りがけの野営訓練では、共に並んで眠りについたこともあった。彼らの名前も、彼らの声も、彼らがどのように笑うかも知っている。

 そんな連隊の仲間たちが死んだ。

 自分の策で死んだ。

 自分が考えた策によって、彼らは迫りくる何倍もの敵から逃げることを許されず戦い続け、あるいは何倍もの敵の只中に斬り込むことを強いられ、そして死んだ。

 自分が彼らを殺した。

 それなのに、誰も自分を責めなかった。それどころか称賛の言葉を投げかけてきた。

 オリヴァーもそうだ。彼はあの結果がまるで良いことであるかのように語った。彼自身も消えない傷を顔に負ったというのに、ただ自分を褒めてくれた。休むよう優しく諭してくれた。

 何なんだこれは。

 あれが当たり前なのか。あんな光景が、軍人にとっては当たり前なのか。

 いや、分かっていたはずだ。勝利すれば誰も死なずに済むなどと、甘いことを考えていたわけではないはずだ。そこに仲間の死体があると分かった上で山道に足を踏み入れたはずだ。

 しかし、頭で理解するのと実際に目の当たりにするのとは違った。間近で見る友軍の死は、歴史書に記されるようなただの数字でもなければ、英雄譚に記されるような華々しく感動的な物語でもなかった。

 見知った者たちが泣き叫び、血まみれになり、内臓を溢れさせ、身体を欠損させ、死んだ。あれが戦場の光景だ。軍人ならば当然のように触れる光景だ。

 では自分も、あの場で皆と一緒に喜ぶべきだったのか。策がうまくいったと、敵に勝ったと。見知った仲間たちの遺体の横で、生きている仲間たちと喜びを分かち合うべきだったのか。

 思っていたよりも少ない損害で勝利を得たと、仲間の命をまるで盤上の駒のように数えながら、策を講じた者として戦功を誇るべきだったのか。

 そんな自分はとても想像できない。また吐き気がこみ上げてくる。頭がおかしくなりそうだ。


「やだ……嫌だ……」


 怖い。

 思考の奥底からとめどなく溢れる恐怖に飲まれそうになる。


「――フリードリヒ」


 そのとき。

 顔を上げると、ユーリカが目の前に立っていた。

 彼女は座り込むフリードリヒの前に自身も膝をつき、そのままフリードリヒを抱き締める。フリードリヒの頭を、自身の胸に優しく押し抱く。


「泣いていいよ。どれだけ泣いてもいいの。我慢しなくていいの。全部、私が受け止めてあげるから。私にはそれしかできないけど、それだけはできるから」

「……っ」


 フリードリヒはユーリカに縋りつく。これ以上は我慢できなかった。

 自分でも説明のつかない、得体の知れない恐怖と不安。吐き出したそばから新たに湧き起こるその感情に、今このときだけでも耐えるには、ただ泣き続けるしかなかった。

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