第13話 沙汰
それから、沈黙が訪れた。
マティアスは何も言わずに、フリードリヒをじっと見下ろしていた。
実際はさして長くない、しかしフリードリヒにとっては永遠かと思うほどに長い沈黙の後、再びマティアスが口を開いた。
「面白い」
彼はそう言って、微かに笑った。
「元孤児のフリードリヒ。お前の沙汰を決めた……私の庇護の下、王国軍に入れ。嘘と策略で盗賊の群れを撃滅した、その賢しさをもって国に仕えてみろ。貢献をもって、私の私生児を騙った償いとしろ」
「……」
自身に下された沙汰を聞いたフリードリヒは、呆けた表情で固まった。
最初は、言われた意味が分からなかった。ゆっくりとその言葉を噛みしめ、理解するとともに、自然と目が見開かれた。
「どうした? 嫌か?」
マティアスは静かに問うてくる。
嫌ではなかった。これが罰だとは思わなかった。
英雄に見出されたのだ。そう思った。
生ける英雄の下で軍人になる。それは、何者でもない無力な羊である自分が、何者かになれる可能性を得る唯一の機会なのだと思えた。おそらく、生涯で一度きりの機会なのだと。
マティアスの青い双眸に見据えられながら、心の中にあるのは歪な高揚。そしてあまりにも底知れない未来に対する、不安と表裏一体の希望だった。
「……」
フリードリヒは横を向いた。
ユーリカは今は叫ぶことも這うこともなく、身体を起こして床に座り、こちらを見ていた。
フリードリヒが問いかけるような視線を向けると、ユーリカは猿轡をされた口をニッと広げながら目を細めた。彼女がいつもフリードリヒに向ける笑顔だった。
ユーリカはフリードリヒのいる場所に一緒にいる。フリードリヒのすることを一緒にする。これからもずっと。
彼女が言ったことを思い出しながら、フリードリヒは再び前を向く。
「心して務めます。閣下……畏れながら、ひとつだけお願いが」
その言葉を生意気とみなしたのか、マティアスの傍らに控えるグレゴールが気色ばむ。マティアスはそれを手振りで制し、フリードリヒに向けて口を開く。
「言ってみろ」
「ユーリカも、私と一緒に閣下の下へお迎えください。彼女はきっと強い戦力になります。盗賊との戦いでは、生まれて初めて握った剣で頭領に一対一で挑みかかり、相手が手負いだったとはいえ勝利しました」
不安げな表情でフリードリヒが言うと、マティアスは口の端を小さく歪める。
「いいだろう。お前は肉体的に精強には見えないからな。その娘に自分を守らせながら、賢しさを活かして国に尽くす在り方を見つけろ」
「感謝します、閣下」
よかった。これからもユーリカと一緒にいられる。心の底から安堵しながら、フリードリヒはマティアスに深々と頭を下げた。
そうしながら、視線だけをユーリカに向けて促すと、彼女も見よう見まねでマティアスに向けて一礼していた。
マティアスが兵士たちに指示を出し、フリードリヒとユーリカの拘束が解かれる。
グレゴールがユーリカを警戒するような仕草を見せたが、生憎ユーリカはこの期に及んで空気を読めないほど獣じみてはいない。彼女はフリードリヒと共に立ち上がり、ただ静かにフリードリヒの隣に寄り添った。
「それではフリードリヒ。それにユーリカと言ったな。今よりお前たちを、我がホーゼンフェルト伯爵家の従士とする。王都に帰還した後、お前たちに軍人として必要な能力を身につけさせた上で連隊に加える……数日後にはこの都市を発つ予定だ。それまでに身辺整理を済ませておけ」
「承知しました」
ろくな家財もなく、親しいと言える相手も少ないので、数日もかからないだろうが。そう思いながら、フリードリヒは頷いた。
「以上だ。今日は帰ってよい」
・・・・・・
フリードリヒがユーリカを連れて倉庫を出ていった後。マティアスはグレゴールを振り返る。
「不満だったか? 私があの若者に下した沙汰が」
「いえ。閣下のご決定に不満などあろうはずもなく」
ホーゼンフェルト伯爵家に仕える従士長であり、フェルディナント連隊においてマティアスの副官を務めるグレゴールは、無表情で即答する。
彼が無理やり表情を殺しているのだと、長年の付き合いであるマティアスにはすぐに分かった。
「本音を言ってみろ」
「……では畏れながら。閣下が今後、何か焦りを抱きながらご決断をなされるのではないかと危惧しております。あれはただの孤児上がりの小僧です」
内心を見破られているのはお互い様か。そう思いながら、マティアスは苦笑する。
「分かっている。あれがルドルフではないことは」
久々に、亡き息子の名を口に出したと、マティアスは思った。
成人してから間もなく結婚した妻は、出産で死んだ。彼女を忘れることのできなかったマティアスは、貴族として褒められたことではないと分かりながらも再婚はしなかった。
妻が命と引き換えに産んだ一人息子のルドルフも、初陣から数えて三度目の戦いで死んだ。英雄の息子にふさわしく聡明で、英雄の息子らしく勇敢であろうと懸命で、国境紛争の最中に孤立した小隊を救おうと無茶をして戦死した。まだ十八だった。
周囲からは、再婚しないのであれば養子をとるよう勧められたが、英雄という異名を持つ自分に無理強いまでする者はいなかった。国王でさえも。
それをいいことに、家族を持たないままで八年を過ごした。これが神の意思なのだとしたら、このままホーゼンフェルト伯爵家を自分の代で終えて構わないなどと考えながら。
なので、この都市に到着してあの青年の話を聞いたときは、怒りではなく興味が湧いた。
元孤児という身でありながら、策をめぐらせ、民衆を率いて盗賊を討った。
そのような若者が自分の息子を騙り、その直後に自分と出会った。話によると。息子の享年と同じ十八歳だという。
これは何か、神の意思なのだろうか。そう思わなかったと言えば嘘になる。
顔や体格が似ているわけではない。ルドルフはもっと精悍な顔立ちで、背も高かった。
声も違う。記憶にあるルドルフの声はもっと低かった。
まだ少し話しただけだが、おそらく性格も、似ても似つかないだろう。
あの若者は死んだ息子ではない。
「だが……ずっと考えていた。もし私が本当に養子をとるとしたら、果たしてどのような者がふさわしいか。私の役割を継がせる者がいるとすれば、それは一体どのような者か。私が庇護を与えてホーゼンフェルト伯爵家を継がせるとしたら、どのような者を選ぶべきか」
「あの小僧がそれだと?」
「かもしれない。あの若者は、智慧のみで民衆を鼓舞し、統率し、そして勝利を掴んだ。誰にでもできることではない。そうだろう?」
主人の言葉に、しかしグレゴールは渋い表情を返す。
「……僭越ながら、先ほどあの小僧を見た限りでは、とてもあれが閣下の後を継ぐ男としてふさわしいとは思えませんでした。今回の盗賊討伐の功績に関しても、ただのまぐれではないかと」
「ははは、まぐれであれだけのことを成したと言うか」
マティアスは小さく笑いながら、フリードリヒが去っていった方を見る。
「違うな。あれはまぐれで成せることではない。危機を前に恐怖ではなく力を湧き起こす。現実から尻尾を巻いて逃げるのではなく、現実に牙を剥いて挑みかかる。そして勝利を手にし、危機を乗り越える。それはごく一部の、選ばれし者だけにできることだ。あの若者は……今はまだ私の後を継ぐ器でなくとも、いずれそうなる可能性を秘めている」
あの青年には、死んだ息子と同じ才覚の片鱗を感じた。ごく限られた者のみが持つ才覚。指揮下の者たちを勝利に導く、将としての才覚の匂いを感じた。
そう、同じ才覚の匂いをまとっている。その一点においてのみ、あの青年は息子に似ている。
「とはいえ、まだ可能性だけの話だ。あの若者は今以上には成長せず、己の可能性を無駄にして終わるかもしれない。功績を上げるのはあれ一度きりかもしれない。だから私も、決断を急いてあの若者をすぐに養子にとるなどとは言わない。そうするときは熟慮した上で決断する。これで納得してくれたか?」
「……はっ」
マティアスが視線を向けると、グレゴールは軽く頭を下げて答えた。
「とりあえず、王都に戻ったらあの若者を私の屋敷に置く。付いてくる娘の方も一緒にな。その上で、ひとまず必要な能力を叩き込む。軍人としての基本的な教育は、お前が施してやってくれ」
「今まで閣下よりいただいたご指示の中で、最も困難な内容ですな」
顔をしかめる従士長を見て、マティアスは小さく吹き出した。
「そこまで言うか」
「あのように軟弱そうな小僧、軍人と呼べる程度にまで育つとは思えません。あの小僧よりは、隣に引っ付いていた娘の方がよほど見込みがありそうでした」
「確かにな。両手が使えない状態でお前に飛びかかったあの娘の挙動、あれは尋常ではなかった。上手く鍛えれば、あの娘は私やお前よりも強くなるかもしれん」
生真面目な顔のまま軽口をたたくグレゴールに、マティアスは笑みを浮かべて首肯する。
「だが、優先するのはあくまであの若者、フリードリヒの方だ。戦場では腕ではなく頭を使わせるつもりだから、戦闘で使い物になるようにしろとは言わない。最低限の体力があれば、剣術は護身のための最低限で、馬術も自力で行軍できる程度でいい」
「なかなか酷ですな。そのような状態で従軍させるというのも」
「だからこそあのユーリカという娘も受け入れた。扱いづらそうではあるが、見たところフリードリヒの言うことは素直に聞くようだったからな。あれが専属の護衛として付いていれば、見るからに軟弱そうなフリードリヒもそうそう死ぬことはあるまい」
それでも死ぬようであればそれまで。運がなかっただけの話だ。流れ矢に目を貫かれて死んだ息子と同じように。
内心だけで、マティアスはそう呟く。
「どうだグレゴール。面倒をかけるが、頼まれてくれないか?」
「……無論です。閣下の御為とあらば、必ずやあの小僧を最低限まで鍛えてご覧に入れます。ついでにあの小娘も」
「そう言ってくれると思っていた」
敬礼したグレゴールの肩を叩き、マティアスは倉庫を後にした。
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