第14話 旅立ち
ボルガを発つまでの数日間、フリードリヒとユーリカは穏やかに過ごした。
僅かな荷物をまとめ、住んでいた集合住宅の部屋を引き払い、最後の夜は教会で育ての親アルマや他の修道女たちや老司祭、孤児たちと食事を共にした。
世話になった者たち――今まで仕事を依頼してくれた顧客や、その他の顔馴染みの者への挨拶も済ませた。
ボルガの住民たちは意外にも、彼らに嘘をついたフリードリヒに対して優しかった。結果として皆を救ったことに対する礼を言ってくる者も多かった。
なかでもブルーノが最も熱心に礼を伝えてきたことに、フリードリヒは驚いた。
話によると彼らボルガの住民は、貴族の縁者を騙ったフリードリヒが厳罰に問われないよう、マティアス・ホーゼンフェルト伯爵に歎願したのだという。皆の行動がマティアスの下した沙汰にどう影響したかは分からないが、少なくとも彼に悪い印象は与えなかったはずだった。
皆との会話を経て、フリードリヒの心境には多少の変化があった。
変わり映えのしない日常に浸るボルガの住民たち。複雑に物事を考えることを嫌う庶民たち。素朴で、保守的で、悪気なく元孤児のフリードリヒとユーリカを軽んじてきた者たち。
しかし彼らは、彼ら全員を騙したフリードリヒを拒絶しなかった。以前までとさして変わらない態度で、表情で、接してくれる。良くも悪くも、彼らなりのかたちでフリードリヒの存在を受け入れている。
ここで一生を終えたいとはやはり思わない。しかし、ここで過ごした少年時代はそう悪くなかったと、今は思えた。
間もなくこの故郷を去る哀愁から湧き起こる気持ちだとしても、そう思えてしまった。
今日、これから、フリードリヒとユーリカはボルガを出ていく。
「……お前は、どこかで騎乗を習ったことがあったのか?」
「いえ、閣下。ユーリカはこの数日、手の空いている騎士の方々から少し指導を受けただけです」
出発の日の朝。当たり前のように馬にまたがり、手綱を扱うユーリカを見て、マティアスが怪訝な顔をする。ユーリカに代わってフリードリヒがそう答える。
フェルディナント連隊の軍人たちはボルガの周囲一帯を捜索したが、盗賊の別動隊などは結局見つからなかった。交代で捜索を行う間、待機組の者は暇を持て余した。
彼ら騎士が馬を操る様を見て「あれなら自分にもできそう」などと発言したユーリカに、騎士たちは冗談半分で騎乗を教えた。すると、ユーリカは驚くべき上達を見せたのだった。
「大したもんです。基礎的なことだけ教えたら、後は勘で難なく馬を操ってみせた」
「騎乗戦闘はさすがに無理でしょうが、王都まで自分で馬を操る程度のことは、今の時点でもできるんじゃないですかね?」
「天性の才覚でしょうな。私はこの段階まで数週間かかったというのに。羨ましい」
ユーリカに騎乗の基礎を教えた張本人である騎士たちが言うと、マティアスは少し呆れた表情でため息を吐く。
「暇だったからといって勝手なことを……まあいい。ユーリカ、その馬にフリードリヒと二人、騎乗して王都まで行軍できるか?」
「できると思う……思います」
途中で思い出したように敬語に直したユーリカの返答を聞き、マティアスは今度はフリードリヒを向いた。
「お前たちは荷馬車にでも乗せるつもりだったが、自分たちで馬に乗って騎兵部隊についてこられるのであればその方がいい。そうしろ」
「分かりました、閣下」
ユーリカの後ろで馬に乗っているだけでいいのなら、楽なものだ。そう思いながらフリードリヒは頷いた。
・・・・・・
その日の午後、フリードリヒはフェルディナント連隊と共にボルガを発つ。
およそ千人から成る連隊のうち、徒歩移動の歩兵部隊と弓兵部隊は午前中に発っているため、今から出発するのは百騎の騎兵のみ。鞄ひとつを持って馬に乗るだけのフリードリヒとユーリカは、いつでも出発できる状態で騎士たちの準備が済むのを待つ。
門の前での見送りには、多くの住民が出てきてくれた。
「頭が良いフリードリヒと化け物みてえに強いユーリカなら、きっと凄い軍人になれるぜ。頑張れよな! 俺のこと忘れんなよ!」
「……ありがとう、ブルーノ」
どんな心境の変化があったのか、まるで仲の良かった友人のような顔で言うブルーノに、フリードリヒは微妙な表情で答える。ユーリカはブルーノを完全に無視し、自分の長い髪を指で弄ったりしている。
彼以外にも、仕事の得意先だった者やよく通っていた商店の店主など、特に見知った者たちが口々に言葉をかけてくる。激励の言葉、名残を惜しむ言葉、中には「安く事務仕事を頼める奴がいなくなって悲しい」などという、悪気はないのだろうが相変わらずな言葉もあった。
そのような言葉にも、フリードリヒは笑顔で応える。去り行くだけの立場となれば、どんな言葉も笑って流せる。悪気なく軽んじられるこの扱いも、いずれ懐かしむものになるのだろう。
「フリードリヒ。ユーリカ」
笑顔を作るフリードリヒと、そろそろ露骨に面倒くさそうな表情になってきたユーリカに、新たに声をかける者がいた。修道女と孤児たちを連れた老司祭だった。
彼らの登場に、ユーリカは面倒くさそうな表情を引っ込めた。
集まっていた住民たちは自然と下がる。フリードリヒとユーリカにとって、彼ら教会の人々が家族代わりの存在であることは皆分かっている。
「司祭様。それに皆も。わざわざありがとうございます」
「お前たちは教会で育った子だ。その旅立ちとなれば、皆で見送るのは当然のことだ」
老司祭はいつものように、穏やかな声と表情で言った。
このボルガと周辺の村の教会まで管轄する老司祭は多忙で、孤児たちと直接接する機会は決して多くない。それでも彼は教会の代表であり、すなわち孤児の保護者であり、フリードリヒとユーリカが成人するまで庇護してくれた存在だった。
「お前たちはいつか、このボルガを旅立っていくのではないかと思っていた。お前たちがまだ幼い頃、フリードリヒが聡明さを発揮し、ユーリカが強さを発揮し始めた頃から予感していた。これもまた神の御意思なのかもしれぬ……お前たちならきっと大丈夫だ。よく励み、正しき行いを為しなさい」
「はい。司祭様」
フリードリヒは老司祭の目をしっかりと見ながら、彼の言葉に頷く。隣に寄り添うユーリカも、老司祭に素直に頷いた。
その後は修道女や孤児たちと言葉を交わし、最後にアルマと向き合う。
「……王国軍は、あなたたちが才覚を発揮するには最適の場なのかもしれません。辛いこともあるでしょう。危険な目に遭うこともあるでしょう。あなたたちが正しく生き、国と社会のために貢献し、息災でいられるよう、一日も欠かすことなく神に祈ると約束します。二人とも、どうか元気でいなさい」
「ありがとうございます。アルマ先生。先生もどうかお元気で」
答えたフリードリヒに、両手を広げたアルマが歩み寄る。
フリードリヒたちは王国軍に入る。そして、アルマはもう老人と言っていい年齢。これが今生の別れになることもあり得る。知識教養を与えてくれた師であり、赤ん坊の頃から面倒を見てくれた親代わりであるアルマと、フリードリヒは抱擁を交わす。
アルマはユーリカに向けても両手を広げ、ユーリカはそれに応えて彼女に抱きつく。
「忘れないよ、アルマ先生」
ユーリカの言葉に、アルマは無言で頷いた。彼女の目から一筋、涙が流れた。
「フリードリヒ。そろそろ出発だ」
そこへやって来たのはマティアスだった。伯爵家の当主であり、生ける英雄である彼を前に、集っている住民たち全員が一礼する。
マティアスは彼らを見回し、老司祭とアルマに向けて口を開く。
「この二人は私が責任をもって庇護下に置く。どうかご安心を」
「二人を何卒よろしくお願いいたします。伯爵閣下」
聖職者への敬意として丁寧に語ったマティアスに、老司祭が代表して答えた。
マティアスが隊列の先頭へと移動し、騎兵部隊はいよいよ出発のときを迎える。
フリードリヒたちに預けられた馬に、まずはユーリカが乗る。
「おいで、フリードリヒ」
馬は背が高く、慣れていない者はただ騎乗するだけでも苦労する。ユーリカが差し出した手を取り、彼女に引き上げてもらい、フリードリヒも馬に乗る。
隊列先頭から、グレゴールが騎士たちに出発を宣言する声が響いた。
二列縦隊の隊列がゆっくりと動き出し、その最後尾にフリードリヒたちもつく。これが初めての行軍とは思えない慣れた所作でユーリカが馬を出発させ、騎士たちの後ろに続く。
フリードリヒは後ろを振り返る。小都市ボルガが、門の前に立つ皆が、遠くなっていく。
「フリードリヒ、不安?」
ユーリカが問う声が聞こえ、フリードリヒは前に向き直る。
「……少しだけ」
「そっか。でも大丈夫だよ。私は傍についてるから」
そう言って振り向いたユーリカの、ニッと笑う横顔が見えた。
「ありがとう。そうだね、二人でいれば大丈夫だ」
ユーリカは一緒にいてくれる。それはこれからも変わらない。
そして、自分はボルガを出た。嫌気が差していながら、しかし旅立つ勇気までは持てなかった。そんな故郷からついに出た。
望んでいたはずだ。こんな日が来ることを。もう何年も前からずっと。
歴史書や物語本を読みながら憧れた人生が、待っているかもしれないのだ。英雄譚のような人生が現実のものとなり、自分のものとなるかもしれないのだ。
子供じみているとは思いながらも、そんな期待を覚えずにはいられなかった。不安もあるが、それを上回る高揚があった。
「ここまで来たんだ。思っていたかたちとは違ったけど、機会を得たんだ。無駄にはしない」
呟くように、フリードリヒは言った。
「そうだね、私のフリードリヒ」
ユーリカが手綱から片手を離し、自身の腰のあたりを掴むフリードリヒの手に重ねた。優しく温かい手だった。
・・・・・・
「……これでよかったのでしょうか」
旅立っていくフリードリヒとユーリカを見送りながら、アルマは隣の老司祭だけに聞こえる声で言った。
「私は、幼かったフリードリヒが吸収するままに知識を与えました。読み書きや計算ができるだけでなく、難解な書物を読めるだけの知識まで。聡明になったあの子が、自分の出自や立場、生き方に悩んでいたことは分かっていました……私が考えなしに知識を与えなければ、あの子とユーリカがこのように困難な道へと旅立つこともなかったのかもしれません」
フリードリヒは、アルマが今まで育てた孤児の中でもずば抜けて賢かった。アルマの持ちうる知識を尽く吸収し、それだけでは飽き足らず教会の書物から知識を貪った。そうして世界を、歴史を知ったフリードリヒは、狭い人生の中でその聡明さを持て余していた。
悩みを抱え、それを隠しているつもりの彼を見ながら、アルマは思った。彼が本来抱えずに済んだはずの苦しみや悩みを、自分が与えたのではないかと。
そしてとうとう、フリードリヒはボルガを去った。生ける英雄マティアス・ホーゼンフェルト伯爵に才覚を見出され、元孤児の田舎平民では本来ありえなかった人生の道のりを歩み始めた。ユーリカも、当然のように彼についていった。
この地では得られなかった可能性を手にした、と言っていいのだろう。彼の望みが叶ったと見ることもできるだろう。しかし、可能性とは良い方向にばかり広がるわけではない。
驚くほどに賢い子だ。機会さえあれば、おそらくは王国軍でも頭角を現すのだろう。軍人として栄誉を手にするかもしれない。同時に重い責任を。大きな苦しみを。
彼の聡明さに命を救われた自分たちは、聡明さを発揮したが故に旅立つ彼を見送っている。まるで、彼の平穏な人生を生贄にして助かってしまったようではないか。これは良いことだったと、正しいことだったと、手放しで言えるのだろうか。
彼はいつか、もしかしたらそう遠くないうちにも、田舎で庶民として生きている方が幸せだったと後悔することになるのではないか。そう思わずにはいられなかった。
「人の可能性とは、運命とは、他者が阻むべきものではありません。そして、他者が阻む必要もありません」
穏やかな声色で、老司祭が答える。
「フリードリヒは大きな可能性を秘めた青年です。彼の才覚が世に知られ、花開くのだとすれば、それは神が定めた彼の運命なのでしょう。あなたは彼の人生において、あなたの果たすべき役割を果たしたのです」
老司祭の言葉は、静かにアルマの心に響く。
「今日から、共に祈りましょう。フリードリヒとユーリカの人生に多くの幸があらんことを。困難が立ちはだかるのであれば、彼らがそれを乗り越えられることを」
「……はい。司祭様」
アルマは頷き、前を向く。
フリードリヒと出会った日のことは覚えている。まだ赤ん坊の彼を、自分が最初に籠の中から抱き上げた。
立派な青年へと成長したフリードリヒの背中が、遠ざかっていく。
★★★★★★★
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