第5話 無力な羊

 その翌日。代官ヘルマンの激励と住民たちの見送りを受け、デニス率いる討伐隊は早朝にボルガを南へ出発していった。

 早ければ昼過ぎにも、盗賊討伐を終えて帰還してくるだろう。都市の住民たちも、もちろんフリードリヒもそう予想していたが、事態は予想外の展開を迎えた。

 意外と時間がかかっているな、と誰もが思い始めた日暮れ前。討伐隊のうち二人だけが、血まみれになって帰ってきたことで、都市内は騒然となる。


「ぜ、全滅だ! 俺たち以外は皆殺しにされた!」


 広場の真ん中に立ち、住民たちに囲まれながら、血みどろの生還者は叫んだ。


「四、五人なんてもんじゃねえ! 盗賊は何十人もいやがった! 五十人、いや百人いたかもしれねえ! おまけに、戦い慣れてそうなものすごく強そうな連中で……領軍兵士も、俺たち以外の志願者も、次々に殺された!」


「俺たちはまだ若いからって、デニスさんが逃がしてくれたんだ。都市の皆にこの事態を伝えに行けって命令をくれて……そのときはまだ何人か生きてたけど、きっとそいつらもデニスさんももう死んじまってる……」


 その言葉を聞いて、まず上がったのは泣き声と悲鳴だった。盗賊討伐に志願した者や、領軍兵士の家族たちの声だった。

 犠牲者の家族が泣き崩れ、あるいは呆然と膝をつき、それを周囲の者が慰め、抱き締める。

 重い空気が広場に漂う中で、他の住民たちは近くの者同士でざわざわと話す。広場に集まる住民は次第に増え、この都市の全住民が集まっているのではないかと思うほどごった返す。


「ねえ、フリードリヒ」

「……きっと、最初に少人数で姿を現したこと自体が盗賊の罠だったんだろうね。数人程度の盗賊が相手なら、討伐隊として動員する人数は普通はその十倍もいかない。せいぜい二、三十人の討伐隊が出てきたところで、それを殲滅してしまえば、主力になる兵士や男を失ったこのボルガはまともな戦力がなくなる。領都から援軍を呼ぶとしても、これだけ大規模な盗賊に対応できる兵力なんて、領主様もすぐには動かせない。到着はどんなに早くても数日後。それまで略奪し放題、殺し放題だ」


 広場の混乱にはあまり興味がなさそうに、ユーリカが声をかけてくる。呼ばれたフリードリヒは自身の見解をそう語る。


「な、なあ。これからどうするんだ?」

「早くなんとかしないと……明日か、下手をすれば今夜中にも盗賊たちがここに来てしまうんじゃないの?」


 討伐隊が全滅した報に対するどよめきがひと段落した後、皆の話題はこれからのことに移る。


「そ、そうだ。代官のヘルマン様は?」

「あの人、ドーフェン子爵家の親戚なんだろう? 貴族様の血を引いてるお方だ。教養もあるはずだし、解決策を教えてくれるんじゃあ……」

「それがいいわ。ヘルマン様に、これからどうすればいいか聞きましょう」

「生き残りの二人は、最初にヘルマン様に報告に行ったんだろう? もしかしたら、ヘルマン様はもう何か策を考え出してるかもしれない!」


 何人かがそう言い、皆が口々に同意する。判断を仰ぐべき支配者層の人間がまだ残っているという事実を前に、安堵の空気が流れる。

 しかし、それもほんのひと時のことだった。


「た、大変だ!」


 代官屋敷の方から、屋敷で使用人として働いている男が広場に駆け込んでくる。


「ヘルマン様が、家族を連れて馬車で出ていった! 助けを呼んでくるって言って……」


 一瞬の沈黙が広場を包み、それはすぐに喧騒に変わる。


「あの野郎!」

「代官のくせに逃げやがった! 都市も俺たちも見捨てて!」

「どうするんだよ! デニスさんも代官様もなしで、領軍兵士や頼りになる連中も死んじまって、俺たちだけでどうしろっていうんだよ!」


 皆が憤りや混乱を抱えて騒ぐ様を見ながら、ユーリカが笑みを浮かべた。


「ふふふっ。なんか凄いことになってきたねぇ」

「……まったく、あの馬鹿代官」


 一方のフリードリヒはため息を吐き、呆れ声で呟く。

 ヘルマン。彼の父の代からこのボルガの代官で、当代ドーフェン子爵の従弟にあたる人物だと聞いている。温和な性格で、平時であれば民にとって悪くない代官だが、非常時に真っ先に逃げるようでは無能と謗られても自業自得だろう。

 おまけに、このボルガの南東には森に覆われた小高い山があり、東の領都へと続く街道は、山を避けるように南門から弧を描いて伸びている。

 そのため、領都へ行く場合はボルガを出て一度南側に進むことになる。今まさに南から迫り来る盗賊たちと出くわす可能性を考えると、少人数で逃げるのはむしろ愚策だ。これから日が暮れることを考えると尚更に。

 今、最も生き残る可能性が高いのは、おそらく皆で力を合わせて襲撃に備えること。

 ボルガの人口五百人のうち、戦力となる成人男子は百五十人程度だが、それでも盗賊よりは頭数が多い。小さいとはいえ都市にいるこちらには地の利もある。戦いの経験などない者ばかりだが、それでも上手くやれば盗賊を追い払うことくらいはできるだろう。

 問題は、誰が皆をまとめ、盗賊への対抗策を考えるか。フリードリヒとしては、今まで多くの書物で戦いに触れてきたので多少は自信がある。今からの話し合いの主導権を握りたい。しかし、果たして元孤児の自分の意見を皆が聞いてくれるだろうか。

 そのような心配をしていると、しかし話はフリードリヒの予想外の方向へと動く。


「誰かなんとかしてくれよ!」

「ひゃ、百人いるかもしれない盗賊なんて……どうしようもないじゃない!」

「じゃあこのまま死ぬしかないのか!?」


 怒声が、悲鳴が、大人たちの当惑ぶりに怯えた子供たちの泣き声が響き渡り、広場を包む。誰もが戸惑い、恐怖し、混乱が広がる。


「もう駄目だ! この都市も俺たちも終わりだ!」

「嫌だ。誰か助けて!」

「こ、このまま無惨に殺されるくらいなら、いっそ今楽になった方が……」

「ああ、空と大地と海を創られし唯一絶対の神よ。私はあなた様の忠実なる僕。私の亡き後、どうかこの魂をあなた様の御許へと導きたまえ」


 ただ嘆く者。泣き叫ぶ者。諦める者。神に縋る者。皆に共通しているのは、事態を打開するための思考を放棄している、ということだった。

 そんな民衆の有様を見ながら、フリードリヒは呆然とする。


「……何だこれ」


 呆然としたまま、言葉が零れる。

 どうして、誰も自分の頭で考えない。この状況をどうにか変えようと考えない。

 このまま喚いてばかりいたら、どうなるか分かっているのか。

 確かに、今ここに残っているのは庶民層ばかり。このボルガをほとんど出たこともなく、出ようなどとそもそも考えない者ばかり。複雑に思考するための言葉も知らず、自分の仕事と生活の範囲内でしか物事を考えられない者ばかり。

それ以上を考えられる者はほとんどが死んだ。あるいは逃げた。

 だからといって、まさかここまでとは。

 誰か一人くらい、現実を直視して、諦めず、頭を働かせている者はいないのか。


「……」


 フリードリヒは広場を歩き回りながら、皆を見回す。ユーリカが後ろに続く。

 教会の司祭は。この都市に残っている唯一の、一応は指導者側の人間だ。

 そう思いながら教会の方を見ると、その前にはフリードリヒたちが孤児だった頃の法的な保護者である老司祭がいた。彼は膝をついて縋る住民たちに神の祈りを捧げていた。アルマをはじめ修道女たちもそうしていた。

 それだけだった。それ以上のことは何もしていなかった。

 当然と言えば当然だった。彼らは社会から敬意を払われる聖職者ではあるが、宗教勢力の政治的権威が弱まって久しい現在では、何か具体的な影響力を持つことはほぼない。ましてや、盗賊との戦いで指導力を発揮することなど期待できるわけがない。

 仕方ない。では、他の者たちは。

 例えば、若者の中に抵抗の気概を捨てていない者はいないか。いつも腕っぷしを自慢している不良のブルーノたちなどは。

 そう思って探すと、彼らは広場の端の方にいた。


「な、なあブルーノ。どうするんだよ」

「俺に聞くなよ! どうしようもねえだろ。相手は大勢の盗賊だぞ!」

「じゃ、じゃあ、俺たち死んじまうのか……」


 駄目だった。彼らはそんな会話をしていた。

 考えてみれば、彼らはフリードリヒのような弱い者を相手に腕っぷしを誇るくせに、討伐隊に志願する度胸はない者たちだ。端から期待するだけ無駄だった。

 後は。他には誰かいないのか。


「……」


 フリードリヒは辺りを見回す。

 皆、悲壮と絶望にまみれていた。誰もが簡単に全てを諦めようとしているこの空気に、疑問を感じている様子の者さえいなかった。

 本当に、本当に諦める気なのか。何の対策も取らず、抵抗もせず、これからやって来る盗賊たちに屈するのか。

 そしたらどうなる。財産は全て奪われ、家は焼かれ、女性は犯され、老人や子供は遊び半分に虐待され、男はそれを見せつけられる。最後にはきっと皆殺しにされる。

 それでいいのか。いくら庶民層ばかりだからといって、導いてくれる為政者や軍人がいないからといって、誰も何も手を打たず終わるのか。

 学のない民衆たちは、指示を出す者がいないとここまで頼りないものなのか。奪われるばかりの羊なのか。ではこれからやって来る盗賊たちが狼か。狼の暴力の前に羊は無力なのか。

 自分も、この無力な羊たちと同類なのか。

 歴史書や物語本の中の英雄に憧れ、思いを馳せ、それでも結局はこの民衆と同じか。元孤児の自分を侮り、軽んじてきたくせに、今はただ泣き喚くばかりの彼らと、自分も同類だというのか。

 同類のまま、ここで死ぬのか。ユーリカも、自分の命も守れず。

 名も無き無力な羊。これが自分の人生か。受け入れるべきなのか。

 そう思うと――腹が立った。


「ふざけるな」


 無意識のうちに、そう言っていた。自分でも驚くほど、怒りに満ちた声だった。

 隣を向くと、ユーリカと目が合った。

 彼女も片眉を上げて驚いていて、そして――笑みを見せた。


「フリードリヒの好きにして。私は全部任せるし、ついていくよ? この先何があっても」


 嬉しそうで、危うげで、まるでこのまま火の中にでも毒の海にでも断崖絶壁の下にでも飛び込んでいきそうな、そんな妖艶な笑みだった。


「……」


 ユーリカの笑顔と言葉が、最後の一押しになった。

 フリードリヒも彼女に笑みを返すと、広場の中央に走る。朝に討伐隊の激励式が行われてそのまま置かれている壇上に立ち、そして皆を向く。


「諦めるな!」


 おそらく、人生で一番大きな声を出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る