第3話 フリードリヒの日常③

「……ユーリカ。今回はどこで誰と喧嘩をしたのですか?」

「ん? 何の話?」


 都市の中央広場に面して立つ教会の中で、老修道女アルマに指摘されたユーリカはいたずらっぽい笑みを浮かべる。彼女の服のところどころは砂と土で汚れているので、少々派手に暴れたことは見る者が見ればすぐに分かった。

 あくまでもとぼけるユーリカの態度を見て、フリードリヒたちの育ての親であるアルマは嘆息しただけだった。ユーリカのこのような態度や言動については、既に諦められている。


「毎回言っていますが、刑事罰に問われるような暴れ方はしてはいけませんよ。フリードリヒも、あなたは頭が良いのですから、ユーリカが無茶をしないよう見ていてあげなさい。元孤児のあなたたちは立場が弱いのですから……それで、今日もいつも通りですか?」

「はい。まとまった報酬をもらったので、少しですが寄付に」


 そう言って、フリードリヒは銅貨を二枚、二〇スローネを差し出す。

 大した額ではないが、これでも今教会にいる数人の孤児たちの、数日分の食事代にはなる。


「確かに、受け取りました。寄付者の名簿に記録しておきましょう……いつも言っていますが、無理はしなくていいのですよ?」

「もちろん無理のない範囲で寄付してますよ。本当です」


 自分たちはこの教会で育てられたおかげで、成人するまで生き延びられた。アルマから読み書き計算を習い、今は元孤児のわりには良い暮らしができている。

 なので、今教会で育っている孤児たちや、これから育つ孤児たちのために、できる貢献はしたいと、フリードリヒは本心から考えている。


「……そう。ならいいわ。正しき行いをするあなたたち二人を、神の祝福が守りますように」


 空、大地、海を表す三角形を胸の前で描き、両の手のひらを重ねながら祈りの言葉を唱えるアルマの前で、フリードリヒは静かに目礼した。ユーリカもこのときばかりは、フリードリヒと同じように目礼した。


「それでは二人とも。これからも誠実に生きるのですよ。また教会にも顔を出しなさい」

「はい。ありがとうございます、アルマ先生」


 フリードリヒはアルマに感謝を伝え、ユーリカと共に教会を辞した。


・・・・・・

 

 フリードリヒとユーリカが住んでいるのは、都市の端にある集合住宅街。継ぐ家も農地も店や工房もなく実家の厄介者になった次男以下の独身者や、家族持ちの中でも貧しい者たちが寄り集まるように暮らす区画。

 そこにある古い二階建ての集合住宅の、二階の一室がフリードリヒたちの自宅だった。一間と厠と台所があるだけの我が家で、豚肉の蒸し焼きと、買い置きのパンと適当に作ったスープの夕食を終えた二人は、夜の短い自由時間をのんびりと過ごす。


「……」


 フリードリヒが真剣な面持ちで手にしているのは、書物だった。

 孤児として教会で育った出自。アルマをはじめ修道女たちや教会の司祭からも認められた秀才ぶり。小まめに寄付をする真面目な生き様をもって築き上げた信用。それらを担保に、フリードリヒは特例的に教会から書物を借りて持ち帰る許可を得ている。

 好んで読むのは、偉人の活躍を描いた歴史書や物語本の類。その中でも戦いを記したもの。かつてこの大陸で名を馳せた君主や貴族、武勇や智慧をもって敵を撃ち破った将たちに思いを馳せるのが、フリードリヒの夜や休日の楽しみだった。

 今読んでいるのも、そんな戦記の類だった。

 開いている歴史書に記されているのは、今から十八年前、フリードリヒが生まれた年に起こった戦争。ここエーデルシュタイン王国と、西の隣国との大戦。

 この戦いで敵将を討ち取るという大活躍をした英雄マティアス・ホーゼンフェルト伯爵は、今も現役の軍人として国を守っているという。

 その英雄マティアスに、華々しく描かれる彼の戦いぶりに、歴史の転換点となる大戦の戦場に、それらを想像する頭の中の景色に、フリードリヒは魅了される。

 これは現実逃避でもあった。歴史や物語の世界に没入している間は、自分の出自も、周囲からの扱いも、その他のあらゆる不満や不安も忘れていられる。

 フリードリヒの人生には、こんな時間が必要だった。

 しかし、そうして逃避していられる時間も間もなく終わる。日は沈み、ランプの油を惜しみなく使えるほどの金銭的余裕はないので、フリードリヒは今日の読書を終えて書物を机に置き、ベッドに寝転がる。


「フリードリヒ、もう寝る?」

「そうだね。明日は仕事は入ってないから、起きる時間は気にせず思いきり寝よう」


 しなやかな動きでベッドに乗ってきたユーリカに問われ、フリードリヒは頷く。

 と、ユーリカはフリードリヒの上にまたがり、いたずらっぽい笑みを浮かべて舌なめずりする。


「明日起きる時間を気にしなくていいなら、今夜は夜更かしして疲れてもいいよねぇ?」

「……そういうことになるね」


 フリードリヒも挑発的な笑みを浮かべて答えると、ユーリカは鼠を見つけた猫のように目をぎらつかせ、そのままフリードリヒに覆いかぶさる。

 自分より背の高いユーリカにこうして押さえつけられたら、フリードリヒはもう逃げられない。逃げるつもりもない。


「じゃあ、思いっきり愛しあって、思いっきり疲れよう? 私のフリードリヒ」


 フリードリヒのシャツをめくり上げながら、ユーリカは言った。


・・・・・・


 それからしばらく経ち、夜も更けた時間。先に眠ったユーリカに抱き枕のように抱き締められながら、フリードリヒは天井を見上げて思案する。

 ユーリカと一緒にいることには、微塵も不満はない。彼女を愛している。これからも彼女とずっと一緒に生きていく。それに不満があるはずもない。

 一人の男としてはそれでいい。では、一人の人間としてはどうだろうか。自分はこのまま、元孤児だからと軽んじられながら、出自を理由に社会のはみ出し者扱いされながら、その不満を飲み込んで退屈な頭脳労働を来る日も来る日も行い、日銭を稼いで生きるのだろうか。

 書物の世界に思いを馳せることを心の慰めとしながら、安価で使い勝手のいい労働力として時間を切り売りし、そのような人間として老いて死んでいくのだろうか。

 この退屈な田舎都市から抜け出すこともなく、代わり映えのしない弛緩した日常の中で、その日常に満足しているつまらない人々に軽んじられ続けるのだろうか。

 書物の中にあるようなきらめきは、心躍る熱量は、後世に知られるような物語は、自分の人生には永遠にあり得ないものなのだろうか。出自が不遇なために、自分はそのような人生を運命づけられているのだろうか。

 そもそも、文字を読み、複雑な文章を理解し、細かい思考を為す能力などを身につけなければ、こんなことで悩まずに済んだのだろうか。


「……」


 頭の中に次から次へと湧いてくる自問を振り払い、フリードリヒは自分を抱くユーリカの胸に顔を埋めた。

 いつものことだが、夜眠る前は埒の明かないことをだらだらと考えてしまって良くない。

 そう。これは考えても仕方のないことだ。こんなものを、悩みなどと呼ぶのも馬鹿らしい。

 自分の人生に本当に満足しながら生きている者など、どうせほとんどいないのだ。大多数の者が人生の意義など端から考えることもなく、あるいは考えることを諦めて生きているのだ。


 だから、自分も考えるだけ無駄だ。人生というのはそういうものだ。

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