第1話 フリードリヒの日常①
自分の人生に満足しながら生きている者は、果たしてどれだけいるのだろうか。
少なくとも自分は違う。そんなことを考えながら、辺境の小都市ボルガに住む十八歳の青年フリードリヒは紙束と向き合い、手を動かしていた。
識字率が二割に満たず、平民は自身の名前を書けて買い物のための簡単な計算ができれば上等というこの社会で、フリードリヒは文章を読み書きし、四則演算を扱うことができる。
なので、こうして屋内で机につき、退屈な仕事をしている。
頭の片側では、自身の人生やら境遇やらについて埒の明かない自問自答をくり広げ、もう片側では目に移る紙の上の文字を認識しながらペンを持った手を動かす。文字を機械的に書き写す。
そうしてしばらく退屈な仕事を続け、やがてそれも終わった。
「……」
手が疲れた。目も疲れた。そう思いながら無言で伸びをする。目を閉じて上を向き、両手をぐっと上に伸ばし、少しばかりすっきりして目を開けると――その顔を覗き込まれる。
「お疲れさま、フリードリヒ。こっちも丁度終わったよぉ?」
艶のある長い黒髪を揺らしながら鈴の鳴るような声で言ったのは、フリードリヒの二歳上の幼馴染、ユーリカだった。
大きな黒い瞳と、赤い唇に彩られてニッと広がる口元。どことなく危険な雰囲気も漂わせる、しかし魅力的なその笑顔を、フリードリヒは自身に向けられて当然のものとして受け止める。
「そう、ユーリカもお疲れさま。それじゃあ……とっとと報告して報酬を受け取って帰ろう」
フリードリヒはそう言って立ち上がり、二人で書き上げた書類の束を手に取る。
ユーリカを伴って向かった先は、この屋敷の主のもとだった。
屋敷の奥まで勝手知ったる足取りで進み、執務室の扉を叩く。
「ヘルマン様。終わりましたよ」
「ん? フリードリヒか。入りなさい」
許可を得て入室し、この屋敷の主ヘルマンと対面する。
ここは代官屋敷。この屋敷の主であるヘルマンは、すなわちこの小都市ボルガの代官でもある。
「早かったな。ちゃんとやったのか?」
「今まで何度も依頼を受けてるのに信用していただけないなんて。悲しいです」
別に悲しそうでもなく言いながら、フリードリヒは書類の束を差し出す。
代官の屋敷は都市の行政府を兼ねている。都市運営の過程では大量の書類が作成され、その中には複数枚が作られるものもある。
書類の複製は、当然ながら全て手書き。読み書きさえできれば単純作業の範疇。ここボルガのような小都市には官僚と呼べるような存在もおらず、都市運営の政務をほほぼ一人で担っているヘルマンは、しかしこうした単純作業を嫌う。
なので、フリードリヒが雇われる。育ての親から読み書き計算を教わったフリードリヒは、日雇いの頭脳労働者として生計を立てており、ヘルマンからも時おり声をかけられる。
フリードリヒほどではないが読み書き計算の心得のあるユーリカも、助手として仕事を手伝ってくれる。フリードリヒが彼女に任せても問題ないと判断した作業をいつも担っている。
「はっはっは。冗談だ。別にお前を信用しとらんわけじゃあないさ……うむ。今回もちゃんと書けているようだな。ご苦労だった」
複製された書類の束をなめるように確認したヘルマンは、でっぷりと突き出た腹を揺らしながら立ち上がり、後ろの棚から小さな袋を取り出す。
「ほら、この二日分の報酬だ。お前の分と、そっちの娘の分、まとめて入ってる」
投げられた小袋をフリードリヒは取り落としかけ、それを隣のユーリカが受け止める。彼女から小袋を手渡されたフリードリヒはそれを開き、中に収められた銀貨と銅貨を確認した。
三二〇スローネ。事前の契約通りの額だった。
フリードリヒは目で金を数えるふりをしながら、しばらく押し黙り、そして顔を上げる。
「確かに。それじゃあ、また仕事があれば呼んでください」
一応は笑顔らしきものを作ってヘルマンに礼を言い、フリードリヒは退室する。ユーリカは気分屋な猫のように、ヘルマンやその他一切を無視し、フリードリヒの背中だけを見て後に続く。
・・・・・・
代官の屋敷を辞したフリードリヒとユーリカは、家までの道を歩く。
「……せっかく報酬も入ったし、今夜は少し贅沢して良いものを食べる?」
「いいね。私、肉が食べたいなぁ。干し肉じゃない本物の肉が」
小袋の入ったポケットを軽く叩きながらフリードリヒが言うと、その腕を抱きとってユーリカがにんまりと笑う。
「それじゃあ、途中で肉屋に寄って豚肉を買おうか……元孤児じゃなかったら、牛肉を買えただろうけど」
フリードリヒは皮肉な笑みを零しながら答えた。
頭脳労働の報酬の相場は、本来であれば一日当たり一二〇スローネは下らない。
しかし、今回受け取った報酬は、二人の二日分で三二〇スローネ。フリードリヒが一日一〇〇スローネで、ユーリカが一日六〇スローネ。
明らかに足元を見られている額。この扱いは、フリードリヒたちの出自に理由があった。
二人は孤児上がりだった。二人とも捨て子だった。属する家を持たず、親の顔さえ知らない二人は、常に社会のはみ出し者と見なされて生きてきた。
なのでフリードリヒは、本来は相場通りの額をもらえて然るべき能力がありながら、相場より安い報酬しか受け取っていない。ユーリカに至っては、一般的な単純労働者の日当程度の額しかもらっていない。
この扱いは今に始まったことではない。フリードリヒたちはいつも、相場より安い報酬で書類の複製や手紙の代筆、商店の帳簿づけや目録作りの補佐、読み書き計算の苦手な自作農の事務仕事の手伝いなどを請け負っている。
依頼者は元孤児のフリードリヒたちに声をかけることで、割安で頭脳労働の人手を得られる。フリードリヒはユーリカと共に安く能力を提供することで、出自の確かな他の頭脳労働者にこの都市での仕事を奪われずに済む。
依頼者とフリードリヒの力関係と利益のバランスをとった結果、フリードリヒたちは孤児出身にしては稼いでいるが、頭脳労働者にしては稼げていない。こうしてまとまった報酬を得た日も、牛肉ではなく豚肉を買うことで節約する。
この扱いに憤ることはもうない。本格的に働き始めたばかりの頃は依頼主に抗議することもあったが、それで状況が悪くなることはあっても良くなることはないと思い知った今は、文句を言おうなどという意思は微塵も湧かない。内心で納得しているかはまた別だが。
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