episode6
「よう、お人好しめ。」
彼女の手を取ったあの駅で、彼女の手を離した後、ぼくは男のバーへと寄った。
カウンターに頬杖をつくという、店員としてあるまじき接客態度を気に留めず、ぼくは男に笑って、男が望んでいるであろうセリフを吐いた。
「……今日は
男は、ぼくを止めなかった。
「……お前、本当にザルだな。」
「前にも言ったことあっただろ、酒に弱かったら来てないって。」
「酔いつぶれられねぇのはご愁傷様。……本当にな。」
余計な世話だ。ぼくは半目で男を見遣ると、そっとメリーウィドウに口を付けた。
……結局、彼女には最後の最後まで、優しくしてしまった。『他の男が好きなのだろう。』とは言わず、自分の心変わりという
これが、彼女の幸せだとは到底思わない。いつぞやの上杉君の言葉が本当なら、春樹先生には恋人がいて、それなら茉緒は失恋だ。
だからこれは、せめてもの意地悪だ。心変わりをされた男の、せめてもの悪戯だ。
もう、涙は流さないと誓った。何もかも、彼女への記憶は、これですべて切り捨てる。これからは、ただの仕事の同僚。それだけだ。
「……ああ、会えてよかった。」
出会うのも三度目になった女の声が、よく耳に通る。以前に二度見た妖艶な印象は薄く、グレーのコートを着たその様は、何処か幼く見えていた。
「……こんばんは。」
「……。」
女は無言のまま、初めて、ぼくの隣に座った。
「アプリコットフィズ、を。」
「はい。」
女は、ぼくの手に視線を注ぐ。それから頭を持ち上げ、ぼくの目を、見た。
「……本当は、暫く時間を置くつもりだったのだけど。私は、とても意地悪だから……。」
「……はい?」
女が零した一言に、ぼくは肩を落として首を傾げる。女の瞳は、輪郭が溶けていた。
女は、男が置いたカクテルに浮かぶ氷をなぞり、溶けた冷たさを唇に乗せた。
「ねぇ、貴方は、私が誰だか、分かるかしら?」
いつの日か聞いた言葉。そう遠くない過去。ぼくの方へと視線を投げたまま、そっと一言、彼女は言った。
「……いいえ。貴女が貴女であること以外、分かりません。」
「そう。……じゃあ、質問を変えるわ。」
はっきりと伝えたぼくの言葉に、女の目尻が揺らぐ。それから、ぼくの手を力強く、引いた。
「私の顔見て、私が誰だか、分かるよね?」
いつの日か、聞いた言葉。そして、目の前の女とは重ならない筈の人間に、言われた言葉。
それに、おれは何もかも忘れてしまうほど、何もかもを忘れることが出来てしまうほど、驚いてしまった。
「……リコ?」
○○○○○○○○○○○○○
リコの職場は大手のアパレル企業だったらしく、周りに気圧されるからメイクを始めたそうだが、化粧一つで、女はこうも変わるものなのか。そこに驚くなと怒られそうだけれど、そう思ってしまったのだから仕方ない。
男はこの事実を知っていたらしく、よくリコの恋愛相談に乗っていたそうだ。幼なじみのへの恋、という話で、リコがおれを好いていることは分かってしまっている。
勿論、そのまますぐにリコと関係を持つことはしなかったし、できなかった。もう二度と、とどれだけ誓っても、記憶は残ってしまっている。それでも、リコは何もかも分かっているという表情で、普段通りの距離を抱いた。
結局、おれからリコへ、芽吹いた想いを伝えるのに、二年以上の年月を費やしてしまった。けれどもリコは、そんなおれの一言に、涙を流して頷いてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます