episode5

「ド平日だぞ⁉」

 開口一番に、それか。

 日暮れのバーテンダーは、ネクタイを緩めたぼくを見て、なんとも間抜けな面を晒し、手に持っていたバーツールを床に落とした。

「……悪いけど、今日は飲むつもりで来てない。実家から、大量にレモン送られてきたから、お裾分けに。」

 喧しいな、という不快感をわざと隠さず、ぼくはスチロール製の箱を手渡す。

「あー、良かった!お前に『今日は自棄ヤケ酒だ!』とか言われたらどうしようかと思った。」

 ……別に、ぼくが平日に酒を飲んでもいいだろう。悪酔いしたことなんて一度も無いのだから。

「ってか、レモン!貰っていいのか?丁度仕入れなきゃならんかったんよな~!サンキュー!」

「店で出すのは避けた方がいい。身内間で回している物だし、味は良くても見た目は不格好だぞ。」

 子供のように騒ぐのは構わないが、バーは夜こそが稼ぎ時ではないのか。バーテンダーがはしゃいでいる店には、どんな人でも入りづらいだろう。

「忙しいのか?時間が少しでもあるなら、ノンアルの飲み物出すから、そこ座ってろ。あ、代金は要らんから。」

 本当はこのまま家に帰って寝たいが、男がすぐに奥へ引っ込んでしまったので断ることもできず、仕方がないので椅子に座った。男の奥さんが此方を見て微笑んだので、ぼくもそれに会釈を返す。

 時間を持て余す感覚が抜けず、次の試験範囲の確認をする為、デジタルの教科書を開いたとき、カランと鈴が鳴った。バーのドアに括り付けられた、華やかな音のする鈴だった。

 高いヒールの音が、等間隔で此方に来る。どこか余裕がありそうなヒールの音が、ぼくの背後で止まった。

「あら、この間の。」

 艶やかなハスキーボイスが、明らかに、ぼくに向かって声を掛けた。勢いをつけて振り返ると、バーの常連の女が、シックなワンピース姿で立っていた。

「どうも……。」

 以前も思ったが、女は本当に、かなりの頻度で此処へ来ているようだ。滅多に来ないぼくと、二度も遭遇するなんて。

「今日は、帰りませんよね?先日はあまりお話しできなかったから。」

 女は、頬を膨らませ、僅かに拗ねて見せるような仕草をした。ほぼ初対面の男と何を話しても、面白いことなんてない筈なのに。

「……まだ、帰りませんよ。」

 女には、不思議な引力があった。今、此処で飲み物を飲む価値より、家に帰る意味の方を見いだせなくなり、留まることを選んでしまった。

 楽しそうに戻ってきた男を、驚かせた女はそのまま、目を丸くした男にアプリコットフィズを頼むと、ぼくの先隣に座った。

 ぼくの話は無闇には聞かず、女は自分の話をし続けた。自分の仕事の話、周りの友人の話、身内の話……。なぜか、何処か聞いたことのある話が浮かんでいて、どんな人間もある程度、同じような生き方をしているのかもしれないと思った。

「……あとは、恋愛絡みかしら。」

 ぽつりと、女が零した。特段興味も無かったけれど、女が話したそうだったので、聞きますよ、とだけ言った。


「子供の頃から仲が良かった男の子がいて、ずっと一緒で。……恥ずかしい話ながら、結婚はこの男とするものだと、思っていたの。でも、その彼に彼女が出来た。」

 女はずっと目を伏せて、グラスの液面を視線でなぞる。鮮やかに彩られた唇が、影を落とす顔にはひどく不自然に映えた。

「おかしい話じゃないの。とても、喜ばしいこと。でも私は、予想以上に驚いてしまった。……好きだと、伝えたことも無い癖に。」

 女の、艶めかしい印象が崩れる。代わりに芽を見せたのは、幼く無邪気な、少女のような印象だった。


「その男性に、告白はしないんですか?」

「告白しに行ってもいいなら、行きたいわ。」

 女は、カクテルを眺めながら言った。フィズの炭酸は、きっとぼくには聞こえない音を出して、消えているのだろう。

 女の話を経て、ぼくは、彼女の顔を思い浮かべてみた。春樹先生に心酔している、茉緒の顔を。

 ……思えなかった。

 数日前、男に向かって「まだ彼女が好きだ。」と言ったばかりなのに。

 浮気をされて気が冷めるなんて、よくある話だ。よくある、話だ。

「あら……。」

 滲んでぼやけた世界の端で、ささやかに女の声が聞こえた。

 ……もう、ぼくは、彼女を好きだと思うことが出来なくなってしまっていた。


○○○○○○○○○○○○○


 ぼくはまだ、人混みの中の彼女を、いとも容易く見つけることが出来る。同じような背格好の中から、彼女の姿だけを目に留めることが出来る。それが恐ろしいほどに空しく、痛いことだとは、よくわかっている。

 恋愛というのは、我儘な上に残酷だ。誰か一人に熱を抱いているときは、その先にも前にもその人しか想えないのに、不意な思い付きで時間ときを置いたら、それは二度と燃えない。

 気化したパラフィンのもとに火を纏うキャンドルの芯は、再度火をつけることはできない。燃え果てて千切れたらそれが最後、もう一度すら、蜃気楼を見せることは無い。

 恋という炎で崩れかけた灰を、ぼくは掬うことが出来なかった。寛大な心など、持ち合わせてはいなかった。

 心が狭いと、自分勝手だと、いくらでも言われて構わない。それが、紛れもないぼくなのだから。


 彼女の心変わりを許すことが出来るくらい、優しくなれればよかった。

 もう、二度と、取り戻せないけれど。

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