episode4
「茉緒。」
職場の階段の踊り場で、ぼくは茉緒に声を掛けた。
別に、恋人同士なのだから、名を呼ばれてもおかしくない。ましてや同僚なのだから、声を掛けられることは何の不自然でもない。けれど、ぼくに名を呼ばれた茉緒の表情は、なぜか酷くぎこちなかった。
「どうしたの?」
表情が硬いくせに、声は明るい。不自然なその様子に、ぼくの肩が跳ねる。
「……昨日、どうして来なかった?」
待ち合わせから二時間たっても、茉緒は来なかった。連絡もつかず、時間だけを無駄にしてしまった。
……デートの、約束。
「茉緒、少し、話したいことがある。」
茉緒には、他の男を好いているという自覚がない。それを何度も心と口先で唱えて暗示をかけてから、彼女が頷くのを見た。
壊れてきているのかもしれない。
「……
よく、生徒から呼ばれるぼくの渾名。別におかしなことではないけれど、ぼくを一度もそう呼んだことがない生徒の声だったので、驚いた。
「う、
「よかった。やっと気づきましたね。」
中等部一年の生徒の上杉君。確か、辞職なさった先生の元教え子で、現在は春樹先生が担任を受け持っている一年三組の生徒だ。
腕白な少年、という言葉が似合いそうな、擦り傷だらけの日焼け顔。頭の回転は早くて、学年順位も上の生徒だ。
「生坂先生、落とし物です。」
そんな上杉君は、普段と同様の笑顔を見せると、ぼくに向かって赤のボールペンを差し出した。
「あ、ありがとう!」
「いえいえ。偶然、おれが先生の後ろにいただけですから。」
上杉君はそう言って、その場を去ろうと後ろを向く。けれども途中で足を止め、ぼくに振り返った。
「先生。余計な世話かもしれないですけど、おれのクラスメイトに、春樹先生の親戚の子がいるんですよ。」
噂で、そんな話が上がっていたのは知っている。けれど、あまりに突拍子もない話題に、その糸口が見当たらない。
狼狽えていると、上杉君は壁に寄りかかりながら言った。
「あの人、一応、恋人いるらしいですよ。辰野先生を諦めるか否かの判断の参考にしてください。」
……今朝の会話を聞かれていたのか。それとも、以前から勘付かれていたか。
それでは、と今度こそ歩き始めた上杉君が、なんだかひどく大人びて見えた。
そして、その背には、知りたくないのに裏を知った、身動ぎできない子供の影も、映っていた。
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