第2部-1章

第13話 静かな時間

 大きな騒ぎになったデルファイ・カンパニーの大規模暴走事故から、四日が経った。


「『全く新しい暴走現象 原因は今も調査中』『〈赤い記憶石スカーレット・ストーン〉は脅威か福音か? 三十六職人エンジニア財団の見解は』……やっぱり、話題になり始めてる」


 伝書鳩ピジョンから受け取った新聞に目を通しながら、ハリエットは独り言のように呟いた。どの紙面にも、赤色に染まった記憶石と今回の事故の関連性について、調査報告やさまざまな専門家の見解――というより「憶測」と呼んだ方が良さそうな内容が、仰々しい文体で書き連ねてある。


「怪しい石は全部取り替えるべきだって書いてる人もいる! それでこんなに依頼が増えてるのね」

「受ける数を制限した方がいいのではないでしょうか。ここ数日の依頼には、ただ時間を削られるだけのものも多かったはず」

「とは言っても、みんなには心配いらないって納得して帰ってもらいたいし……」


 出会ってからおよそ一週間。今までは自分の中で目まぐるしく回るだけだった思考を言葉で共有しているうちに、いつの間にかハリエットの言葉遣いは柔らかくほぐれていた。


 事務所のローテーブルいっぱいに広げたファイルに新聞の切り抜きをまた一枚貼り付け、少女は小さくため息をつく。


「そもそも最近の高級機械マシナリーは元から回路が細かいから、赤い線が通っているように見えるのは普通なのに」

「感情を持って生きることに慣れていても――不安に駆られると、ここまで合理的な判断がし難くなるのですね」

「元々そういうものだもの、感情って」


 苦笑いするハリエットの前に、小さなお皿とティーカップがそっと置かれる。お皿の上に乗っていたのは、雪のような粉砂糖がまぶされたベイクドチーズケーキだった。


「えっ、すごい!」

「オリヴィアさまが主人マスターとお茶をする時、よく紅茶と一緒に召し上がっていました。コーヒーに合うかは、私には判断できないのですが」


 カップには濃いめのコーヒーが注がれ、ほかほかと湯気を立ち上らせている。ハリエットは作業の手を止めてカップに口をつけ、ケーキを口に運んだ。


「美味しい」

「改善すべき点はありますか?」

「こんなに良い出来なのに、お菓子作りに詳しくないわたしが言えることなんて」


 笑って手を振ると、セブンスが少し残念そうに肩を落とすのが分かった。その姿に慌てて、ハリエットは追加の一欠片を口に運ぶ。


「……コーヒーに合わせるなら、わたしはもう少し舌触りがしっかりしている方が良い、かも?」


 とても小さな声だったが、しっかりと聞き留めたセブンスが微笑んだ。


「それなら、次は生地の材料と冷やす時間を工夫してみましょう。他にありますか?」

「い、いやいやいやもう本当に! とっても美味しいから!」

「それなら良かった」


 ニコニコと笑う彼を見ながら、ハリエットはコーヒーを一口啜った。


「記憶を確かめるために料理をするなら、オリヴィアさんやアスター氏のために作っていたものを再現できるだけで良かったんじゃ……?」

「調理法の再現だけなら容易です。食べてくれる方の意見を聞いて、また作って……その過程が私の感情を動かし、記憶を呼び覚ますようです」

「それなら、良いのかな」


 純粋に彼の目的達成を願っているのだろう。ハリエットは考える表情を浮かべてから、納得したようにうなずいた。イライザが見たら、「じれったい!」と言いそうな光景だ。

 ハリエットもセブンスも、それぞれ他人にとても気を遣う。それがこの一週間二人が穏やかに過ごせた理由であり、いまだに「ようやく敬語が外れた」程度に止まっている理由でもあった。


「このケーキを通して、思い出せたことはあった?」

「そうですね……オリヴィアさまと主人マスターは、お二人ともミルクティーを好んで飲まれていたのですが。ミルクに紅茶を注ぐべきか、紅茶にミルクを注ぐべきか、その議論だけはずっと並行線でした」

「ふふ、永遠の議論の種ね。どっちがどっちだったの?」

主人マスターは紅茶を先に、オリヴィアさまはミルクを先に入れるのが正解だと。ある時主人マスターが、『機械人形オートマタなら合理的な判断ができるはずだから、セブンスがどう淹れるか見てみよう』と提案しました。それで私が呼ばれたのですが……私は普段ミルクと紅茶を混ぜる段階をお二人に任せていましたし、私自身に判断ができるはずもありませんでしたから。『どちらを先にしましょうか』と尋ねてしまい、お二人は唖然として。なぜそうなったのかまるで理解できない私を置いて、元通りの激論が始まってしまいました」

「あはは! それはそうよね」


 ハリエットは楽しそうに笑って、メモ帳を取り出しサラサラと鉛筆を走らせた。可愛らしくデフォルメされた老婦人と紳士がテーブルを囲み、「紅茶!」「ミルク!」とそれぞれ熱弁するイラストが描かれる。その上には、同じような日常を切り取る絵がいくつも描かれていた。


「――イライザ警部があなたに今回の仕事を任せた理由が、ようやく分かってきました」

「印象に残るファイルはあった?」

「昨夜最後に目を通したのは、三代にわたって使われていたアンティークの自動茶器オート・ティーウェアに関するファイルです。詳細記録に目を通すまでは、あのような機械をここまで長期間使い続けるのは非合理的だと感じていました。これまでの修繕にかけてきた費用は、新型の機器を購入する費用より多かったはずです」

「読んでみて、どうだった?」

「『愛着』という感情の力を知りました。……私に繰り返し改良を加えながら四十三年間を過ごした主人マスターにも、あのような思いがあったのでしょうか?」

「きっと、あったはずよ」


『感情を持ったかもしれない機械』の調査をイライザがハリエットに頼んだ、大きな理由の一つ。それが、彼女が趣味で続けている記録だった。

 ハリエットが主に依頼を受けているのは、家庭で使う機械マシナリーの修繕や解体だ。彼女は依頼人から機械のトラブルに関する話を聞きながら、その機械の「物語」を聞くのが好きだった。

 どうやって手に入れ、どんな日々を過ごしてきたのか。これから生まれ変わる、あるいはいなくなってしまう機械を軸にした家族の歴史を書き留めて、作業に関する記録と共にファイルに収める。メカニックになったのとほとんど同じ頃から積み上げ始めたファイルは、今や棚一つを埋めるほどになっていた。


「あなたの話は、そのうちファイル一冊を丸々埋めるくらいになりそう」

「読める日が来るのが楽しみです。――ですが、あなた自身の時間を削りすぎないようにしてください。昨日も工房で、かなり遅い時間まで作業していましたよね?」

「ああ……そう! それで思い出した。イライザさんに提案されて作っていたものが、もうすぐ出来上がるの。明日イライザさんが来てくれれば、完成するはず」

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