第3話 依頼

 背中がこわばるのが自分でも分かった。呼吸が速くなって、思わずぎゅっとスカートの裾を握りしめる。


「ほら三年くらい前に」

「画家だったっけ?」

「小説家だよ」

「『機械はこわいものです』って」

「そこら中にビラを撒いた」

「旦那は確か職人エンジニアでさ」

「娘がいたってことか」


 ざわざわと広がり始めた声を振り切るように、ハリエットは歩き出した。少しずつ、少しずつ歩調が早くなっていく。聞こえていないような顔で、野次馬の横を通り過ぎる。大丈夫、ただの噂話。よくあること。今日は一週間ぶりの晴れの日で、今ならなんだってできそうなくらい気分のいい日。


 依頼が片付いたら仕事が増える前に『本日お休み』の看板を出して、四層のマーケットで思い切り買い物をしよう。その後で疲れていなかったら、補助装置アシスタント・ユニットと銃の手入れくらいはできるはず。夕食はマーケットでいいものを買って、夜はほかほかのアイマスクをつけて早めに寝よう。


 だから大丈夫、大丈夫。


 十層に戻る昇降機エレベーターを目指して、ハリエットは真っ直ぐに歩く。できる限りうつむいて、自分の考えに没頭して、余計なものを見ないように、聞かないように。


 

   * * *



 自宅兼事務所の玄関ドアに手をかけて、ハリエットは小さく深呼吸した。


 仕事を始めてから二年は経つが、依頼人を迎える時にはいつも少し緊張する。特に、家族について色々思い出してしまった直後には。


 ハリエットの母は、数年前に機械の暴走に巻き込まれてからひどく心の調子を崩した。

 元々不安定なところがあったあの人の心は、怪我とショックのせいでいよいよ参ってしまったのだ。街で小さな手押し清掃機が目に入っただけでも過剰な拒絶反応を示すようになったあの頃の彼女の振る舞いは、悪い意味で多くの人の目を引いた。

 今、母は父と共に親族の伝手をたどって郊外で生活している。それでも「ブライトン」という名前から、当時ハリエットの家で起きたことを思い出す人はまだ少なくない。


(大丈夫、ここに来るのは「メリッサ・ブライトンの娘」じゃなくて、ちゃんと「メカニックのハリエット」を見てくれる人たちよ)


 そう自分に言い聞かせ、意を決して扉を開ける。


「お待たせしました、ただいま戻りまし、た……⁈」

「おかえりなさいご主人様マスター。荷物をお預かりいたします、……」


 ほとんど同時に口を開いたハリエットと青年は、玄関を挟んでぴたりと静止した。


 片手を前に、もう一方の手を背に。凛とした姿勢でハリエットを出迎えた青年の姿は、さながらどこかの名家の使用人のように見えた。それがあまりにも様になっているものだから、(うちで雇ってる人だっけ……?)とありえるはずもない考えが頭をよぎってしまう。


 束の間、二人の間から音すら消える。やがて先に動き出したのは、青年の方だった。


「……失礼いたしました、ミス・ブライトン。つい習慣に従って動いてしまいました」


 涼しい顔のまま、背筋をまっすぐ伸ばした見事な所作で頭を下げる。寝ぼけたような間違いと隙のない動きのギャップに、ハリエットの唇から気の抜けた笑いが漏れた。


「っふ、ふふ、何ですかそれ」

「長年、執事バトラーに近いことをしていたので――」

「そうじゃなくて、ふふ、あはは」


 一気に緊張がほぐれてしまい、応接スペースに誘導する時にはすっかり調子を取り戻していた。青年がソファに腰掛けたのを確認して、ハリエットは荷物を片付けキッチンへ向かう。自動茶器オート・ティーウェアから紅茶の入ったカップを取り上げ、トレイに乗せて事務所のテーブルへ運んだ。


「少し時間が経ってしまったのですが、よければ」


 カップを置くと、青年は軽く会釈した。ただ、手をつける様子はない。ハリエットは正面の椅子に座り、美しい客人と向き合った。


「本日は事務所にお越しくださり、ありがとうございます。改めて、ご用件をお伺いいたします」


 青年は言葉を探すように視線を下げ、やがておもむろに顔を上げた。その間も、やはり上半身はほとんど揺らがない。

 そして口にされた質問は、ハリエットを驚かせるものだった。


「先ほど暴走したという運搬機の記憶石は、赤く変色していましたか」

「え……? どうして、それを」

「そういった『暴走事件』が、近頃相次いでいませんか」

「は、はい。確かにこの一、二カ月で急増しています。でもこのことは、まだ一部の技術者しか知らないはずで――」

「やはり、そうなんですね。……ミス・ブライトン」


 彼は少しだけ間を置いて、話を切り出した。


「私は今、あなた方の言う『暴走』状態にあります」


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