第24話

 夜になって、ハルはもう一度小屋を出た。空を見上げれば満天の星だが、ハルの目には光の糸の輝き具合が真っ先に入ってくる。

 弱い、と思う。密なレースのようだったマクリーンの光の糸に比べたら、みっともないくらい隙間が多い。

 マクリーンの光の糸は、ターレンとかいう氏族の殺意も魔女の呪法も察知してエディアを救った。自分の糸は?

 ……城の内部に生まれるはっきりした敵意は、たぶん、感知できる。

 だが、光の糸とつながってみてわかった。ちょっと考えれば当たり前なのだが──これは外に対する防御が主な目的の魔法なのだ。

 気配を隠して忍び込もうとする悪霊や呪詛を絡めとるには、自分の糸はスキだらけだ。

 魔女に言われたエディアを守る覚悟の前に、守る力がないかもしれない。

 ハルは昼間辿った同じ道を歩く。空気は凍るように冷たくて、マントを体に巻きつけても寒い。

 林を抜け、橋を渡り、王子を見かけた花壇も過ぎて……。

 玄関ホールへと続くアプローチには向かわない。噴水の横を曲がり、中庭へと歩いていく。

 なんとなく、だ。だが、魔法使いの『なんとなく』を舐めてはいけない。

 中庭に張り出したバルコニー。エディアが姫様だったとき、花を届けて、王子と鉢合わせると飽きもしないで口ゲンカした場所。

 星の照らすバルコニーにエディアはいた。

 ゆったりとした白の夜間着を着ている。髪は背中に自然に垂れて青白く星の光を弾いている。

 空を見上げるエディアを、ハルは見上げる。手すりに置いた手にエリカの花。頬にきらりと星の光を反射するものがあって泣いているとわかる。

 泣く理由はいくらもあるだろう。そもそも父王が死んでまだ二月と経っていないし、王様なんて気苦労は多いだろうし、弟王子の命は救ったものの王子自身はめちゃくちゃ落ち込んでいるし……。

 ハルはバルコニーの近くの木を素早く登った。ガサガサ、と枝葉が揺れて、エディアがハッと音のする方を見る。ハルは枝からバルコニーの手すりに飛びつき、手すりを乗り越えてエディアの前に立つ。

「ハル……」

 呟いて、エディアは慌てて両手で顔をこすった。涙を。

 手に持ったエリカの花が揺れる。

「なあ、エディア、おまえ、なんでひとりで泣くんだ?」

 聞くと、エディアは鼻をすすってから答えた。

「ひとりで泣く方が気楽だからだ」

 なるほど。……自分も誰もいない夜にマクリーンの眠るハーブ畑で泣いたから、気持ちはわからないでもないが。

 ハルはエディアの横に並んで、バルコニーの手すりに両腕を置いた。

「俺は胸でも肩でも、好きな場所、貸してやるぞ」

 エディアを見ると、涙の残った目で、エディアは笑った。

「ありがとう、ハル。花だけで充分だ」

 手にしたエリカを頬に当てる。

「ありがとう?」

「ハルからなのだろう? ディアナムが、そう言って渡してくれた」

 ちっ、とハルは舌打ちする。なんだ、正直に俺からだと言ったのか、あいつ。

「嬉しくて、気がついたら泣いていた」

 ため息のような声でエディアは続ける。

「でも、もしかしたら、お別れの贈り物かもしれないと気づいて、今度は悲しくなってしまっていたところだ」

「お別れ?」

「マクリーンがいなくなって、ここにはハルを繋ぎ止めるものはなくなってしまったから」

 ハルを見るエディアの目は、涙に濡れたせいか星明りのせいか、いつもよりいっそう澄んでいる。その目でエディアはハルに尋ねる。

「ハルはお別れの挨拶に私を訪ねてくれたのだろうか」

 ハルは静かに長く息を吐いた。

 マクリーンがいなくなって、ここにはハルを繋ぎ止めるものはない───いや、実は、マクリーンが残した光の糸に自分を繋いでしまっているのだが。

 それに、繋ぎ止めるものなら他にもある、つーか……。

「で、どう? 王様をやってみて」

「楽でないのはもともと承知している。確かにやってみなければわからない苦労はあるが」

 余計なモン、抱えちまったしな───というのは心の中だけにした。

 処刑されるはずだったディアナム王子。

 自分も手を貸したことだ。今の王子を見ると、助けてよかったんだろうか、という気持ちもふと浮かぶ。だが、あのときは、自分が王子が処刑されることが嫌だったんだから仕方ない。

「ヘタレ王子は助けにならないか」

 言ったら、エデイアの顔が悲しそうになった。

「王を助けるところを、大臣たちに見せるために補佐官にしたんだろ?」

 王子だってエディアを助け支える存在になりたかったはずだ。そして、今こそエディアには支えが必要だ。

 エディアの返事はない。

「親がやらかしたことで、あんなに引け目を感じるこたあねーのに」

 花壇に座り込んでいた王子の様子を思い浮かべて思ったままを言うと、エディアがようやくぽつりと応えを返した。

「……ディアナムは傷ついているのだ」

「キズ……?」

「母君が私に呪法を仕掛けたことに」

 どういうことだ? と顔に出したら、エディアは少し笑った。

「例えば……マクリーンが私を呪殺しようとしたら、ハルもきっとショックを受けるだろう?」

「は? マクリーンがそんなことするわけねえだろ?」

「うん。ない。でも、想像したら、ショックじゃないか?」

 想像してみた。マクリーンがエディアを……。

 ずん、と心が重くなった。これはショックなんてもんじゃない。

「大好きなひとが呪法を使ったことに、ディアナムは傷ついているのだと思う」

 そうだ。マクリーンがそんなことをすると想像しただけで心が切られる気がする。しかも、呪った相手がエディアだったら……。

 ああ、わかった。王子は母親が大好きな気持ちとエディアが大好きな気持ちで、心がふたつに切られてしまったんだ。

「……しょうがねえな」

 と、ハルは夜空に言った。

「王子は俺の手下にしてやる」

 冷えた空気に沈黙が落ちた。

「……は?」

 ちょっと間の抜けたタイミングで、エディアがそれだけ返す。

「おまえを連れて城を出る話だ。おまえだけ連れていくつもりだったが、王子も連れていってやる。三人で城を出て──遠くまで行くんだ」

 エディアの目が大きく開く。そんなこと考えたこともなかったみたいに。

「冒険するのもいいな。楽しいぞ。危険があっても俺の魔法があれば大丈夫だ。王子の剣術もちっとは役に立つだろう。おまえはグランガルの姫じゃなくなるけど、ずっと俺たちの姫だ。──どうだ、エディア」

「……信じられない」

 ハルの顔を見つめたあと、エディアは強張った頬で微かに笑んだ。

「でも、おまえたちはすぐにケンカするのだろう?」

「ああ? するわけねえだろう? 俺はボスで、王子は手下だ。手下はボスの命令に従ってりゃいいんだ」

 星の光が降る音が聞こえそうな静寂の中で、ハルとエディアの囁きが低く夜気を震わせる。

 世界にふたりだけでいるみたいだ。

「ディアナムはハルの命令は聞かないと思う」

「生意気だからな、あいつは」

「奇遇だな。ディアナムもハルのことを生意気だと言っていたことがある」

「そういうところが生意気なんだよ」

 くすくすとエディアが忍び笑う。

 ……やがてエディアは、

「ありがとう、ハル」

 と、言った。

「楽しい時を持てた。気持ちが弱くなったら、今夜のことを思い出すことにする」

 エディアの瞳には透明な滴が浮かんでいたが、エディアは指先でその滴を払う。

「私はここで務めを果たす。ハルは自由に生きてくれ」

「……そうか」

 ハルは呟き、手すりから体を離した。それ以上は何も言わないでバルコニーから枝を伝い、庭に下りる。

 地面に立って見上げると、バルコニーのエディアは星を見ていた。自分がここから立ち去ったら、エディアはまたひとりで泣くんだろうか。

 歩き出すハルの唇から、白い息が闇に流れた。

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