第18話

 王は死んだ。

 宰相を後ろ盾にすでに王の名代として務めを果たしていたエディアは、グランガル王国に忠誠を誓うという簡素な宣誓式で即位を済ませた。

 王になって最初の務めは、父の葬儀。それもまた、威儀を失わない程度に簡素なものだった。だが、弔いの鐘は、王都だけでなく地方の都市でも三日に渡って打ち鳴らされたそうだ。ハルは意識していなかったが、エディアの父は民にそこそこ慕われていた王様だったらしい。

 ハルは鐘の音をマクリーンの小屋で、ハーブ畑で、エディアのバルコニーの下で聞いた。

 王が死んだ日から、ハルはエディアに会っていない。

 風に耳を澄ませば、王都の民の、エディアに対する同情と不安が伝わってくる。

 ──母上様のお顔も知らず、父上様も亡くされるとは、なんてお気の毒な姫様なんだろう。

 ──それはそうだが、これからを考えると、小娘が王では周りの国に侮られはしないだろうか。宰相様がついているとはいっても、宰相様もお年だ……。

「エディア様がここに学びに来ることはもうないでしょう」

 と、マクリーンは言った。

 王が死んで五日目の朝だった。窓際のテーブルで朝食をとっているときだった。

 なんとなくそんな気はしていたが、マクリーンの言葉は予想以上に重くハルの胸に落ちた。

「王子は?」

 聞いてみた。あいつも来なくなるんだろうか。

「ディアナム様は王を補佐するお役目を担うでしょう。おそらくはディアナム様もここへは……」

 ……来なくなるのか。───そりゃあ嬉しいな。

「エディア様は、これからは王として、私に学ぶのではなく助言を求める立場になります」

 ハルはスープの皿に落としていた視線を上げた。

「来るのか?」

 学びには来なくても、助言を求めて、ここへ。

「公に助言が必要とされるときは、私を城にお召しになるでしょう。そうでないときは、お忍びでここを訪れるか、ディアナム様を使者にするでしょう」

 お忍び、来い! と思った。使者は要らねえ。

 ……そうか、ふたりとも、まったく来なくなるわけじゃないんだ。

 マクリーンが微笑んでいた。

「私の跡を継いで王家に仕えれば、ずっとエディア様とディアナム様のそばにいられますよ」

 ハルはいつも通り拒絶の言葉を口にしようとしたのだが。

 突然、マクリーンの顔から表情が消えた。すっ、と目線を上へと向ける。

 つられて上を見たハルの目に、あるべき天井は映らなかった。

 見えたのは、城を包んで守る光の糸。その内側に、どより、と黒い影が生まれている。

 大きくはない。小柄な人間ぐらいだ。だが、夜の闇よりも暗い。

 黒い影は、蛇が這うように、蛇よりもずっと速く、するすると移動する。

 どこへ、と思ったハルの心に、エディアの姿が浮かんだ。

 ハルは立ち上がった。

 黒い影はエディアを狙っている。

 だが、次の瞬間、エディアの姿は光の糸に包まれていた。

 なぜか、ハルも。

 同時に、マクリーンの声が耳元で聞こえた。

 ──ハルベルティ、あなたに出会えて、良かった。

 透ける光の繭の中で、ハルは、黒い影が動きを止めるのを見た。

 影は目標を見失ったように右へ左へさ迷った。が、不意に方向を定めた。

 まっすぐにこちらへ。

 瞬く間に距離を失くして、影は小屋の中に存在した。

 影がマクリーンに襲いかかる。鼻から口から、マクリーンの中に黒い影が入っていく。いつも穏やかなマクリーンの顔が苦し気に歪む。

 ハルは口を大きく開けた。マクリーン、と叫んだつもりだったが、光の繭の中に音は響かなかった。

 ばたり。マクリーンが床に倒れる。

 目の前の出来事なのに、ハルは何もできない。マクリーンに伸ばそうとした手は、光の繭にそっと阻まれた。

 外に出てはいけない、というように。

 見ていることしかできなかった。マクリーンの体が痙攣するのを。

 すぐにマクリーンは動かなくなった。床に横たわるマクリーンの上に、黒い影が揺らぎ立った。マクリーンの中に侵入した影だ。

 影の中から、違う、という声が聞こえた。

 女の声だった。

 不意に、有無を言わせない強い力で引っ張られたように、影が飛び去った。

 長い悲鳴を引きずって。

 ハルを包む光の繭が解けた。ハルは急いでマクリーンのそばに膝をつく。

「マクリーン」

 返事はない。

 ハルはマクリーンの手首をつかんだ。脈打つものはない。

 自分自身の心臓が痛いような速さと強さで打っていたから、それが邪魔して脈を探れないのかと思い、首にも手を当ててみたが、やはり脈動を見つけられない。

「マクリーン」

 これは、死んだふりの魔法かもしれない。俺を驚かせようとして……。

 そう考えて笑おうとする一方で、ハルは黒い影のことを考えていた。

 あの影はエディアを狙っていた。だが、エディアが光に包まれて、影は迷い、マクリーンを襲った。

 光の繭はエディアを影から守った。ハルも守られた。けれど、マクリーンは光の繭の外にいた。

 ミスではない。マクリーンがそんなミスをするはずがない。自分を守る分の魔力が足りなかった、なんてこともありえない。

 わざと、だ。マクリーンはわざと自分を守らなかった──黒い影の標的になるために?

「マクリーン……」

 呼んでみる。動かないマクリーンを。

 呪術についても、マクリーンから聞いていた。呪いを受けたときの対処の仕方も。

 ──呪いは、消し去ることが難しい。なので、呪いを受けることが予感できたときは、身代わりとなる形代を用意しておき、そこに向けて呪いを逸らす。

 ──身代わりを用意できずに呪いを逸らした場合、逸らした呪いは標的に近い別の者に向かい、その者の命を奪う確率が高い。本来の標的に届かなかった呪いは、術としては失敗したことになる。失敗した呪いは術者に返り、術者も命を失う。

 ……標的に近い別の者の命を奪う……。

 体が震え始めていた。

 わざと呪いを受けたのか、マクリーンは。エディアに向かった呪いを。エディアを守って、俺も守って、自分のことは守らないで。

「起きろよ、じじい」

 そういう声も震えていた。

「おまえを倒すのは、俺なんだぞ」

 肩や頬に触れてみるが、反応はない。

 唐突に腹の底から怒りが噴き上がった。

 誰かが呪術を使ったのだ。エディアを狙って。マクリーンはエディアを守り、他の誰も巻き添えにならないように自分の身に呪いを受けた。ご丁寧にハルのことも光の糸に防御させて。

 繭のようにハルを包んでいた光の糸は、解けて、床に渦巻いていた。

 光は繭の形をとっていたときより薄くなっている。少しずつ薄れていく、光……。

 消えてしまう。マクリーンの美しい魔法が。

 考えるより先に手が動いて宙に魔法文字を描いていた。契約の呪文を。

 いつか『深き闇の力』と契約を結ぶように、とマクリーンが教えてくれた呪文だったが。

 ──此処に誓う。清き光よ、我、汝の盟友となる。この身に宿れ。我が望みを叶えよ。……輝き、広がれ。

 マクリーンの遺した光の糸が、ふたたびきらめいた。ふわりと浮き上がり、風が四方に吹くように広がった。

 ハルは目を閉じた。

 自分が光の糸の中心にいるのを感じる。自分の魔力が糸を伝わる。城にふわりと掛けられたレースの、薄れかけていた光が蘇る。

 マクリーンほど強い輝きは出せなかった。糸と糸の隙間も光で埋めるほどには。

 だが、もう消えない。自分とつながっている限りは。

 そして、ハルは気づく。この糸で、呪術を行った誰かを探し出せることに。

 黒い影は城の中で生まれた。術者は、失敗した呪術の反動で命を落としたはずだ。

 マクリーン以外の、死の気配を探せばいい。黒い影の生まれた、だいたいの方角もわかる。そちらに意識を向けて……。

 すぐにハルは探し当てた。小さな庭に張り出したテラスに倒れた女と、その横にぼう然と座り込むディアナム王子を。

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