第16話
夜が明けないうちに、ハルはハーブ畑に出た。暁光の一筋も差さないハーブ畑には、さすがにまだ王子が来た気配はない。
王子より先に花を届けよう──と、昨夜、思いついたのだ。毎日髪に飾っているくらいだから、きっとエディアはハーブの花が好きなんだ。
摘んだのは、薄紫のラベンダー。昨日自分がエディアの髪から切り落としてしまったのと同じ花。けれど、濃い紫ではなくて、初めて会ったときにエディアが着ていたドレスの色に近い薄い紫。
エディアの部屋は知っていた。中庭に面した二階にある。
いつだったか自分が覗いてしまったバルコニーのある部屋だ。
中庭に立って、ハルはバルコニーを見上げた。
近くの木を登れば、バルコニーに手は届く。ラベンダーをそっと置いてくることはできるだろう。
だが。
ハルは考えた──おそらく、今日も王子はエディアに花を届けに来るだろう。先に花が置いてあるのを見つけたら、王子はその花をポイと捨てて自分が持ってきた花を置くんじゃないだろうか。
俺なら、そうする。
ここは、エディアに花を直接渡すべきだ。
……ていうか、手渡したい。木を登って枝からバルコニーに移って、窓を叩いてエディアを呼ぶ。そうして花を渡して……。
花をもらって喜ぶエディアの顔が見たい。
けれど、喜んで受け取ってもらえる自信が、ない。嫌な顔をされたら……と想像すると、バルコニーを見上げたまま動けない。
ぐずぐずしていると王子が来てしまう、と焦りながら、やっぱり木を登れないでいると、バルコニーにエディアが出てきた。
心の準備ができてなかったハルはバルコニーを見上げたまま固まる。
エディアは白いチュニック姿で、髪は結んでいなかった。空に向かって大きく伸びをしたあと、手すりに手を置いて、庭を見下ろす。
見上げるハルと視線が合った。
自分を見た途端、エディアの顔が強張った。さっ、と体の向きを変え、部屋に入ってしまった。
あっという間だった。
これは、つまり……俺の顔も見たくない、ということか?
ハルは登る予定だった木の根元に腰を下ろした。予想外に気持ちが凹んでいる。すぐには歩き出せないくらいに。
このまま城を出ようかな、なんて考えが胸を掠めた。これからずっと、小屋を訪れるエディアと背中合わせのままひと言もしゃべらないのは、何か切ない。
同時に、あんな女どうでもいいんだよ、マクリーンよりすごい魔法使いになれれば……なんてことも思ったり。
とにかく王子が来る前にここから離れなきゃ、と考えついたとき、バルコニーの下のドアがバタンと開いた。
飛び出してくる、エディア。周囲を見回し、木の根元に座るハルを見つけると、走り寄ってきた。
ハルは黙ってエディアを見上げ、エディアも無言でハルを見下ろす。
軽く唇を噛んでから、ハルは握っていた小さな花束をエディアに差し出した──というか、突きつけた。
エディアは目を見開いた。
「私に?」
こく、とハルは頷く。
「では、ハルは私のことを怒ってないのか?」
今度はハルが目を大きく開いた。
エディアはハルの前に膝をついた。黒い瞳がハルの目と同じ高さになる。
「昨日は、すまなかった」
自分に謝ったのだと理解するまで、ちょっと時間がかかってしまった。
「……えっ」
思わず声に出る。なんでエディアが俺に謝るんだ?
「短気を起こして……ハルに暴言を吐いてしまったり、その、叩いてしまったりした」
それは俺がそれなりのことをしたからだ、という自覚はあって、ハルは何と応じていいかわからない。
沈黙を続けていると、エディアは小さく息をついた。
「反省して、考えたのだが、私があのような愚かしい行動をとったのはディアナムにもらった花を切られたからだ、と思う」
ディアナム──ハルの心がぎゅっと固くなる。そんなに大事か、弟王子の贈り物が。
握ったままのラベンダーを放り出したくなったが。
「本当は、私、よく迷っているのだ」
エディアが黒い瞳を伏せて、ハルはラベンダーを投げそうになった手を止める。
「私の判断は正しいだろうか、誰かを不当に傷つけてはいないだろうか……だが、私が迷う様子を見せては周りの者が不安になる」
語る声は低く小さい。ここには自分たちふたりしかいないのに。……きっと、エディアにとっては、誰にも聞かれたくないことなのだ。
「私は家臣を信頼しているが、無防備でいるわけにはいかない。私を利用しようとする者も、私の足元を掬おうとする者も、いるかもしれない。良い心に魔が差すこともありうる。だけど、何も考えないで心を預けられる者もいる。マクリーンもそうだし……ディアナムもそうなのだ」
エディアの声があまりにも小さいから、ハルも息を潜めて耳を傾ける。一語も聞き漏らしたくなかったから。
「私とディアナムは、母は違うが、お互いにたったひとりのきょうだいだ。私は姉としてディアナムを守りたいし、弟のディアナムが私を慕ってくれるのがとても嬉しいのだ。だ、だから、あの……」
と、そこでエディアは恥ずかしそうに言い澱む。
「ディアナムが毎朝届けてくれる花が、私にはとても励ましになっていて……それを切られてしまって、私はあのとき自分を抑えることができなくなった。つまり、その……私は未熟なのだ。それでも、ハルはまた私と仲良くしてくれるだろうか」
黒い瞳がハルを真剣に見つめている。
見つめ返して、ハルはちっと舌を打った。
「つまり、おまえ、無理してるんだ?」
王になる者として正しくフェアであるために、無理をしている。
エディアがわずかに体を引いた。
「俺と城を出れば、楽になるぞ。他のやつらのことなんか気にしないで好きなように生きられるし、きれいな服や美味しい食べ物がほしかったら、俺がいくらでも盗んできてやる」
しばしハルを凝視して、エディアは──笑った。初めて会ったときのように、にやり、と。
「やはり面白いな、ハルは」
そう言って、エディアは腕を組んだ。
笑みが不敵な色を帯びて深くなる。
「確かに私には無理をしている。だがな、ハル、ゲームはルールがあるから楽しいのだ」
「ゲーム?」
ハルは聞き返す。
「王様になることか?」
「生きること」
答えは、軽く、返った。
「私はゲームに正々堂々と勝ちにいくつもりなのだが、ときにはきついこともあって、応援がほしくなるのだ。──昨日は、私にとってはとても大切な弟からの応援をハルに踏みにじられた気がして、考える前に怒ってしまった。そんな未熟者の私でも、ハルは許してもう一度友達になってくれるだろうか、と聞いている」
「……誰がおまえと友達になりたいって言ったよ」
エディアを見つめ返して、ハルは言葉を押し出す。ラベンダーを握る手を、改めてエディアの顔の高さに上げた。
「受け取れ。俺の女になれ」
「喜んで受け取るが、おまえの女にはならない──という選択肢はあるか?」
あ、受け取っては、くれるんだ。
「……今日のところは、それでいいにしてやる」
「ありがとう」
薄紫の花がハルの手からエディアの手に移り、エディアは嬉しそうに花穂を頬に当てた。
すべすべした頬が自分の手に触れたように感じて、ハルはちょっとどきどきする。
まあ悪くない気分でエディアを見つめていたのだが、不意にエディアの目線が自分を通り過ぎた。
かたちの良い唇が閃くように笑んでその名前を呼ぶ。
「ディアナム」
悪くない気分がいきなり最悪になった。エディアの視線を追ってふり向くと、王子がこちらに向かって木漏れ日の中を歩いてくる。
ハルはエディアと王子を結ぶ直線上に立ち上がった。
王子は驚いた顔も見せず、ハルの前で足を止め、笑いかけてきた。
「仲直り、できた?」
ハルは王子の左手を見た。薄ピンクの花をつけたオレガノを持っている。
王子の問いに答えたのは、エディア。
「うむ、できたぞ」
ハルは黒いマントの端をつかんだ。
ばっ、とマントを広げて、王子のそばへ行こうとしたエディアの足を止めた。
王子が笑みを消した。
「何の真似? まるで、姫をさらおうとする悪い魔法使いみたいだけど」
おう、いずれはそうなるつもりだ。
だが、今は。
「これからは俺がエディアに花を届ける。おまえはかーちゃんだけに花を贈ってろ」
王子の表情が、じわり、と剣呑なものになる。
「ハル、君、何を言っているのかな」
「おまえは用済みだって言ってるんだよ。エディアに花を渡したかったら、俺を倒してからにしろ」
言った途端、片足が地面から離れた。
足首を蹴り上げられ、地面に転がったハルの横を王子が優雅に通り過ぎる。
「大丈夫か、ハル」
と、ハルに屈もうとしたエディアを押し止め、王子はラベンダーを持つエディアの手に自分の手を添えた。
「どうしたの、このしおしおに萎れたラベンダー」
「ああ、うん、ハルにもらったのだ。仲直りのしるしに」
「小さい子どもが力いっぱい握り締めてきたみたいになっているね」
くすっ、と王子が笑う声がして、ハルはとりあえず上体を起こして地面から怒鳴る。
「何すんだ、くそ王子」
「君が『倒せ』って言ったんだけど。あと、君の言葉、汚い」
「うるせえ。ていうか、おまえら、近過ぎる。離れろ」
ハルは急いで立ち上がり、まるで悪者から庇うようにエディアを背にした王子とにらみ合った。
そこに、エディアの声が割って入る。
「私は今日ふたつも花束がもらえて嬉しいぞ。ふたりが仲良くしてくれたらもっと嬉しいが」
「ごめん。エディアの頼みでも、ちょっと無理」
「俺は端からしねーって言ってるだろーが」
エディアは片手を口元に当てた。可笑しそうに。
「意見が一致するとは、ふたりは気が合うのだな」
「合っていない」
「合ってねーよ」
ふたつの声がさらに見事に重なって、ハルは王子と再びにらみ合う。
エディアだけが、愉快そうに笑っていた。
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