第15話

 マクリーンの長い指が空中に光の文字を出現させる。

 日は沈んだが、月が昇って部屋は明るい。月明かりに浮かぶ光の文字は真珠色でとても綺麗だ。

 空文の魔法。最初は月の力を借りて練習することにしたのだ。

 やってみなさい、とマクリーンに促され、ハルは何もないところに腕を伸ばし指先に心を凝らす。

 伝えたい相手と伝えたいことを思い描くように教えられたけれど、相手も言葉も浮かばない。

 大魔盗団のやつらは、もう自分とは無関係になっちまった感じだし、今さら伝えたいこともないし。

 どうしよう、と考えていたら、ふと思い出したことがあった。

 ……父親には、ちょっと言いたいことがあるかもしれなかった。

 母親の顔は知らない。父親には折檻で殺されかかり、そのときから魔法が使えるようになったような。自分に真っ赤に焼けた火かき棒を振り下ろそうとした男が炎に包まれた場面が記憶の中にある。

 思い出して、ハルはうっすらと笑う。──あのとき、命の危険を感じて、魔法の才能が目覚めたんだろう。だったら、感謝しなけりゃな。俺を殺そうとした……父親に。

 指を動かそうとした。

 ありがとうよ、と。

 が、ハルの指は最初の文字を綴る途中で止まった。

 現れた線が、光ではなく、闇だったから。月の光に紫を滲ませる漆黒。

 驚いた。けれど、すぐにまた唇に笑みをのせた。

 ぴったりだ。俺の気持ちに。

 いったん止まった指を宙に滑らせる。が、その手がマクリーンの手に包まれてふたたび止まった。

「何だよ。邪魔するなよ。ちゃんと書けてるだろ。ちょっと色が違うかもしれねーけど」

 マクリーンは首を小さく左右に振った。

「それは闇の空文です」

「闇じゃダメなのかよ」

 ハルは自分の手をマクリーンの手の中から引っこ抜く。

 ダメだと言われたら、自分の気持ちも否定される気がした。

「いいえ、闇は必要です。誰の心にも」

 マクリーンはハルが振り払った手を自分の胸に当てた。

 それで、ハルは毒気を抜かれる。

「誰でも──って、マクリーンでも、か?」

 美しい光の文字を宙に描き、光の糸で城を守るマクリーンでも?

「私でも」

 柔らかに肯定して、マクリーンは窓のそばの椅子に腰を下ろした。ハルは立ったまま、マクリーンに向かい合う。

「人は、夜のうちにぐっすりと眠って、昼間働いた体の疲れを癒しますね?」

 当たり前なことを聞かれて、ハルは無言で頷く。

「心にも夜は──闇は必要なのです。悩みや悲しみをそこに沈めるために」

 悲しみ、と聞いて、ハルはエディアの目を思い出す。ハルが風で切って落としたラベンダーの花束を拾い上げたときのエディアの目。

「光の中で強く生きるために、人は闇の中で苦しみながら自らを癒すのです」

 思い出す──いつも明るく強く振る舞うエディアは、ひとりで泣いたことがある。

「けれど、ひとりでは癒せない苦しみもあります。癒しきれない恨みや憎しみが闇にあふれてしまうこともあります」

 すっ、とマクリーンの手がハルに伸ばされた。ハルは無意識にその手に自分の手を重ねようとしたが。

「ハルベルティ、あなたには光より闇の魔力が合うでしょう」

 ぴたり、とハルの手が止まる。

「あなたはあなたの闇を深く強いものにしなければならない。どんな苦しみや憎しみも受け止められるほどに。そうでなければ、闇に満ちた悪意にあなたの心は喰われてしまうでしょう」

 マクリーンは優しいまなざしで微かに笑んだ。

「あなたの闇が強くなるまでは、光の魔法を使いなさい。技や術式は同じです。あなたの闇が苦しみに負けないくらい十分に強くなってから、光ではなく闇の力で魔法を使うといいでしょう。きっと私に負けないほどの魔法使いになれますよ」

 止めた手を戻して、ハルはその手を軽く拳に握る。

「……俺は負けねえさ。おまえにも、闇のナントカにも」

 低く吐き捨てて、マクリーンに背を向けた。

 部屋のドアを荒っぽく閉めて、ベッドにどさっと腰を落とす。

 マクリーンの話は、わかったようなわからないような感じのことがよくある。今の話もそうだったけど。

 人は誰も心に闇を抱いていて、そこで自分の苦しみを癒す。──そう聞いてとっさに思い浮かんだのはエディアのことだった。

 ラベンダーを拾い上げたエディアの目に浮かんだ悲しみは、彼女が自身の闇に隠していた悲しみだったんだろうか。

 自分のいるこの部屋で、エディアは泣いていた、とマクリーンは言っていたけれど。

 それは一度だけのことだったのだろうか。マクリーンが気づいたのがその一回というだけで、ホントは何回も泣いていたんじゃないだろうか。

 いつも、ひとりで。

 考えてみれば──母親はエディアを産んですぐ死んだ。父親は病気で、後妻の魔女も心を病んでいる。エディアを利用しようとしたり亡き者にしようとしたりのドロドロもありの中で、凛としてフェアに王の名代を務めるのって、結構……いや、かなりきついだろう。

 俺の女にしてやると、せっかく誘ってやったんだから、そんな面倒なもの放り出して俺と一緒に来ればいいのに……返ってきたのは悲しい目だった。

 暗がりの中で、ハルは滅多にすることのないため息を落とす。

 もう一度エディアに笑ってもらうにはどうしたらいいだろう……。

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