文字煩い

そうざ

Trouble with Text

「如何でしたか?」

 担当医が時候の挨拶のように言う。患者を身構えさせない方針なのか、白衣姿を見掛けた事がない。

 私は、言い訳とも開き直りとも付かずの返事をする事になる。

「駄目でした……」

「読書自体の興味は?」

 担当医は、私が返却した分厚い治療用図書を興味なさそうに捲りながら言った。

「それは、何と言うか……あると言えばあります」

 すると、担当医はデスクの抽斗から別の本を取り出した。

「今度はこちらを試してみて下さい」

 手渡された治療用図書はして厚みがなく、意外な程に軽かった。

「……これはどういう?」

「ショートショート集です。なので取っ付き易いとは思いますよ」

 ページを開く毎にタイトルらしき太字が現れる。見開き二ページで一話分になっているようだ。

「762文字……695文字……728文字……」

「一編毎の文字数ですか? 相変わらず凄いですね」

 褒められても嬉しくはない。突如として身に付いてしまった習性を、私は未だに飼い馴らす事が出来ずに居る。


 ホームに滑り込んだ電車は、帰宅ラッシュの前で空いていた。シートに腰を下ろすと同時に早速、新しい治療用図書を開く。

 乗車時間は約三十分。一編当たり五分としてら六編は読めると思うが――どうだろう。

 かつての私に読書の習慣などなかった。飽き性で落ち着きがなく、文字の羅列に睡魔が潜んでいると信じて疑わない、そんな人間だった。

 それが或る日を境に一変した。

 世の中には色んな中毒がある。ニコチン中毒、アルコール中毒、セックス中毒、麻薬中毒――私が患っているのは、言わば特発性文字中毒だろう。

 文字を欲しながらもその意味を解す事が出来ない。読めないにも拘わらず、文字に飢える奇妙な日々が続いているのだ。

 意味が解らないとすれば記号のように見えているのか、と言えばそうではない。例えるならば、未知の外国語を眺めているような感覚に似るが、決して同じではない。

 文盲という言葉があるが、私の頭の中には文字があり、言葉があり、不定形ながら文章もある。私は『小説』という言葉を知っているし、その意味も解る。けれども、それを書き記す事が出来ない。誰かが書き記したものも理解出来ない。

 それでも私は、に得も言われぬ愉悦を覚えている――。

 それは寝起きから始まる。新聞、雑誌、テレビ画面、商品の説明書き、文字という文字を目で追わなければ落ち着かない。

 スマートフォン一つあれば事足りるが、外出の際は敢えて携帯しないようにしている。歩きスマホは私を完全に忘我の境地へといざなう。誰にも増して危険この上ない行為なのだ。

 徒歩で移動する際は看板や標識に次々に視線を移し、一ヶ所に集中し過ぎないようにしている。勿論、車の運転などもってのほかだ。

 ――電車のドアが閉まり、再び走り出す。もう次の駅で降りなければならないが、まだ一編も

 漢字と漢字の間を平仮名が繋ぎ、偶に片仮名が紛れ込む。ちりばめられた句読点が時折り知らない星座のようにも見えて来る。そして、文字数だけが心に残る。

 紙に落とされたインクの染みを眺め、私は何を得ようとしているのだろう。

 誰かが誰かに何かを伝えようとしている。そこに目眩めくるめく真実があるのか、愚にも付かぬ嘘八百があるのか。韋編三絶いへんさんぜつ熟読玩味じゅくどくがんみ眼光紙背がんこうしはい――文字をとは何だろう。


「どうしました?」

 流石の担当医も平静ではない様子だった。ついさっき帰途に就いた私が舞い戻って来たのだから無理もない。

「……不思議な事が、ありました」

 患ってこの方、私の日常には不思議な事ばかりだが、今回は突破口から光が差したように直感していた。

「もしかして、んですか?」

「ほとんど読めませんでした。だけど――」

 私は、治療用図書に挟んだ栞のページを開いた。

「この話だけは、読めるような気がしたんです」

?」

「意味が解るような、解りそうな……」

 身体に震えが来る。何かが動き始めている。何かに気付き始めている。

「この作者に心当たりは?」

「……ありません、全く知りません」

 目次を開けば、作品毎に異なる作者名が冠されている。様々な作者に依って編まれたショートショート集なのだ。

「他の作者が書いたものは?」

「見えますが読めません。意味はまるで解らない」

「この一編だけ、この作者が書いたものだけが読めるんですね?」

「はい、でも……実を言うと、まだ読み終えてはいません」

「たった二ページなのに?」

「通読はしました。だけど、何度読んでもしっくり来ないと言うか、何だか未完成品を読まされているような……」

いずれにしろ、良い兆候と言えるでしょうね」

 担当医は何かを思い付いたようで、カルテの病名欄を指し示した。

「これ、読めますか?」

「さぁ……」

 担当医の顔にゆっくりと影が差すように見えたのは、もう夕暮れが迫っているからなのか、落胆なのか。


「お待ち下さい」

 再び家路に就こうとする私の背に声が掛かった。

「書いてみませんか? 文字を真似る事は出来ますね?」

 ペンを渡された私は、病名の直ぐ下に病名を真似た文字らしきものを書き記した。自分で書きながら、現れる形を読む事は出来ない。この上なく空虚な作業だった。

 ――にもかかわらず、その文字から得られる愉悦は計り知れないものがあった。他でもない自分で書いた文字は、格別の魅惑を秘めていた。

 文字を書くのも悪くない――私は自分で書いた自分の病名を見て、初めてそう思えた。好きな時に、好きなだけ、好きなように文字を書く幸せを初めて知った気がした。人はもっと自由で良いと思えた。

「私は今、トッパツセイ、モジ、チュウドク……と書いたんですね?」

「……思い出しませんか?」

「何を?」

「まぁ……気長に続けましょう」

 こうなると、例の一編を書いた作者の名前も気になって来る。私と似た感性を持つ人物なのかも知れない。

 相変わらず白衣を着ない担当医は、私の書いた『無期限断筆宣言』という文字をまだ見詰めている。夕暮れはもう闇に変わっている。

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