第十一話『結び』

 まさか医院長も、私が監禁されたその日のうちに暴れだすような、じゃじゃ馬娘だとは思ってはいないだろうという事で、善は急げ、悪事も急げ、という事でその日のうちに私は爆弾をさっさと作り上げた。


 二回分の小型爆弾を作り上げて鞄の中に隠し、カサギさんには羽根の状態に変わってもらい、相変わらず私に同情し続けている警備員さんに夕食を渡され、夜を待った。

 彼の帰り際に「大変ですね……」と意趣返しだけしておいた。だって彼はこれから大変になるだろうから。だけれど出来ればこの隔離病棟から追い出されて、この病院からも追い出されて新しい仕事についてほしいななんて事を思った。

「ねぇカサギさん、もし脱出出来たらさ。あの人をこの病院の外に送り届けたりとか出来ないかな……」

「これはまた……随分と大変な事を仰りますますな……理由を聞いても?」

 私と医院長のあのやり取りを見ていて、私に情けをかけてくれたと考えると、彼だけはあまり痛めつけないで欲しいし、彼も此処から出してあげたい。

『大変な事を仰る』と言われて、何とも言えない気持ちになったけれど、なんだかんだ使い魔も魔法医も警備員も魔法使いも、皆大変なんだと思った。度合いは勿論は違うけれど。

「そういう事でしたら、事情は知らずとも仲間と捉えても良いでしょうな。何故ならばカサギが今此処にいられるのは彼のお陰なのでしょう?」

「そう、なりますね。きっと、見逃してくれたんだと思います」

 確かに彼は私をギストがいる部屋から連れ出す時に鞄を一瞥した。普通ならば取り上げるべきものだ。

 だって私が錬金術を使えるという事は私と医院長の話を聞いていれば分かったはずだから。

 なのに彼はそれをしなかった。だからこそやはり彼は優しく、救われるべき人間だと、そう思った。

「名前も知らないんだ。悪い事しちゃったな」

「そのお気持ちがあるならば、カサギは身を粉にして羽ばたきましょうぞ」

 本当にカサギさんは口が上手い、少しだけ、元気が出てくる。それに渋い。


 そうして夜、鞄の中には強く叩きつけると衝撃で爆発が起きる小型爆弾が二つ、私の部屋で使えば私自身にも被害が及びそうだが、そのあたりはカサギさんその翼で守ってくれるようなので安心した。

「とりあえず私は、ギストに会いに行けばいいんですよね?」

「そうなりますな。我が主と、真っ直ぐに向き合って頂ける事を、カサギは切に願っております。ああ見えて、主はトリス嬢の事を非常に気に入っておられますから」

 ひっそりバラされたギストには可哀想だけれど、私は私でギストの事を気に入っているというか、心地良く接する事の出来る異性として捉えてはいた。

「ふふ、上手く行く事を信じておりますよ」

 カサギさんは意味深な事を言いながら、その姿を魔物と見紛う程の体躯の大鳥へと変化させて、翼を広げた。

「ではトリス嬢、参りましょう。先導は私カサギめにお任せください。主の魔力を辿り、最短を往きます」

「あぁ……その姿だとその口調、しっくり来ますね」

 凛々しい鳥が渋い声で喋っている。とかく魔法とは不思議なものだなと思いながら、同じく不思議な現象代表の錬金術で作った爆弾を、クソ親父改め、クソ医院長への怒りを込めて扉へとぶつける。

「トリス嬢! 耳をお塞ぎください!」

 その声にハッとして耳を両手で塞ぐと、ギストと最初に出会った時の比では無い轟音が響き渡った。確かに目の前で爆弾が爆発しているのだ。音が大きいに決まっている。そんな事にも気付かない程に、私は焦っているのかもしれない。

「では早急に! カサギめの後に続いてください!」

「はい! 待っててねギスト!」

 私はカサギさんの後を全速力で追いかける。息を切らしてでも、息が止まってでも、ギストにはもう一度会わなければいけない。

 私達の脱出の為だという事も勿論だけれど、私は私の為に、彼に会いたいのだ。


 煙に包まれた部屋を飛び出し、カサギさんの後をひた走る。

「有象無象は、下がっていろ……!」

 少し雰囲気の違うカサギさんが、武装した衛兵をその翼で吹き飛ばし、壁へと叩きつける。

「カサギさん……凄いですね……」

「カサギは単なる小間使いでも、駒鳥でも無く、魔であります故、造作もありませぬよ……参りましょう!」 


 ギストの部屋に続く廊下の前で、カサギさんは止まった。

「さぁ! 行ってくださいトリス嬢! ここから先は、誰一人として通しません。主と、そうしてトリス嬢。この先には二人が救われる道が続いております、そうカサギは信じております! それにこの程度の有象無象相手にならば、手加減をしながらでも……そうですね、失礼ですがトリス嬢、その鞄を貸していただけますか?」

 何に使うかは分からないが、どうせ中身はもう爆弾一つと壺ちゃんだけだ、錬金をする余裕も無いだろうから、私は爆弾を取り出して鞄をカサギさんの足元に置く。

「壺ちゃん入ってるけど! 置いとくね! ありがとうカサギさん!」

「主を頼みます! さぁ、有象無象共! カサギは見世物じゃあ、無い!」

 激しい羽ばたきの音を聞きながら、私は何度も歩いた通路を、初めて彼に出会った日ぶりに走った。


 月明かりが差し込む中、それと対抗するように光る、魔防柵と名付けられた鉄格子。その中心の、暗闇が一番濃い場所に、ギストは立っていた。

「よぉ来たか……派手にやったなぁセンセ。いい音するモン、持ってるじゃねえか。だーから言ったろ? やっぱコイツだった」

 この年のニュースの目玉になるであろう男は、青く煌めく檻を撫でてから、備え付けのベッドに腰を下ろした。

「ほんっとーに、担当医も楽じゃないですよ。ほら、これが欲しかったブツでしょ? 受け取ってくださいなっと、投げませんからね、衝撃で爆発するんで。」

 そう言って、私は彼が望み続けていた爆弾を今朝のやり取りのまま置きっぱなしの机の上に置いた。言いたい事はこんな事じゃないのに、どうしてか軽口ばかりが頭に浮かんで、上手く言いたい事を言い出せない。

「ん、ありがとな。でも、これ一個か? だったらセンセが外出られねぇだろ。どうするつもりだ?」

「そこは、何か手段があるってカサギさんが……」

 言うと、彼は頭をガリガリと掻いてから「あのバカ使い魔め……」と呟いた。

「私は……良いですよ。ギストを此処から出してあげられたなら、ハッキリ言って気分も晴れるってもんですから、あのクソ医院長が大目玉食らうだけでスッキリですよ」

「いや、そいつは俺が良くねえんだよ」

 そう言って、彼はグイとこちらに近づいてきて、あろうことか爆弾ではなく、机に滴っていた自白剤入りの紅茶を掬って舐めた。意図は読めないけれど、彼は元々その場所に自白剤入りの紅茶の雫ががある事を確認していたらしい。


「にっが! 良いのは匂いだけかよ畜生め! たった人舐めでこれとか。あのクソ親父の味覚は馬鹿になってんじゃねーか?」

「確かに高級ワインをがぶ飲みしてましたしね、馬鹿になってんでしょうね」

 その返事に、彼は顔をしかめながらも、ククっと笑った。私には彼が嘘をつけない状況に自らをおいた意味が分からないけれど、カサギさんの言う通り、彼の中では何らかの策があるらしい。

「クク、そいつは笑えるけどよ。くっそ、ありえない程に苦いなコイツは……しかしまぁ仕方ない。センセ、俺に方法を聞いてくれ」

 聞いてくれというあたり、余程自分の口では言いたく無いという事なのだろうか。確かに今の状態のギストであれば私が聞く事を素直に話してくれるはずだ。

「じゃあ聞きますよ? ギスト、私達が此処から二人、無事に出る方法に心当たりは?」

「…………ある。契約魔法だ。魔法とは言っても魔力でどうこうする類じゃあなくて、俺達が立つこの世界――『マキュリア』と直接対話しなきゃいけない。いわば儀式のようなもんだな。まぁ簡単に言えば俺とセンセーが、俺とカサギのような関係になるって事だ。その儀式に、この鬱陶しい棒は関係しない。なんてったって世界様にその権利の許可を問う魔法だ。魔防も何も無いんだよ」


 契約魔法、聞きかじる事はあってもまさか使われる日が、使われそうになる日が来るだなんて思った事も無かった。

 話としてはギストから聞いて勿論知っているし、カサギさんが使い魔だからその関係性も何となく分かる。だけれど私が使い魔になるという事は無いだろう。カサギさんは生み出されたと言っていたけれど私は此処に存在しているのだから、生み出しようがない。

やはり授業として習ったものでは無いから知識は乏しい。契約なんてのは、私の解釈では魔物と戦う魔法使い、またはそれをサポートする僧侶が使う魔法で、一介の魔法医が使うような事は決して無いと思っていたのだ。


「それしか方法が無いのであれば、それを結びましょう。どちらにせよ私は此処に残っても良いと思っているんですから、もしギストがそれを望まないのであれば、その契約を結んで一緒に此処を出るしか方法は無いはずです」

「だからよ、簡単に言うなら、俺とカサギの関係なんだよ。つまりだ、俺達の場合で結ぶ契約ってのは、簡単には言えないような契約を結ばなきゃあいけないって事になるわけだ」

 確か、いつだったかギストとの雑談で簡単に教えてもらった事がある。覚えている範囲では使い魔と主の関係を結ぶ単純な契約の他に、師弟契約……これが一番ポピュラーな契約だった事は印象に強い。

 師弟としての繋がりを魔力で強固にして、その上で魔力供給や生まれ持った魔力許容量すらも分け与えられる。その代わりその繋がりを反故する事は難しいと習った記憶がある。この師匠が嫌になったから、この弟子が嫌になったから、なんて理由でやめられるような物では無い。

 密接に互いの魔力を組み合わせるのだ。無理な契約解除は互いの魔力に影響が出ると言われていた。他にも確か契約の種類はあったけれど……思い出せない。

「では、いつかギストが言っていた師弟契約を結ぶと……?」

「違う、それじゃあない。あー!! センセはこういう時に限って鈍いな! 今センセが俺の弟子になってどうなるってんだよ! 必要なのは脱出する事、今センセに魔法教えても使えないだろうよ!」

 彼はカリカリとしながら、私の次の質問を待つ。ただ私にはそれ以外の記憶は無かった。だからきっと、次の質問と解答が私達の契約の内容になる。

「では、何の契約を結べば……?」

「……いん契約、だ」

 ギストはうつむき、聞こえない程小さな声で何かを呟いた。

「もう! そんな事してる場合じゃないでしょう! 何の契約なんですか⁉」

「だああ!! から! 婚姻契約だよ! 婚姻契約を結べば出られんだよ!」

 その大きな声に、廊下の先からバサリと羽ばたきの音が聞こえた。


――成る程、だからカサギさんの口からは言えなかったわけだ、ではなく!

「こんいん?!!? 結婚って事ですか?!?!」

「そうだよ! 契約魔法の中にはだな! 婚姻契約なんていうそれこそ古の儀式があんだよ。ただの口約束や愛情を越えた。単純な結婚とは別の、魔法による強固な繋がりを世界によって認められる儀式だ。知らねえのも無理は無いだろうよ! だって言わなかったからな! けどそれしか思い当たらねえ!」

 私とギストが結婚したら、この場所を出られるらしい。

「え、えぇ……? どうして婚姻を結んだら此処を出られるって事になるんですか……?」

 正直、意味が分からない。魔法というからには何かあるのだろうけれど、どうしても婚姻と結びつかない。


「あの、なんつーんだ。愛する人の元には飛んでいきたいだなんて、そんな言葉があるだろ」

「え、えぇまぁ……」

「婚姻契約はだな……それが可能になるんだよ。つまり俺達がその契約を結ぶと、だ。俺はセンセの所へ、センセは俺の所へと、あらゆる障害、それこそこの鉄格子すら乗り越えて、瞬間移動が可能となる。ある意味で、移動魔法の極地に値する魔法だ。それでセンセがこっちに来て、爆弾で逃げる」

 愛は障害を乗り越えて育つなんて言うが、私達には育つべき愛が実っていない。

「いやいやいや!! だからって婚姻って!」

「でもそれしかねぇんだよ! 受け入れるしかねぇだろ! 何度でも言うぞ! 俺と婚姻契約を結んだセンセが鉄格子を抜けてこちら側に入ってくる。それで爆弾を使って二人一緒に脱出。それ以外に二人一緒に出られる策は見当たらん!」


 言うは易いの典型例。でも彼がそれしか無いというならば、自白剤を飲んでるのだし本当にそれしか無いのだろう。

 確かに私だって子供じゃあないし、ギストだって性格はどうあれ、ちゃんとした大人だ。

 だけれども、婚姻なんて話になれば順序という物があるだろう。

 彼について悪い人間という印象は無い。だけれど前提の恋をすっ飛ばして、愛情みたいな物も分からないまま、さぁ婚姻しましょうっていうのは流石に如何なものか。

 それにもっと言えば、彼が言っていた話では、契約魔法は単純に言えば縛りのようなものだ。儀式とも言っていたから難しいものでもあるのだろう。だからおそらく婚姻契約は廃れた。彼の言う通り、普通の婚姻には契約なんてのは必要無いからだ。

 だから彼も言わなかったのだろう。こんな手段、こんな状態じゃないと思いつかない。むしろそれを思いついていた事に驚くくらいだ。

 とどのつまり、今の時代に於ける婚姻契約なんてのは、魔法を使ってでも本当にずっと一緒にいたいですよなんていう惚気みたいなものなのだろう。

「でもこれって多分、互いに不本意ですよね? この世界と直接対話するなんて言っていましたけれど、そんな状態でその契約って成立するものなんですか?」

 割り切るには中々しぶとい問題。利害は一致している。けれど感情をまず放り出して大魔法使いの伴侶になるというのは、何とも言えない。

 ただギストがそれしかないと言うのならば、そしてカサギさんが信じてますと言っていたという事は、可能性はあるということ。残された最後の手段がこれなら、そりゃカサギさんも言いにくいだろう。

「不本意かどうかは……分からねぇよ。それで成立するかどうかも、世界が決める。やってみるしか無い。要は最後の賭けだな」

 溜め息混じりにこちらを見る目は、やや不満げに見えて、少しだけカチンと来た。

「ギストってほんと……」

「……何だよ」

「モテないんでしょうねー……」

 そう言いながら、私は檻の前まで近づいた。

「今日は妙にアテが外れるなぁセンセ。俺はな、俺を俺として見ない有象無象を全員泣かせて来てる。旅の間に何人のレディを泣かせたもんかね、見てくればっかで寄ってきやがって」

『有象無象』という言葉を聞いて、使い魔は主に似るんだなぁなんて思っていると、ギストは檻の隙間から手を出して、小指を立てる。

「……最低な話ですね」

「あぁ、最低な奴らだったよ。愛の欠片も見えやしねえ。ついでに友情の素振りすら感じられねえ。何なんだろうな、人間って」

 私が言いたいのは有象無象を泣かせてきた彼の事だったのだが、彼は彼で思う所があるらしい、檻越しに見える彼の顔は少し寂しく見えた。自白剤入りの紅茶を飲んでいるという事は、本当に彼は人間について不信感を募らせているのだろう。


「試す価値はある。俺はセンセが嫌いじゃねえよ。だけれど今更だが、この判断は世界を変えるぜ。良いか?」

「えぇ、良いですよ。どうせ賭けるなら、大きくいきましょ。ギストのしょげている顔を見るのも飽きてきましたし。それにですね、ギストを信じるに値する理由なら、私にだって沢山あります」

 その点については、私には大きな確信があった。


「貴方は嘘を言えないし、私も嘘なんて言わない。抗って見せます。これは、私達がやり直す為の、やり返す為の、大事な選択。その旅路を、貴方は私と共に歩んでくれますか?」

  私は彼にならって小指を立てた。すると彼は私の小指に指を絡ませる。

「あぁ、一緒に行こうぜ。トリス大センセ」

 私はそれに応えるように彼の顔を見上げニッと笑う。

「さっきも言ったろ。俺はセンセの事が気に入ってんだよ。だからさっさと契約だ。世界を黙らせんぞ」

「生意気な事言いますよね、ほんと……これでも私は貴方の担当医なんですけど……」

 それを聞いて彼はフンと鼻を鳴らして笑ってから、初めて見る真面目な顔に変わった。


「愛する人に死なれども、我らは生きて互いを想おう」

 ギストの詠唱が、小さく響く。絡まった小指が少しだけ熱い、それが彼の温度なのか、それとも愛という言葉を想った私の温度なのか、それとも単純に魔力が通じ合っているのかは、分からない。


「永遠を知らず、愛を知らず、だが我らは互いを知り、認め、婚姻の契約を誓う」

 ふと、その言葉に疑問を覚えた。これは詠唱という名の、彼の言葉なのだろうか。

 彼が思う愛についての、付き添う人についての、告白を聞いているのでは無いだろうか。


「今は分からぬ愛であろうと、未だ知らぬ恋であろうと、我らの前には障害などなく、誓う言葉に偽りは無い。征く旅路は共にある。この場に婚姻の契約を、成立させよ、成立せよ」

 自分の顔が赤くなるのを感じた。その言葉は、彼の普段の物言いとは全く違う。

 だけれど言っている事はとても恥ずかしい事のような気がする。難しい言葉を並べてはいるが、これは彼の思う現状への、心からの言葉なのだ。


「指輪もいらぬ、接吻などいらぬ、そのようなまやかしの愛に惑わず、我らは愛より強き繋がりの元に」

 パチン、と私とギストの小指に電流のようなものが走る。

 思わず指を離しそうになった私の指を、彼の左手が指がそっと支えた。


「あー! ったく! この世界は俺を誰だと思ってんだ! 契約を認めろマキュリア! 魔術師ギスト・ケイオンの名の元に下れ! 俺はコイツをこれから愛すって言ってんだろうが!」

 そう言いながら、彼は私の頬に口吻をする。

 これらが全て本音かつ、今の行動でドッと肩の力が抜ける気がした。詠唱というのはそれぞれの魔力を高める力がある。呟いていたのはこれはおそらく儀式としての文言だろうが、それでもおそらくは彼の魔力は今詠唱によって、最高潮まで高まっているのだろう。そうしてブチンと彼の中で何かがキレて口走った『愛する』という言葉で、おそらく契約は成った。

 その熱意が、指に通って私の魔力の許容量を壊してしまいそうな程に身体が火照っていた。

 ボッと顔から火が出るような感覚と入れ替わるように実際に痺れが走っていた小指の痺れが消える。


「これで満足か? 恥ずかしい事言わせんのもさせんのも大概にしろよ」

 誰に聞くともなく、詠唱は終わったようだった。少なくとも私に言っていない事だけは分かる。

 たった今接吻はまやかしなどと言っていたのに、頬は良いのだろうか。沸騰してしまいそうな頭で考えるが、要は契約に至るまでの儀式の正当性を組み立てる事が出来なかったのだろう。何故ならこれは虚偽の契約だからだ。

 彼の様子を見て、やはり契約は成された――のだと思う。だけれど、事実、私達は結婚なんざしていない。


 ふと、小指に流れていた痺れが消えて痛みが走っている事に気付く。ギストの指が思った以上に強く私の指を掴んでいたようだ。やはり彼も彼なりに緊張していたのかと思えば、少しは可愛げがあるような気もした。


 しかしまあ、言いたい事は山程ある。

「満足か? じゃないでしょう! 大丈夫なんですか? ほんとに?」

「仕方ないだろうよ、不可は不可。あの痺れで分かっちゃいただろ? 可のラインを見極めるのは大変なんだよ。セン……トリス」

「ほんっとーに!! そういう所ですよ!」

 憤慨を鼻で笑われる、私も頬にキスされたくらいで、とは思うものの。なんだか妙に苛立ちを覚えてしまう。

 ただ、やはり契約は成っていたようで、檻越しでも何だか妙に彼と通じ合っているような感覚を覚えた。


「まぁいいだろ、契約は成った。あんなもんは虚偽詠唱で騙くらかしちまえばいいと思ってたが、逆に嘘を言えない状態なのが功を奏したのかもな……此処最近は妙な事ばかり起きて溜まったもんじゃない。でもとにかく、とにかくだな。契約は成立したんだ。トリス、行くぞ。来い」

 私は心臓の高鳴りを覚えながら、その声に従うようにほんの一歩先へ足を踏み出した。眼の前の檻を通り越し、気づけば隣にギストの顔がある。

「変な感じ……でも、悪くはないかもですね」

 私は振り向いて爆弾を手に取り、彼に笑いかける。彼は右手で左手を握りながら、もう片一方の手を壁に向けた。

「防壁は張ってやる。思いっきりぶっ壊しちまえ、トリス容疑者!」

 まさか私が犯罪者になるなんてなあと思っていたところに、えらい茶々を入れられてしまった。

「ふざけてる場合じゃないでしょうよ!」

 爆弾を思い切り魔防壁に放り投げ、爆音に耳を塞いだ。


 だいぶ高価な魔術防壁が、医院長が大金をはたいて買った壁が、爆散していくのは何とも気持ちが良い。

 吹き込む風に飛び込むように、彼は私の手を握ったまま、階層にして地上五階にあたる高所から飛び降りた。私の叫び声の中に混じって、空を羽ばたく翼の音と、私と同じように叫んでいる少し聞き慣れた男の人の声が聞こえて、少し安心した。

 だけれど、もはや私の脳は思考の限界に達していて、とりあえず思い切りギストの手を握ったまま、私の眼の前は暗くなっていった。

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