第十話『大魔法使いの使い魔』
通された部屋は、小窓が一つに小さな鉄格子がついた扉、それに粗末なベッドと机でぎゅうぎゅうになる程の狭さ。そこにトイレと水場が合わさったごく小さな個室のドアがついたような場所だった。
トイレに行く為の扉を開くにも手間がかかるような狭い部屋。だけれど私にとってそれは問題ではない。
「何とか……持って、来られた……な」
最後まで警備員さんは鞄については何も言わず、最後に「頑張って、ください」と言葉を残して、去っていった。
私は彼に大きく頭を下げてから、部屋に入るとすぐに持ち込めた鞄をベッドの脇へと隠す。
そうして大きく深呼吸をした瞬間、息が詰まり、ドッと涙が溢れた。
――私はどうして、泣いているんだろう。
訳が分からない程に、理由が詰めこまれた、涙の雨。
ただ、ただ、今はひたすらに泣いていたかった。
この淀んだ、淀みきって色すら分からなくなった感情をちゃんと洗い流して前に進む為に、時間の無駄だとしても泣かなければいけないと、そう感じていた。
ベッドに座って、枕を顔にかぶせ声を抑えながら、ただひたすらに、感情を液体へとすげ替えていった。枕にこぼした感情はすぐに冷たくなっていく。
それはきっと、開け放された小窓から吹き込む秋風に晒されて、そのうち乾いていくのだ。
私の心もまた、そうならいい。けれど乾いて、乾いて、ヒビが入りそうな心は、どうしたらいいのだろう。二律背反とまでは言わなくても、そんな余計な事を考えてしまう。
ひとしきり泣いて、涙が出なくなる程になっても、心がスッキリとする事は無かった。
この件が始まってから一度も話せていない看護師長の母はともかく、私に父はもういない。
いないのだ。父だった人から見たら、母すら私と同じように、いないようなもの。
今は、母と話がしたかった。母に謝りたかった。だけれどそれも叶うわけがない。
――ただ、私にはもう、父はいない
そう、決めた。母ならばなんていうだろうか。
お婆ちゃんと母は血の繋がりがあったし、仲も良かったはずだ。だけれど結局、母でさえ父には従わざるを得なかった。もしかすると私達は、二人とも父に決められたレールを走らされていたのかもしれない。
「お母さんの事すら、あんな風に言うんだな。本当に、クズだったんだなぁ……」
枯れたと思えばまたすぐに溢れかける涙を、もう一度拭う。
彼はこの魔法医院の医院長だとはいえ、あの場には何人もの人がいた。
父が何か失言して、それが広がってしまえばいいとすら思ったが、それではあまりにも母が可哀想だ。きっとあの場にいた人間は全員何かしらの処置を受けて記憶を消されるだろう。それくらいの事をする男だ。
だからきっと、母にあの言葉が届く事は無い。母は、残酷な事実でも、知らないでいて欲しいと、そう思った。だって、私よりもずっと長く父といたのだから。きっと愛し合っていた時期だって、あったはずなのだから。
「お婆ちゃんがいたら、どうするかな……」
錬金壺を取り出して、呟く。
何も答えなくても、良い。
だって、私は考える為に今、錬金壺を見つめているのだから。
クズの医院長や、弱々しい母とは違い豪快な人だったし、厳しい部分もあったように思えるけれど、私にとっては大好きなお婆ちゃんだった。だからこそ、私という個が残ったのかもしれない。父だった人にあれだけ言われても、涙を流して、前を向けるのかもしれない。
沢山の事を考えて、沢山の事を諦めちゃいけない。
ギストをあのままにしないという事。
父への怒りも、母への慈しみも、ギストへの……少なくとも感謝が入り混じった答えが出ない感情も、警備員さんへの感謝も、この現状についても、それら全て等しく、私は諦めるつもりが無い。
父はぶっ飛ばしてやるし、お婆ちゃんから受け継いだこの知識は宝物だし、ギストの言う事実は信じるし、隠蔽なんて内側からでも外側からでも、どちらからでもいい、どうにかして、暴いてやる。
「とことん、関わって、関わって、関わって、ぶち壊してやるんだから……」
そう呟いて、私は冷たい枕を壁に軽く放り投げて、部屋の周りで足音が聞こえない事を確認してから、鞄の中身をそっとベッドの上に並べた。
ドアからは私の身体で死角になっているはずだ。とりあえず早急に現状に役立ちそうな物だけを確認しておきたい。
とはいえ、中身はそう多くない。手に持っている小型の錬金壺と、雑多に詰め込まれた錬金素材。作る事の出来る物は多そうだが、やけに適当に放り込んであるのが、私らしいような私らしくないような。
「あっ……」
ふと思い出したのは、昨晩の寝ぼけた私が思い立った、たった一つの禁忌。
そういえば私は寝ぼけながら、昨日この鞄に爆弾の材料を詰め込んでいたのだ。
「確かにこのドア程度なら、吹き飛ばせる……けど」
だから何になるというのだという話だ。爆発音で衛兵は飛んでくるし、このタイミングでギストに会いに行っても何が出来るという事ではない。
想定内だった事達は、もう既に全てぐしゃぐしゃになり、後手後手に回っているという事実に、私はしばらく頭を悩ました。
「大型を一つか、小型を二つか、それが限度か……」
爆弾も、自白剤と同じようにそうそう簡単に錬金出来ては困る。つまり今の手持ちで爆弾を作る事が出来るというのは非常に好都合ではあるのだけれど、ということはそれらの素材で別の可能性も考えられるという事になる。
一度作ってしまえば錬金素材は勿論元には戻らない、であれば何を作るのかは早めに決めた方が良い。それに物も少ない方が良いに決まっているし、そもそもダラダラしている時間は無いのだ。
結局今この時間があるのだって、カサギさんがせっせと素材を集めてきてくれて、医院長への報告が早めに出来たお陰なのだから。
「姿隠しを作るにしても塗布する為の布が必要か……この子じゃ小さすぎるな」
私はおそらく、私が所有している最後の錬金壺であろう小さな壺を指で軽く弾く。
お婆ちゃんの形見まで壊されたのだろうと考えると、また涙が滲みそうになって、未だ着たままの白衣でゴシゴシと顔を拭った。
もし壺ちゃんが大きければベッドシーツあたりに姿隠しの薬液を染み込ませてそれを被るなんて事も出来たかもしれないけれど、どちらにせよ錬金素材が少なすぎる。そもそもギストの所に行って、何が出来るのかという話でもある。
「身は隠せない……か」
「でしょうな。しかし主と会うというのは大事な事です。このカサギ、助太刀致しますぞ」
思わずその声に私の身体はベッドの上で飛び上がる。声をあげなかったのが奇跡だ。聞こえたのは囁くような小さな声だったが、カサギさんの声だ。
「え? あれ? カサギさん? 何処です……?」
てっきり窓の縁にいるのかと思って視線をあげても、そこにカサギさんの姿は無かった。
「カサギは鞄の中におります。昨晩、トリス嬢が主から受け取った瓶をお出しください」
そう言われて、明らかに錬金とは関係の無い、ただのオレンジジャムを入れていた空き瓶を取り出す。するとそこには、一枚の青黒い羽根が入っていた。
「へ? これ……ですか?」
「はい、それ……でございます。主は主で、仕込んだ物があったというわけでございますな。これが主の次善策、爆弾だけでは無かったというわけです。尤も、トリス嬢は次善策として爆弾を選んだようですが……」
壺は喋らないが、瓶は喋る! 使い魔だけれど、なんて心強い事だろう。
瓶の蓋を開けると、羽根は一人でにふわりと瓶から浮き出て、カサギさんの姿を形作った。彼程の魔力量であれば、遠い場所での使い魔の顕現くらいはお手の物なのだろう。とはいえてっきり空の瓶を渡されたと勘違いしていた。ギストも言ってくれたら良かったのに。
「さて、これで私も監禁の身ですな。お仲間になれて嬉しく思います。さて、如何いたしましょうか。トリス嬢。主もおそらくは今の私の顕現で私達の合流を感知出来たはずです」
「カサギさん……随分冷静なんですね……私なんて……」
とはいえ心強い味方が増えた事には代わりない。昨晩カサギさんを見なかったのも、おそらくはもう既に瓶の中に控えていたという事なのだろう。
中身に気付かずとも鞄に瓶を入れておいて良かった。
――ツキって物があるなら、ここからかもしれない。
偶然を信じて生きるという事は、分が悪いという事はちゃんと分かっている。
だけれどこんな貧乏くじと絶望に塗れた現状ならば、分が悪いにしても賭けて、偶然にも縋って、打破していくしかない。私は医院長の、この二十一年見てきた男の悪意に気付ききれずに、ミスをしでかした。
そんなツキも力も無い私なのにも関わらず、カサギさんがいる瓶を何となく鞄に入れていた。
それは偶然だけれど、今は縋りついてでも欲しい、『流れ』というヤツだと思った。
「お気持ちは察しております。ですがカサギはあくまで使い魔。主や、主に味方する者が弱き心を抱いているならば、高貴であらんとするのが役目で御座いますよ」
「良い男ですね……カサギさんは……主と違って」
とはいえ、大泣きしているのを聞かれてしまったのは妙に悔しいし恥ずかしい。彼は鳥だけれど。
鳥だけれども、これ程人間味があると、やっぱり妙に悔しいし恥ずかしくなる。
「良い悪いはともかく。男かと言われると私は答えかねますがね。男は人間の呼称であります故……カサギはカサギでございますよ。さて、それではどうなさいましょうか、トリス嬢。カサギもあの主の使い魔、多少の時間稼ぎ程度ならば造作も無い事です」
確かに男というよりはオスかもしれない。言い直すのはやめておくとして、カサギさんは戦力として考えて良さそうだ。ではギストをどうやってあの牢屋から出すか、という事になる。
「錬金で作る事の出来る爆弾は、良くて小型が二つ。一つはこの部屋の脱出に使うとして、一つはギストに渡す……しかないですかね。カサギさんはどう思います? あの人、また捕まると思います?」
「主に限って二度目の拘束は無いでしょうな。主の性格であれば、もう人に手加減などはしないでしょう。そもそも主は善意を信じ、あえて捕まったという事実をトリス嬢に話していません」
「……ちくしょー、先に自白剤飲ませときゃ良かったなー……」
それじゃあギストは、なんだかんだ、凄く良い人でしかないじゃないか。
いや、それでも何度考えても勇者さん達への行動は良くないとは思うけれど。
「主は格好つけしいですからな。だとしても、だからこそそれが間違いだったのだと気付いた今であれば周りの有象無象に手加減をする事は無いでしょう。ですが、トリス嬢の提案を飲む主では無い事も、カサギは知っています。トリス嬢、その計画には貴方様の脱出が含まれていない」
正直、諦めはしていないものの、自暴自棄な考えになっている事は自覚していた。
私はもう、ギストをここから脱出させて、医院長の顔に拳をめり込ませて、事実として『ケウス魔法病院』はギストを隔離病棟に入れておきながら逃亡を許してしまったという汚名を着せられ、どこかしらからお咎めを受けてしまえばいいくらいに思っていた。
諦めたくないのは、救済と復讐。自身については逆にもう、心が冷え切っている気がしていた。
この生は喜ばれずに
大事な物達は壊され
使い捨てられた手駒
――それが、今の私だ。
そんな私に出来る事は、なんだろうと考えたら。たった一つだ。溜め息を吐く事じゃあなくて、深呼吸をして出来る事をする事。
「それじゃあ……ギストに頼ってみます? あれだけ爆弾爆弾言ってたのはギストなわけですし、私が黙らせてはいましたけど何かしら手段はあるんじゃ? でも爆弾じゃ鉄格子は壊せませんよ? 流石に小型ですし」
「かなりの賭けにはなりますな……しかしそれ程に状況が切迫しているのも事実。カサギの口から詳しい事は言えませんが、トリス嬢の言う通り、主の元に辿り着けたならば共に脱出出来る可能性は残っていると断言します。ただし……」
「どうあっても私とギストはお尋ね者かぁ……」
そう言いながらも、もう既に私の手は爆弾を作る為の錬金素材を錬金壺に詰め込み始めていた。
二人で脱出出来る可能性というのは、もういっそどうでも良くもあるけれど、作るべきは爆弾だという事は私の中で完全に固まった。
「時間稼ぎは、してくれるん……ですよね?」
私はカサギさんの小さなその身体を見て、一応確認をした。
するとカサギさんは妙に笑ったような雰囲気を出して、小さく鳴いた。すると、部屋中に広がるような翼が一瞬だけ眼の前に現れる。その一本一本の羽根が鋭く、だけれど綺麗な青と黒が入り混じった翼。
「案ずる事はありませんよトリス嬢、今までは荷物運びに徹していたので仕方が無いことではありますが、カサギはただの羽根一枚からでも小鳥の姿になれるのでございます。であれば、小鳥の姿から大鳥の姿になる事など、造作もありません。どうか、戦いはお任せを。カサギは、主の――大魔法使いギスト・ケイオンの使い魔であります故」
その言葉には、ギスト以上の自信が見て取れた。眼光も鳥、クチバシも鳥、翼も鳥、だけれど渋い声で、自身に満ち溢れた声で、とても格好良い事を言っていた。
本当に頼りになる使い魔だ。とはいえギストの力ありきなのだけれど、カサギさん様々な事が凄く多い気がする。とにかく、とりあえず私はギストに会わなきゃいけないようだ。
不思議と、目的以上に、まず私は彼に会いたいと、そう思った。
私や錬金術や、お婆ちゃんを罵倒し続ける医院長に叫んだ彼の姿がハッキリと心に残っている。
そのお礼だって、まだ言えていないのだ。だから私は、今から行う計画を以て、私の代わりに父への怒りを叫んでくれたお礼をしたいと思った。
「ギスト、絶対に助けるからね」
私の目は、表情は、どういう風に映っていたのだろうか。
「ええ、共に」
目の前の綺麗な小鳥が、私にしか聞こえないように、小さく、満足そうに、渋くない小鳥の声で、鳴いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます