第二話 帰宅
ここに一人の男がいる。
この男は今まさに帰宅途中である。まるで何かから解放されたような気分で、足取り軽く道を行く。
今日まで男は、家から離れたところに住み込まなければならない状況だったため、愛する妻子の元に帰りたくても帰れなかったのだ。
しかし、ついに折り合いがつき、帰ることができるようになった。家とは遠くのところにいたため、ここまで来るのに大分時間がかかってしまったが、今はもう、家まであと少しというところまで来ていた。
目の前には、以前とは少し違う風景がひろがっている。娘が幼い頃は、よくこの道を通って、住宅街で一番大きな公園まで連れていったものだ。
それも、今となってはもうすっかり昔のことだが、男はかつての記憶を丁寧に掘り起こし、噛みしめるように一歩一歩を歩いていく。
辺りには、昔とは違い、おしゃれな家があちこちに立ち並んでいて、この場所もすっかり変わってしまったな、と少し寂しいような気持ちになる。
しかしその中で、今でも変わらないところを男は発見した。家と家同士の間にある、仄暗い小道だ。陽があまり当たらないせいで、雨が降った次の日なんかは、その小道だけ湿った空気が立ち込めていて、何とも言いがたい雰囲気を作り出していた。
せっかくなので、男はその小道を通って、向こう側まで渡ろうと思い、足を小道の方へと向けた。
小道に入ると、やはりそこには独特の空気感があった。ここを通ろうとすると、娘はいつも、「お父さん、こわい」と男の手を引っ張るのだった。
娘はここを怖いと言うが、男には、神秘的な場所だというイメージがある。どこか落ち着くような、そうでないような。やはり、おかしな場所だと思う。
歩いていると、足下を一匹の白い猫が通り過ぎていった。野良猫なのだろうか。珍しいものである。野良猫に、真白で単色の猫などそう滅多にはいない。となると、飼い猫だろうか。
男は、振り返って、その白猫をもう一度確認しようとした。しかし、猫の姿はもうなく、小道には男一人のみである。
きっとあの猫も帰宅途中だったのだ。
男はその猫に妙な親近感を覚えた。そういえば、妻も昔白い猫を飼っていたと言っていたな。
やはり、この小道は何だか不思議だ。男は少し微笑んで、自分も急いで家に帰ろう、と小道の向こうを目指して歩きだした。
小道を抜けると、やはり家が立ち並んでいた(住宅街なので当然なのだが)。
こちら側の家も、入れ替りが起こっていたようで、建ってから年月の浅そうな家があちこちに見える。
しかし、家までの道はしっかりと覚えている。男は、ずんずんと自慢げに道を進んでいく。
その時、ふと焼き魚の匂いがした。どこかの家の夕飯なのだろうか。
男は、妻が焼いてくれる秋刀魚と、その時によく出てくるほうれん草のおひたしや、豆腐の入った味噌汁が大好物だった。
もちろん、他の料理も好きではあるが、「秋刀魚が安かったのよ」と声を弾ませる妻との日々がよく印象に残っているということもあって、秋刀魚はお気に入りの料理の一つとなっている。
家に着いたら、妻や娘はどんな顔をするだろうか。急な帰宅なので、やっぱり驚くのだろうか。
少し不安な気持ちもありながら、男は久しぶりに家族と会えることが嬉しくてならなかった。
家までは、もう目と鼻の先だ。おいしそうな匂いのする夕焼けの道を、男はひたすらに歩いていく。
ついに玄関の前まで来た。
やはり少しだけ緊張する。しかし、どこか落ち着いている自分もいて、何とも言い表せない気持ちがしている。
妻子が「おかえり」と笑顔を向ける様子を脳裏に思い浮かべながら、男は扉の中へと足を踏み入れる。
「ただいま」
しかし、「おかえり」の声はなかった。
男は、もしかして留守にしているのだろうかと思いながら、廊下を通って、わずかに開いたリビングの扉から中の様子をうかがう。
そこには妻も娘もいた。テーブルには男の大好きな秋刀魚や、その他の料理が並んでいた。
男は嬉しくなって、もう一度「ただいま」と言ってリビングに入った。
しかし、妻と娘は男の方には目もくれずに、会話を続けている。
男はふっと笑って、妻の方に近づく。
「ただいま。今日は秋刀魚なんだな。もしかして、僕の好物だって覚えてくれていたのか? おいしそうだね。いつも家族のために家事を頑張ってくれて本当にありがとう」
妻は男の方を見ない。男は次に、娘の方へ近づいて言う。
「久しぶりだな。元気だったか? もうこんなに立派に育ったんだな。学校は楽しいか? いつも勉強熱心で、お父さんも鼻が高いよ」
娘も、男の方を見ない。
「お腹空いたぁ……そろそろ食べようよ」
「ええ、そうしましょうね」
そう言うと妻は、男の食事だけをお盆に乗せて、和室の方へと向かう。娘もその後についていく。もちろん、男自身も。
和室の仏壇には、男の写真が飾られていた。
妻と娘は、その仏壇の前に料理を置くと静かに手を合わせる。
「……お父さん、あっちで元気にしてるかな?」
娘は遠くを見つめるような表情をしていた。
「ええ、きっと上手くやっていますよ。おじいちゃん、またひょうきんなことを言って、みんなを笑わせたりしているかもしれないわねえ」
妻は、男の写真を見つめて、優しい笑みを浮かべる。
「ああ、元気でやっているさ」
そう呟くと、幽霊は何とも切なそうに、愛おしそうに、そっと二人の肩を抱いてから、光の中に消えていったのだった。
波止場条約 広川アサ @oOAsaOo
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