第5話 求めたモノと、差し伸べられた手

 私は残った力で手を伸ばし、着信を取る。


「急に電話してきて、どうした? 今まで何にも連絡もしてこなかったのに」

「たす…けて……」


 相手の言葉なんて頭に入ってはこない。

 文句を言われようとも、もうたぶんこれが最後。

 きっと次を探す余裕なんてないから。


「な、どうした!?」

「たすけて……痛いの、しん……死んじゃぅよ……ああぁぁあぁ」

「おい、しっかりしろ! 今どこだ!」

「いえ、家……あぁぁ、ぅぅうぅぅ。痛い。痛いよう、まことくん、たすけて。助けて」


 涙と鼻水で、もう顔はぐちゃぐちゃだった。

 そこから何を話したのか、正直覚えてはいない。

 住所をキチンと言えたのかも不明なのに、ただ電話口の誠……元幼馴染であり、義理の兄になった彼は大丈夫だとただ繰り返していた。


 そして小一時間した頃、彼が管理会社の人間と共に部屋に入ってきた。


「香織!」


 温かな手が、私を抱き起す。


「ぅぅぅ、ま……こ……」

「ああ、大丈夫だ。今、救急車を呼んだからしっかりしろ!」


 救急車も呼んでくれたんだ。

 私の今度の選択は、ちゃんと間違ってなかったのかな。

 今にも泣き出しそうな誠の顔を見た瞬間、胸が温かくなる。


「よごれ……るょ?」

「馬鹿か! 今はそんなことどうでもいいだろう!」

「ふふっ」


 そんなこと、か。向陽は自分の靴が汚れることすら嫌がったのに。

 こんなに汚い私を抱き起しても、なんとも思わないでいてくれるんだね。

 しかも、急に呼び出したっていうのにその口からは文句の一つも出てはこない。


「どうしてこんなになるまで放っておいたんだ! おまえの旦那は何してるんだよ!」

「ん……」


 その言葉に私は曖昧な笑みを浮かべるしか出来なかった。

 

「おい、しっかりしろ香織! 香織、香織!」


 大丈夫。まだもう少し死なないと思うよ。

 そんなことは言えることもなく、でも私は誠の腕の中で安心感を感じられた。

 遠くでサイレンの音が鳴っていた。



    ◇     ◇     ◇



「あー。これが噂の知らない天井だ……」


 目を開けると、白い天井が見えた。

 ゆらゆらと揺れるカーテンに、真っ白な部屋。

 消毒の匂いが鼻につく。

 もう少し辺りを見ようとして、点滴に自分が繋がれていることに気づいた。


「生きてる」


 私は青白く冷たい自分の手を見た。

 血の気が全くなく。血管も骨も浮き上がり、ガサガサとしている。

 これが20代の手ってさぁ、絶対に思えないわよね。


 もっとも、髪もボサボサだし。あばら骨も浮いている。

 骸骨のようだったわね。

 

「でも生きてる……。ふふふ」

「なに笑ってるんだ。死にかけたんだぞ」


 怒った顔をしながら、誠が病室に入ってきた。

 たぶん昨日と同じ濃紺のスーツ。

 そして昔と変わらない、やや釣り上がった目に、短く黒い髪。

 

「違うよ? 死に戻ったんだもん……」

「死に戻り?」

「あー、ん? ん-。生死からの生還、みたいな?」


 怪訝そうな顔をした誠をとぼけてかわす。

 一回死んで、数時間前に戻ってきただなんてそんな漫画みたいなコト、きっと言っても信じてはくれないだろう。

 だけど本当に死にかけていたことは事実だから、なんとなくは誤魔化せたかな。


「どうしてこんなになるまで放置してたんだ?」

「だって急に痛くなって」

「でも救急車呼ぶくらいは出来ただろ」


 確かに自分で救急車を呼ぶことは出来た。

 でも呼んでしまってそのあとが、どうなるか。

 お金もないし、急に入院ってなったら困るだろうな。

 そんな風に思ってしまって躊躇しちゃったんだ。

 あの死にそうな瞬間でさえ私は、あの人に許可を求めようとしていたのかもしれない。


「だって……入院になったら困るし」

「困るって、仕事がか?」

「……それもそう。でも家のこととか……お金とか……」


 誠は呆れたような瞳で、私を見た。

 そんなに上から下まで見なくたって、みすぼらいいのは自分でも分かってるよ。

 もうずっと美容院にも行ってないし、肌もガサガサでしょう。


「あいつがそんなこと言ってたのか? 病院行くなとか」

「言ってた……とかじゃなくて……」


 言ってもいいのかな。

 でも、もういいよね。

 だって向陽は私を見捨てたんだもん。

 少しぐらい、文句を言ってもバチなんて当たらないでしょう?

 それに、こんなことになってまでもまだ、ビクビクしている自分がすごく嫌だ。


「お金をね……くれないの……。結婚してから一度もお金を入れてくれなくて。私のパート代だけで生活してたの」

「は?」

「でもね、所詮パートなの。掛け持ちしても10万くらいのお金しかなくて、そこから食費とか光熱費とか全部全部出したら、どうしてもお金が足りなくて……」

「当たり前だろう」

「うん。でも、何度言っても怒られるだけで」

「だからこんなになるまで我慢してたのか?」


「そう……だね。うん。そう。こんなになるまで、ね」

「本当に分かってるのか? あと少し遅かったら、本当に死んでたんだぞ!」

「うん、知ってる」

「知ってるって……」


 誠の説明では、私は元は急性の虫垂炎だったらしい。

 しかしその炎症が広がり、破裂寸前までいっていたとのことだった。

 たぶん死んだ時はそれが破裂したのね。

 痛みは少し前からずっとあったけど、病院も行かずに市販の胃薬を飲んで紛らわせていたのが一番ダメだったらしい。


 一命をとりとめたとはいえ、しばらくは入院が必要らしかった。

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