第4話 差し迫る死とやり直し

「向くん、助けて! 死んじゃう」


 通話がつながった瞬間に、私は声を張り上げた。

 

「なに。どーしたんだよ、そんなに大きな声を出して」


 ゴソゴソという背後の音とともに、向陽の声が聞こえてきた。

 今頃どこにいるのだろうか。

 考えたくもないけど、今はそんな状況ではない。

 

「いたい、の! 痛いの、痛いの! 助けて……」


 嗚咽と涙でむせ込みながらも、何とか今の状況を彼に伝える。

 向陽はその間、ただ静かに聞いてくれていた。


「どこが痛いんだ? 痛いばっかり言ってたんじゃあ、何にも分からないだろう」

「お腹? 右? わかんない。痛いの。痛いの。すごく、はぁはぁはぁはぁ」

「あーもー、分かった。家に帰るから、そのまま待っててくれ!」

「ぅん。うん、待ってる、待ってるよ」


 浮気をしていても、どれだけ私に辛く当たっていても、彼は結局は優しい人。

 私が帰る場所もないことも知っていて、頼れるのが自分しかいないって分かってる。

 だから浮気相手の前であんなことを言っていたって、ちゃんと助けにきてくれる。


 やっぱり私には、向陽しかいない。

 向陽しかいないんだ……。


 のたうち回るような痛みのあと、一瞬それが引くと、体力のない私は意識を失った。

 しかしまたすぐに痛みが波のように襲い掛かり、また意識を取り戻す。

 

 そんなことをどれだけ繰り返してきたのだろう。

 夫を待つ時間は、恐ろしく長く感じた。


「おい!」


 うっすらと目を開けると、向陽が立ったまま私を覗き込んでいた。


「……向く……ん?」


 ああ。やっと来てくれたのね。

 これで助かった。


 私は力の入らない手を、それでもゆっくりと彼へ伸ばす。


「うわ。汚ったねーな。ゲロまみれじゃん」

「こぅ……く」

「なんだ。まだ生きてたんだ、お前」

「え?」

「そろそろ死んだ頃かと思って見に来たのに、早かったんかよ。ったく、あいつの言うこともあてになんねーな。ネットで見たから大丈夫だとか言いやがって」


 何をこの人は言っているの?

 ネットでなにを見て、大丈夫って?

 だって今、って言ったよね。

 私の引きつる顔に、彼は薄ら笑いを浮べていた。


「救急車、きゅ、よんで?」


 ろれつの回らなくなりながらも、必死に訴える。

 向陽の言う通り、待ってたんだよ。

 助けてくれるから、待っててって言ったんだよね?

 死んでほしいから、そのまま放置してたんじゃないよね?

 そんなの嘘だよね……。


 言いたい言葉はもう、声に出すことも出来ない。

 ただ肺からヒューヒューという音がこぼれ落ちた。


「あーあー、しぶとく生きてんじゃねーよ。うっとおしい。今まで傍に置いといてやっただろ? 最後ぐらい俺のために奉仕しろよ」


 そう言いながら、固い皮靴を履いたままの足で私のお腹を蹴り上げた。


「ぐぁぁ、かはぁあぁぁ、んああああ!」

「うわ、また吐いたし。靴にかかっただろーがよ! いくらすると思ってるんだよ、この靴が」


 靴なんて、なんだというの。私はその靴以下ってこと?

 最後の最後には、優しくしてくれると思ったのに。

 本当に全部私が馬鹿だった。


 あんなにお父さんが反対したときに、ちゃんと言うことを聞けばよかった。

 ちゃんと目の前にある家族と、向き合えばよかった。


 だってね、私本当はずっと……。

 意地なんて張らなきゃよかったなぁ。

 ああ、最低な人生だった。


 何も残すことも出来ずに、私、どこで間違えたんだろう。

 

 そこで一度私の意識は永遠に途絶えた。


     ◇     ◇     ◇


「ぅああああああああ! あ"ーーー。ぅぅぅぅぅぅぅ」


 右の下腹部全体に広がる、まるでナイフを突き立てられたかのような激痛。

 私はその痛みで、再び目を開けた。


 死に戻った。

 この意味は、私には分からない。

 どんな原理なのか。

 なんで戻れたのか、それすらも。


「もう一度やり直したいとは……思ったけど、まさかココなんて……」


 痛みと吐き気は交互に襲い、あと数回意識を失ったら私は、たぶん前回と同じように死ぬ。


「死に……ぅぅぅ……戻りって、こんなのだっけ?」


 思わず乾いた笑い声が漏れる。

 どうしたら、正解なの?


 目の前のスマホが、審判に思えた。

 あの時、向陽に電話をかけたコトで私は死んでしまった。

 もう次は絶対に向陽は選ばない。


 とは言っても、私のスマホのアドレスに入っている電話番号はさそど多くはなかった。

 それこそ向陽と浮気をした親友か、家族か、会社の人だけ。


 でもただのパートでしかない私を助けてくれるほど、会社の人は親切だろうか。

 そもそも、それほどの人間関係を築けていた気すらしない。


「ぁぁぁぁぁ、ぅーーーー」


 そんなことを考える間にも、痛みは強烈になっていく。

 その痛みが、残された時間がもうないことを告げていた。


 私は必死にスマホを操作すると、アドレスから一人の番号に電話をかけた。

 長い数回のコール音。

 肩で息をし、ただその時を待つ。

 だけど相手が私からの電話を取ることはなかった。


 無機質な機械音がスマホから流れてくる。


「はははは」


 そうだよね。出るわけなんてないよね、私からの電話なんて。

 分かってはいたけど、自分のしてきたことがこんなにも綺麗に返ってくると、やはり堪えるものがあった。


「ふふふ」


 結局、誰を選んでも不正解なんじゃない。

 それもそうね。そういう生き方をしてきたのだから。

 

 諦めかけた時、スマホが光り、コール音が鳴りだした。

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