第1話 マネーハラスメント

「やっぱり足りない……よね……」


 リビングの机に並べたレシートを家計簿に書き出し、電卓をはじく。

 今日でこの作業は何度目だろうか。

 給与日までは、あと三日。

 しかし手元に残っているお金は小銭だけだ。


 毎月毎月、この作業を何度私は繰り返すのかしら。

 何度書き出したって、何度計算したって、お金が湧いてくるわけでもないのに。


 夫婦になって三年。だけど夫から一度だって、生活費をもらえたことはない。

 共働きといっても、完璧主義の夫から許されたのはパートの掛け持ちのみ。


 会社員として働くと、残業などもあるため、どうしても家事が疎かになる。

 それが夫は許せないらしい。

 総菜なんて持ってのほかで、簡単調理というのもNG。

 ましてや、作り置きすらダメなんだから。


 お酒に合わせて、旬の食材でのおつまみを数品。

 もちろん、そこにはビールも必須。


 私の少ないパート代からその食費、日用品、光熱費、通信費といったものを全てまかなう。


 美容院や病院に行かなくても、お金は常にギリギリ。

 夫の急な思い付きの外食や、夫が会社の後輩を家に連れてくると、すぐにパンクしてしまう。


 そんな生活を、私はもう三年も続けていた。


「はぁ」


 もう本当にお金がないわ。

 夕飯は質素にすればなんとか給料日までは食べることが出来るけど、ビールを買うお金もおつまみを用意することも出来ない。


 スマホだって格安のにしたし、化粧品や化粧水なども全部百均のに変えた。


 ガソリンは勿体ないから、基本移動は全部徒歩。

 美容院にすら行けないボサボサの髪を、私は後ろでキツく縛っていた。

 ダイニングにかけられた鏡に写るのは、どこまでも老けた自分だった。


「ああ、嫌だな」


 それでも慣れないことはたくさんある。

 今日はなんて言われるんだろう。ああ、嫌だな。

 どうして私は……。


 そんな思いなど無視し、玄関のドアが開いた。


 鼻歌交じりに帰宅した夫は、いつもよりかなり機嫌がいい。

 この分なら怒られないかな。


「おーい、帰ったぞ」

こうくん、おかえりなさい」

「ああ、ただいま。ビール出して。今日のおつまみ、なに?」

「あ……あのね、それがね。ビール、買えなくって。あ、でもね、ちゃんと夕飯は作ってあるよ? 親子丼なんだけど」

「は?」


 声のトーンが一瞬で変わった。

 夫……向陽こうよう私を睨みつけたまま、近づいてくるとソファーにカバンを投げ捨てる。


「なに、親子丼って。それ、つまみになんないじゃん。それにビールもないって、何考えてんだよ?」

「あのね、その……あの……」

「なんだよ! はっきりと言えよ! そういうグズなとこ嫌いだって知ってるだろ」


「あのね、ほ、ほら。今月は外食とか後輩の子が来たりなんかして。結構お金がかかっちゃったんだよ。あれで……お金が足りなくなっちゃって……」

「はぁ? お前馬鹿なの?」

「えええ、なんで? だって外食とかは向くんが行きたがったお店だし。後輩たちも、お酒たくさん飲んで……」

「だったら何だって言うんだよ」


 見下しながら彼は、私に近づいてきたかと思うと、私の肩を指で強くつついた。


「たかだか一回外食したくらいで、なんで金が足りないんだよ!」

「だって……私パートでしかないし。光熱費とか、二人分のスマホに保険料と日用品代に食費だよ? やっぱり私だけで、家のお金全部払うのは無理だよ」


 どんなに切り詰めたって。二桁行くかいかないかの給与では、二人分の生活はカツカツだ。

 ましてや向陽が節約に協力的なら、まだ分かる。しかし、この人にはその頭がないんだもの。


 お酒は飲みたいだけ。

 外食は自分の食べたいものを。

 後輩を連れてきて食べさせるのは、先輩の努め。


「今はほら、物価も高くて食費が結構大変なの。1日に何品もって、お金たくさんかかるんだょ。今度一回、一緒に買い物行けば分かるからさ」


 私はいつだって、朝ご飯はなし。お昼ご飯も夕飯も彼が残したものと、お米だけの生活。


 それでも足りなくなってしまうのだ。

 もうこれ以上、私が削れるとこなんてないもの。

 せめてお金をくれないのなら、節約することに納得して欲しい。


「なんで一緒に俺が買い物なんかに行かないとダメなんだよ。お前のやりくりが下手だからだろ! どうしてこんな簡単なことも出来ないんだ」

「そんなこと言われても……。向くん、お金何にも家に入れてくれないし」

「だからお前はダメだって言うんだ。ホント、使えなさすぎるだろうが」

「ちゃんと……ちゃんとやっているよ? でも、無理なものは無理なんだもん」


「ちゃんとやってるなら、どうして出来ないんだよ。たかだか家のことだろう。こんなことも出来ないから、お前を外に出すのが嫌なんだよ」

「そんな言い方しなくても……」

「実際そうだろ。そんなんで、会社員としてやっていけるわけないだろ!」

「でもパートでは働けているし」

「パートと社員は違うんだよ。ほんの少し稼げてるぐらいで、何大きくなってるんだ」


「でも、やってみないと分からないじゃない!」

「分からない? 結果なんて見えてるだろ。高校しか出てなくて、親に甘やかされて育ってきているからこそ、こんな簡単な家事コトも出来ないんだよ」

「それは……」

「俺が何年働いていると思ってるんだ。お前みたい使えない奴を外に出したら、俺が恥をかくことになるだろう! 分かってんのか!」


 向陽は自分の主張を言うたびに、何度も何度も指で私をつつく。

 いつでもこんな会話だ。

 家計が出来ない奴が、まともに会社員として働けるわけがない。


 そんなお前を外に出したら、俺が恥をかく。

 言われれば言われるほど、そうなのかなって自分でも思っていく。

 反論したいのに、でも出来ていない事実は変わらなくて。

 出来ない自分に、悲しくなってくる。


香織かおり、俺はお前のためを思って言ってるんだぞ?」

「……うん」

「会社員は出来ませんでしたなんて通用しないんだからな」

「……うん」

「それにお前みたいな不器用なやつは、家事と仕事を両立させるなんて無理だろ」

「……うん、そうだね」


 確かに八時間働いて残業もして、今の全部の家事をこなすなんていうのは無理なのは分かっていた。

 パートの掛け持ちでだって、自由になる時間なんてほとんどないもの。


 でも一番の解決策は、彼がお金を家にいれてくれること。

 たったそれだけのことなのに、何度言ってもお金を入れてくれることはない。

 給与だって、少なくはないはずなのに。

 彼は自分のお金は全て自分で使ってしまう。


 なんでこんなことになったのかな……。


「ああもういい。お前のしけた顔を見てるとイライラする。今日は泊って来るから。明日から、何とかしとけよ!」


 向陽はカバンを拾うと、そのまま大きな音を立てながら家を出て行った。

 私はただその場に座り込んだ。

 

 ああ、お腹すいたなぁ。本当に疲れちゃった。

 朝から水だけしか飲んでいない体は、どこまでも気怠い。

 それでも流れてくる涙に、私は自嘲した。

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