第5話 勧善懲悪の気持ち
そのおかげで、捜査中の主導権は、相変わらず、県警刑事にあり、命令口調には変わりないが、傍から見ているよりも、だいぶマシのようだった。
傍から見ていると、明らかに絶対的な立場は、
「県警本部側だ」
と見えるのだが、それはあくまで、
「警察組織の、従来からのやりかた」
というのが表に出ているだけで、実際には、ある程度平等の捜査方針であったので、K署の刑事とすれば、若干、驚いていた。
肩の力を抜いて捜査できるのだが、まったく平等であれば、今度は気が抜けてしまう可能性がある。そこで、
「締めるところはキチンと締める」
ということで、県警の刑事としても、そのあたりは分かっていることであったのだ。
「やっぱり、所轄は楽でいいよな」
という刑事も中にはいたが、それはあくまでも、本音がぽろっと出ただけで、それ以上本人も言及しない。
それは自覚もなかったことであり、K署側の刑事が、苦笑いをしていれば、それで済むだけのことであった。
それでも、それぞれの刑事が3組くらいに別れて捜査を行った。
一つは、被害者の身元を調査する班で、もう一つは、他の会社に、再度いろいろ確認する班。そして、もう一つは、目撃情報の収集であった。
目撃情報といっても、時間が時間なので、人通りはあ極端に少なかっただろうが、逆にいえば、
「毎日同じ時間にウロウロしている人がいるかも知れない」
という考えがあり、実際に、その通りだったようだ。
まず、このあたりの目撃情報を得る班のことであるが、
「まずは、犯行時刻の前後一時間くらいのあのあたりにいる人を中心に探ってみましょう」
と言い出したのは、K署の刑事だった。
県警本部の刑事も、
「あ、ああ、そうしよう」
と、どこか、挙動不審にも見えるほどであったが、どうやら、彼は、刑事としての経験は少ないようだった。
「私は、一年前くらいまでは、交番勤務をしていた巡査部長だったんですよ」
といっていた。
「じゃあ、こういう犯罪捜査は、まだ不慣れなんですか?」
と言われた本部の刑事は、
「ええ、こうやって、所轄の捜査本部に配属されることが多いんですが、まだ、今回で3回目なんですよ。まだまだ緊張が取れませんね」
というので、
「何を言ってるんですか。私は刑事になってから、四年目ですが、今回のような捜査本部ができる事件は、私も三回目なんですよ。何と言っても、このK署は、治安がいいというのか、凶悪犯というのは珍しいんですよね」
ということで、県警本部の刑事は少し安心したようだった。
「交番勤務をされていたのであれば、現場というか、庶民の生活に十分近いところで見ておられたでしょうから、いろいろなことが分かっているんじゃないですか? それを今回の事件の捜査にも生かしてもらいたいものですよ」
というと、
「ええ、分かりました」
といって、
「じゃあ、まずは、犯行時間の前後一時間くらいの間の人通りを確認するというのが一番じゃないでしょうか? 最近では、例の世界的なパンデミックのせいで、ホームレスも増えていますよね。ホームレスというのは、自分のパターンを持っているから、毎日同じ行動をするんじゃないでしょうか? 私なら、ホームレスをまずさがしますね」
と続けた。
「ええ、その考えはもっともだと思いますね」
と言って、意見が一致したところで、まずは、犯行現場に午後11時少し前につくように行ったのだ。
大通りを挟んで反対側にコンビニがあり、そこのイートインコーナーを、普通なら時間的に閉鎖しているのだが、警察手帳を見せて、
「捜査にご協力願えますか?」
と店長にいうと、
「いいですよ」
と快く引き受けてくれた。
さすがに、深夜時間帯が近づいてきていることもあって、コンビニの定員は、外人になっていた。
たまに買いに来る客に大して、流暢な日本語で何とか話しかけている。
「こいつら、どこまで分かっているんだろう」
と、K署の刑事は感じていた。
彼は特に、外人が嫌いなタイプで、特に、日本人とのマナーの違いを。
「文化の違い」
ということで片付けようとしているのが、我慢ならなかった。
「日本に来て仕事をしようというのだから、留学先の国の文化や風俗を熟知しておくのは当たり前のことなんじゃないだろうか?」
と思っていたのだった。
正直、何度もレジで、
「こいつ、ムカつく」
と感じたことも何度もあった。
その都度、
「しょうがないか。ここで怒ったってしょうがない」
と、自分で留飲を下げなければいけないことに、苛立ちがあった。
「正直、あいつらは、日本人の優しさの上に胡坐を掻いて、これを当たり前のことなんだと思っているのが、我慢できない」
と思っていた。
そういう意味で、日本人に対しても、
「そんなのは、優しさでも何でもない。そんなことだから、外人どもを増長させるんじゃないか」
といって、苛立っているのだった。
一人で苛立っていてもしょうがないというのは分かっているが、どうしようもないといってしまえば、それまでなのだろう。
そもそも、本部の刑事は、人を信用するということのないタイプだった。
学生時代には、結構人のいうことを信用して、結果、ひどい目に遭うことが多かったのだから、ある意味仕方のないことなのだろうが、そもそも、彼の考えの甘さが招いたことあので、まわりに言わせれな、
「自業自得だ」
と言われても仕方のないことなのかも知れない。
だが、刑事になってから、容赦なく、人の心を踏みにじるような犯人であったり、逆に、被害者がそんな人間だったから、復讐されることになったりするというのも見てきた。
本来なら、罪を犯した人間を憎まなければいけないのに、明らかに被害者の方に罪があると分かっていて、
「どうして、警察は、被害者というだけで、そちらを保護しなければいけないのか?」
という理不尽な思いをさせられることになるのだった。
それを思えば、
「俺たちにとって、事件というのは、本当に解決しなければいけないことなのだろうか?」
と考えさせられる。
「俺たちが知りえたことを黙っていれば、事件はうやむやになって、復讐を遂げさせることができるのではないか?」
という、自分の任務を忘れてしまったかのような発想に至ることもある。
いつも、そんな葛藤の中にいて、最期には、我に返って警察官に戻るわけだが、後悔の念に襲われないわけではなく、毎回のごとく、自己嫌悪が襲ってくるのだった。
「これが警察というものだったら、俺は何も、このままずっと警察官でいる義理はないんだ」
といえるだろう。
本当は、警察官になった理由としては、誰もがそうなのかも知れないが、刑事ドラマや、時代劇の、
「勧善懲悪」
を見るからだ。
あれは、1980年代くらいであろうか、
「勧善懲悪」
というものが、
「行き過ぎではないか?」
と感じるほどに、すごいものがあった。
いくら江戸時代でも、復讐というのは、簡単にはできない。
「仇討」
というものでも、ちゃんと名乗り出て。承認されたうえで、正々堂々とした果し合いを行うことで許されるものであるから、証拠もなく、ただ泣き寝入りしている人に対しては、どうすることもできないのは、今と同じである。
そこで、
「闇の仕事人」
などという人に、
「大金を叩いて復讐してもらう」
ということを行っていた。
お金の出どころは、身売りであったり、いろいろであるが、それだけの覚悟がなければいくら闇の仕事人とはいえ、引き受けてはくれないという話である。
勧善懲悪を行うとしても、そこに、覚悟であったり、見返りはなければ、達成されないというのも、今の世と同じ発想だ。
だが、逆に、同じ頃、しかも同じチャンネルの、勧善懲悪のそのひとつ前の時間帯で、同じような、
「恨みを晴らす」
という意味での、
「勧善懲悪」
の番組があった。
その番組は時代劇のように、
「抹殺する」
というものではなく、あくまでも、
「社会的な地位や名誉を抹殺する」
ということで、命を取るものではない。
だから、恨みを晴らしてもらう人にお金を請求することもなく、
「誰の仕業なのか分からないが、悪が白日の下に晒される」
ということが起こるのだった。
そういう意味で、
「目的は同じだが、その達成の方法が、時代によって違っている」
という、比較対象の番組を放送していたというところが特徴だった。
それぞれに視聴率はよかっただろう。もちろん、どちらの番組も見たという人も多いだろうが、
「時代劇は見るが、現代の話は見ない」
あるいは、
「現代の話は見るが、時代劇は見ない」
という人もいたはずだ。
「何があっても、殺すというのは、刺激が強すぎて、暗いだけのイメージが残ってしまう」
という人もいれば、
「殺さなければ、悪が滅びることはない、徹底的に根絶しないといけないのに、生かしておくというのは、あまりにも甘い」
という人もいるだろう、
逆に、
「恨みさえ晴らせば、いいわけで、その恨みの晴らし方が、スッキリしていて、殺さないところが、今の法律に則った中での復讐劇で、これほど、サッパリする話もないだろう」
という考えの人もいるのだ。
どちらがいい悪いという問題で考えてしまうと、どちらも平行線を描いてしまうような気がする。
逆に、二つを通して見ることで、
「悪に対しての、抑止力のようなものに繋がればいい」
というそれこそ、一縷の望みのような演出なのかも知れない。
もっとも、テレビ局側は、そもそも、そんな社会正義などはどうでもよく、
「視聴率さえ上がればそれでいいんだ」
ということを考えているだけなのかも知れない。
それを思うと、
「勧善懲悪というのは、本当に正義なのだろうか?」
と考えさせられてしまうのだった。
そんな勧善懲悪の時代に対するあこがれは、
「今は減ってきているのだろうか?」
と考えさせられる。
確かに、今はテレビ番組の編成は昔と比べるとまったく変わってしまった。
昭和の時代では、ゴールデンというと、野球があり、その裏番組に、時代劇、ドラマ、クイズ番組などというのが主流だった。
そして、野球が終わった時間からは、二時間サスペンスドラマなどがあった。
さらには、ゴールデンの前の時間というと、4時くらいから、七時くらいまでは、子供向けのアニメの再放送などが、主流だったではないか。さらに昼間は、奥様向けのワイドショーが多かった。さらには、奥様向けの昼ドラなどである。不倫あり、嫉妬渦巻く昼メロと言われるようなドラマが今では、ほどんどのチャンネルで、報道番組だ。しかも、司会もゲストも、ほぼ芸人。コメンテーターのような先生と呼ばれる人も毎回一緒で、いうことは、まるで壊れた蓄音機のように、同じ言葉を繰り返しているだけだ。
夕方の番組も、地元の情報番組、地元球団の話題であったり、グルメの店の紹介など、誰が好き好んで見るんだろう?
とおもうのだ。
さらに、午後7時からのいわゆるゴールデンの時間は、前は九時をひと段落にして、そこまでとそれ以降で別れていたが、今は、クイズか、バラエティばかりだ。
売れない芸人や、気色悪い人が出てきて、
「何が楽しいんだ?」
と思い、これで視聴率が稼げるのか?
と思うが、実際には、20年くらい前から、有料放送をつないで、自分の本当に見たい番組を見る人が増え、さらに、スマホが普及してからというもの、今度は、
「ユーチューブなどと言われる、配信動画を見るのが趣味」
という若者が増えてきて、一人暮らしの若者などは、
「家にテレビもない」
という人が多いことだろう。
実際に、テレビで面白いと思えるものがないのだから。それくらいなら、
「配信動画を見る」
ということで、
「テレビなど、必要ない」
ということになるのだろう。
ほか弁屋の外人を見ていると、
「勧善懲悪で、誰かに懲らしめてもらいたい」
という気分になるのだった。
自分が警察官になったのは、あくまでも、勧善懲悪に対しての思い入れからであり、
「悪を懲らしめ、善を助ける」
という精神だったはずなのに、実際に中に入ると、そこに蠢いているのは、勧善懲悪とはまったく逆の、理不尽なものだった。
それは自分の中に、勧善懲悪という意識があるから苦しむことになるのだろうが、次第に自分がその思いに感覚がマヒして、警察というものに慣れていくということが恐ろしいと感じてはいたのだ。
これも昔のマンガにあったものだが、
「ロボットマンガであったが、不完全に作られたため、人間を助けなければいけないのがロボットの役目のためなのに、悪に操られる形になりかかるのを、最期には何とか耐えて、悪を懲らしめる」
という、
「一話完結型」
の話だった。
だが、最終的には、完全なロボットになるのだが、完全なロボットというのは、感情が欠如してしまっているものだという他のロボットの考え方と違い、このロボットが行き着いた先というのは、
「そもそも、ロボットの悲願は、人間になりたい」
というものだった。
人間が、一番完全なものであり、
「ロボットは人間に操られ、利用されるだけの頭脳さえ備わっていればいい」
という発想だった。
しかし、その話のロボットは、
「一番完全なものが人間なら、人間を目指せばいい」
ということで、ロボットの身体を持ったまま、人間の心を持つに至った。
つまり、
「人間臭いロボット」
が出来上がったわけだが、そのロボットというのは、
「人間のように、嫉妬深く、人に負けたくないという思いから、相手を押しのけてでも、自分が上にいく。その際に、相手を殺してでも致し方ない」
という考えだ。
人間には、理性というものがあり、その徹底には中途半端な善悪の判断から、苦しむこのがあったが、それこそ、不完全な精神を持ったロボットと同じではないか。
つまり、最期には、
「人間臭さというのは、その理性すらなくした、いわゆる、血も涙もない人間こそが、ロボットの理想とするものだ」
という結論を導くのだ。
それが、
「フランケンシュタイン症候群」
であり、ロボット工学三原則の元になるものだが、その発想が、巡り巡って、この時点に戻ってくるというのは、実に皮肉ではないだろうか?
しかし、人間の発想というのは、結局、
「一周回って、元のところに戻ってくる」
というのが、えてして起こっていて、
「人間臭さ」
というのは、その堂々巡りに結びついてくる。
あるいは、
「元に戻る」
という、
まるで、
「一番、隙のない形というのは何か?」
と聞かれた時、
「将棋なら、最初に並べた形ではないか」
ということで、
「元に戻る」
という発想が、
「結論なのではないだろうか?」
といえるのではないかとおもうのだった。
外人すべてが、日本に馴染もうとしないのかと言えば、そんなことはない。結構たくさんの人が馴染もうとしているのだろうが、一部のバカ者どものために、皆、
「マナーの悪い連中だ」
と思えてくるのだ。
昔も、いや、最近まで、いや、今でも、
「日本人は、ちょんまげをしていて、刀を差している」
と思っている人がいたり、
「背が低くて、出っ歯で、カメラをぶら下げていて、いつでもどこでもシャッターを切っている」
という、まるで戦後の日本を彷彿させる、
「お上りさん」
を日本人だと思っている人も多いに違いない。
外人と勧善懲悪を比較するというのは、少し無理があるが、どうしても、
「日本の文化に馴染もうとしない連中ばかり」
が目立ってしまう。
だから、外人に対して、最期の最期では、
「絶対に信用できない」
と考えている人が結構いるに違いない。
そんな人のことを思うと、
「勧善懲悪のヒーローが現れて。滅ぼしてほしい」
と思うのだった。
特に、政府に対しての不満が大きい。
「政治家というのは、自分たちさえよければそれでいい」
という連中ばかりなので、外人が日本に入ってくれば、金をばら撒いていってくれるので、それが自分たちの懐に入ってきやすいとでも思っているのだろう。
確かに、日本経済という意味でいけば、外人どもが来て金をばら撒いて行ってくれるに越したことはない。
だが、
「本心がどこにあるのか?」
と考えれば、
「政治家のいうことなど、まともに聞くだけ腹が立つ」
というものだ。
国民がいくら困っていようが、自分たちの選挙が迫れば、票を獲得するということ以外はまったく頭の中にない。
「選挙に勝つためには、どんな悪どいことだって、捕まらなければいいんだ」
とばかりに、中には露骨なことをしても、政治家の金の力でもみ消すなど、日常茶飯事ではないか。
それを思うと、どこで外国などとの密約が存在するか分かったものではない。国民が騙されていることもたくさんあるだろう。特に政治家のいう、
「公約」
などというのは、あってないようなものだ。
この間も、Kソーリが就任した時も、
「前々首相の、悪いウワサの真相は、この私が解明します」
などということを言って、票を集め、当選したことで、ソーリ総裁になったにも関わらず、その悪事を暴くどころか、その人の派閥の大きさに飲み込まれでも仕方のように、その前々ソーリの言いなりになっていて、まったく逆らえないという、まるで、
「前々ソーリの犬」
と言われても、文句の言えないような立場になり、結局、どうにもならない立場がそのまま、受け継がれることになり、支持率が低迷してくるという結果になった。
確かに、国民の多くは、コロッと騙されても懲りない人が多いのだが、さすがに、
「公約」
を、ここまで大っぴらに守らないというのは、人間性を疑われる。
しかも、戦争を始めた片方の国に、日本のように、戦争をしてはいけない国が加担するということは、ありえないはずである。
少なくとも中立を最初に表明し、平和に向けての主導権を握って、調停役に名乗り出るくらいのことがあってしかるべきなのに、まったく正反対に、片方の国に、血税を送り続けるという暴挙である。
言われている情報が間違いで、立場が逆だったら、どうするのだろうか?
そういう意味でも、国家首脳が、浅はかなことをするのだから、
「順番が違う」
といってもいいのではないだろうか?
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