第4話 帰るは絶対 行くは相対
予想した通り、外に出ると空気は冷たかった。私も、彼女も、コートを着てきていなかったから、余計に寒い。けれど、実際にそう感じているのは私だけのようで、彼女はやはり澄ました顔をしていた。
何も確認をとらずに、私は彼女の手を握った。
手を繋いだまま、駅に向かって歩く。
「明日、学校に来る?」歩きながら、私は尋ねた。
彼女は首を傾げる。その反動で、前髪が目にかかったようで、空いている方の手でそれを退かす。そうしてから、彼女は目だけでこちらを見た。何度かの瞬き。手を軽く持ち上げて、人差し指と親指の先端をくっつけて、輪っかを作った。
「どうして?」私は質問する。
「 」彼女の小さな声。
「何をしに来るの?」
「 」
そう言って、彼女は肩にかけていた鞄に手をやった。片方しか手が空いていないから、少し手間取っているようだ。私は、そんな彼女を見て、微笑ましく思っているだけで、手を離してやろうとは思わなかった。自分でも、最悪だと思う。でも、これが私なのだから、仕方がない。
暫く鞄の中をごそごそとやってから、彼女は本を一冊取り出した。暗くてよく見えない。その表紙をこちらに向けて、彼女は私にそれを差し出す。
受け取ると、数学の参考書だった。
「何、これ」
彼女は答えずに、私が持っている参考書をじっと見つめる。鍵みたいに軽く曲がった指で表紙を指した。
「これで勉強しろってこと?」
彼女は頷く。
私は溜め息を吐いた。その場で思い切り吸い込んで、思い切り吐いたから、たぶん、溜め息とは呼べないだろう。
「いいよ」私は参考書を返そうとする。
彼女は若干頬を膨らませて、何度か首を横に振った。音が聞こえそうなくらい激しい。
「今さらやったって、変わらないよ」
「 」
「もともと才能ないんだから」
「 」
「それはそうだけど……」
仕方なく、私はその参考書を自分のリュックの中に仕舞った。たしかに、私は、教科書以外に参考書を一冊も持っていないから、有り難いといえば有り難い。しかし、どちらかといえば、迷惑の割合が多い。
バスロータリーにある階段を上って、改札に辿り着く。ICカードで改札を抜け、階段を下りて、ホームに至った。
ホームには人があまりいない。それほど遅い時間ではないが、まるで世紀末みたいに、人気がなかった。偶然なのか、必然なのか、それとも、私の意志がそう見せようとしているのか……。
電車が来るまで、私は椅子に座って待つことにする。席はほかにいくらでも空いていたが、彼女は座らなかった。私の隣に立ったまま、じっと前を見ている。ぼうっと、という感じではない。そこにある何かを凝視しているように見える。
彼女は、どんな将来を見ているのだろう?
そう……。
私が将来を不安に思うのは、彼女と別れなくてはならないからだ。
それは、きっと、物理的な問題ではなくて。
言うなれば、私と彼女の性質の違いに起因する、レールの分かれ。
どう足掻いても、私には彼女と同じ道を進むことはできない、という絶望。
見ないようにしているのに、その、どうしようもない事実が見えてしまう。
彼女は私の傍から離れて、ホームを先へ進んでいく。ホームは徐々に幅を小さくしていき、ある一点で収束する。その終わりはここからでも見えるから、大した距離ではない。
彼女は、収束点に辿り着くと、その先を拒む銀色の柵に両手をついて、立ち止まった。そのまま暫く静止。柵を握っている手を片方だけ外し、今度はそちらの方の手で握って、もう片方を外す。二三回ほどその動きを繰り返すと、両手で柵を握ったままその場にしゃがみ込んだ。
冷たい風が吹く。
そうだ。私が空気になってしまえば、ずっと彼女と一緒にいられるかもしれない。この重たい身体を捨てて、彼女の身の周りを漂い、彼女に吸い込んでもらえば良い。そうすれば、もう何も不安なことなんてない。私は彼女の一部になれるのだ。
すぐ左に、影。
顔を上げると、いつの間にか、彼女が傍に立っていた。
澄んだ目がこちらを見つめている。
何の抵抗も窺わせない動作で、彼女は私の隣に腰を下ろした。軽く息を吐き、私の方を見る。
「どうして、ここにいるの?」震える声で、私は尋ねた。
彼女は答えない。
でも、こちらに両腕を伸ばしてくる。
接触したはずなのに、何も感じなかった。
「起きて」彼女が言った。綺麗な声。
右を見ると、しゃがんでいた彼女はいつの間にか立ち上がり、柵に身を乗り出していた。その先は空。終着点を越えて、その向こうに行こうとする。
私は、ずっと、何を追いかけていたのだろう?
何を見ていたのだろう?
そして、彼女はどうして死んでしまったのだろう?
彼女も不安だったのだろうか?
身体が溶け出して、空気になるのが分かった。
私は、粒子になって、空に昇っていく。
暗い空。
彼女の声が聞こえる。
いつも、ほとんど喋らなかった彼女の、声。
声がする方へ、空気の私は飛んでいった。
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