第3話 眠るは簡単 動くは大変
目を覚ますと、暗くなった外の景色が眼前に広がっていた。窓の向こう、川沿いに立った街灯から漏れる光が、硬質な地面を、弱々しく、けれど確かに照らしている。起き上がろうとすると、カウンターに髪がへばりついていた。枕にしていた腕が痺れている。
身体を起こした反動で、肩にかかっていたブレザーが落ちた。私の物ではない。隣を見ると、彼女がワイシャツ姿で本を読んでいた。私が目を覚ましたのに気づいて、彼女はこちらを見る。本を持っていた手の片方だけ挙げて、彼女は指を少し開いた。
床に落ちてしまったブレザーを拾って、私はそれを彼女に返した。
彼女はそれを羽織る。
後ろを振り返り、店内を見渡すと、もう、客の数は大分減っていた。濃度でいえば、二十パーセントくらい。
眠っていた間溶けていた身体が、徐々に還元されていくみたいだった。頭の中がすっきりしたような気がする。
帰ってから勉強するつもりだったが、なんとなく、もう、今日は良いかな、という気がした。今からでは、とてもペンを持つ気にはなれない。
「私、どのくらい眠ってた?」私は彼女に尋ねた。
彼女は本から目を離すと、腕に巻いてある時計に目を落とす。それから、片方の手の親指だけ曲げて、残りの四本をこちらに向けた。
「そう……」そう言って、私は彼女の方にもたれかかる。「あああ……。まだ、眠い……」
彼女は何の抵抗もしなければ、何の反応もしない。こうして、私の方から大胆に彼女に接触するのは、あまりないことで、それなりの勇気を要することだったから、彼女の対応が少々不満に思えた。どうして、そんな冷淡な態度でいられるのだろう、と腹の内で毒突く。けれど、実は、そんな彼女の態度が好きな自分がいることも、私は承知している。
腕を伸ばして、思い切り彼女の胴体を抱き締める。
彼女は、私には目もくれず、本のページを捲る。
窓の外は一層寒そうだった。風が強いようだ。建ち並ぶ街路樹が割と激しく揺れている。ときどき、窓にも振動が波及した。帰るのが余計に億劫になる。
「もうさ、今晩は、ずっと、ここにいない?」
私は顔を上げて彼女に言う。
彼女は視線だけこちらに向けた。
綺麗な目がすぐそこに見える。
触れてしまいたくなったが、なんとか抑えた。
彼女は首を振る。
「じゃあ、家まで送ってよ」
彼女は首を捻る。
「一人だと、寂しいんだ」
彼女とは、いつも電車で一緒に帰っている。方向は同じだが、私は彼女より先に降りなくてはならない。
彼女が何も言わないから、私は腕を伸ばして、彼女の頬に触れる。
彼女は、また、こちらを見る。
頬に触れている私の手を掴んで、彼女は私の指を握った。そのまま、上下に何度も振る。
「送ってくれるの?」
「 」
耳を澄ませると、彼女の拍動が聞こえた。一定のリズム。少しだけ速いような気がする。それに反して、衣服を通して伝わってくる体温は、少し低い。
こんな時間がずっと続けば良いのに、と思う。でも、そんなことにはならないだろうと、すぐに自分で自分の考えを否定した。今日も、帰って、ご飯を食べて、お風呂に入って、歯磨きをして、宿題をしなければならない。そして、明日になれば、また、学校に行って、授業を受けて、掃除をして……。そうして、ようやく、また、彼女とこんな時間を過ごすことができる。
私の短い髪が、彼女の腹部に接触している。別に、何かの化学反応が起きるわけでもない。
読んでいた本を閉じ、彼女が視線をこちらに向けてくる。私は彼女の顔を見ていなかったが、なんとなく気配でそれが分かった。視界の端、彼女の細く長い腕が見える。何度か出現しては消え、やがてその腕は私の腹部に回された。右側から微妙な圧力を覚える。接触の度合いが増して、私の顔が彼女の衣服に押しつけられた。
「苦しい」と私は呟く。
そう言うと、圧力が軽減される。
安定。
私は、どうしたのだろう、なんとなく、寂しくなった。そう……。それは、きっと、将来のことを考えたから。でも、将来って、何だろう? 私は明日もきちんと生きているだろうか? 彼女と、こうして、こんな時間を送れるのは、今日が最後ではないと、どうして言い切ることができるのだろう? 今日と同じ明日が来る保証など、どこにあるというのだろう?
私を抱き締めているのとは反対の手で、彼女が頭を撫でてくれる。指の関節が微妙に調節されて、私の頭にフィットするのが分かった。彼女の指は皮膚が薄くて、まるでマネキンのように角張っている。細い骨格が、そのまま私の頭に触れられる。だから、ちょっとだけ痛かった。彼女もそれを分かっているのだろう。接触は、律儀に加減されている。
暫くして、私は彼女の身体から離れた。
彼女がこちらを見ている。
瞳が右と左に交互に動いた。
私の目を見ている。
「帰ろう」私は言った。
彼女は自分の頬に手を触れる。
そのまま、静止。
私は、ようやく気づいて、手を伸ばして、彼女の頬に触れた。
それで、彼女は笑ってくれた。
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