第5話 見るは主観 話すも主観
目を開けると、真っ白な天井が見えた。天井そのものも白いし、そこに取り付けられた照明が発する光も白い。それほど多くはないが、空気中に舞う埃がきらきら光っている。目覚めたばかりで、普段は息を潜めている感覚が、今だけ力を発揮しているみたいだった。
起き上がるよりも前に、感覚が徐々に戻っていく。身体にかけられた毛布の生地の触感。そこに生じる温度と摩擦。それに、人工的な匂い。何かの粉末を空気中に撒いたのか、少し鼻を突く匂いだった。
ふと、手を握ってみると、それが何かの抵抗を受けることに気づく。
身体を起こして、そちらに視線を向けると、彼女の姿があった。
少し短めの髪。
彼女は、私の手を握ったままベッドに頭をもたれかけて、眠っている。
その顔が動いて、髪で隠れていた目が見えるようになる。
「あ、起きた?」彼女が言った。掠れた声だ。
彼女は大きな欠伸をすると、空いている方の手で目もとを擦る。それから、屈めていた脚を伸ばして立ち上がり、こちらに勢い良く倒れ込んできた。
突然の衝撃で、私は少し驚く。
「もう、心配したんだから!」
そう言ったきり、彼女は沈黙する。
私の身体に顔を埋めて、静止している。
いや、完全に静止しているのではなく、小刻みに肩が揺れていた。
私は腕を伸ばして、彼女の頭に触れてみる。
「泣いてないから」
そう言って、彼女は肩を震わせ続ける。
周囲を見渡すと、ここがどこかの病室らしいことが分かった。少なくとも、私の部屋でも、彼女の部屋でもない。それなりに設備が整っているし、病院の一画であることは間違いなさそうだ。
自分がしようとしたことを思い出した。
柵を越えて、身を乗り出した。
でも、それから先が分からなかった。
どうしたのだろう?
私の身体を抱き締める彼女の腕に、白い包帯が巻かれているのに気づく。それは肘を経由して、腕の二ヶ所を真っ直ぐに固定しているようだ。
ゆっくりと、状況が理解されてくる。
自分がしたことに、少しだけ申し訳なくなった。
でも、どうしてだろう。
どれほど申し訳ないと思っても、自分の行いを否定する気にはなれなかった。ただ、その行いに彼女を巻き込んでしまったことに対して、少しの後悔があるだけだ。そして、こうなることをどこかで想定していた自分がいることも、認めなくてはならない。
「何も言わなくていいよ」と、彼女の声。
起き上がって、彼女は私の隣に腰を下ろした。それから、一度伸びをする。どのくらいここにいたのだろう、と私は考える。それ以前に、私自身、どのくらいここで眠っていたのだろうか。
腕を伸ばして、私は彼女の手に触れた。
彼女はこちらを見る。
綺麗な目。
そうだ。私は、とても、彼女には追いつけない。それが嫌で消えてしまおうと思ったのに、彼女に助けられて、もっと駄目になってしまった。どうしたら良いのだろう。もはや、どうしようもない。どうすることもできないのだ。最良の手段すら、彼女に断たれてしまったのだから。
私と彼女では、あまりにもかけ離れすぎている。ずっと、彼女に近づきたいと願っていた。でも、無理だった。
私が消えるのではなく、彼女を消してしまえば、良いのだろうか。
「そんな悲しいこと、思わないでよ」そう言って、彼女は私の手を握る。「貴女のことは、もう、分かったし、貴女だって、私のことは充分分かったでしょ?」
どうだろう。私に彼女を理解することなど、できるのだろうか。それは、本当の理解といえるのか。理解した気になっているだけではないのか?
「一緒に帰って、一緒に暮らしてくれるんでしょ?」
それは……。
でも、たしかに、そう。
それは、私の望み。
けれど、そんなことを望んでしまって、良いのだろうか?
私は何も言えない。すぐに言葉にできない。特に彼女に対しては、それが一層できない。だから、何でもすぐに言葉にできる彼女が羨ましかった。
でも……。
そう……。
私は、もう、彼女を知ってしまった。
分かってしまったのだ。
私が私でいて、彼女を理解するのではなく、彼女になることで、彼女を理解してしまった。
それは、もう、理解とはいえない。
そのレベルを優に超えてしまっている。
気づくと、頬が妙に温かかった。
薄い衣服にできる染み。
滴。
彼女が手を伸ばして、私の頬に触れた。
「もう少し、元気になったら、一緒に帰ろう」彼女が言った。「ここで、一緒に待ってるから」
私は頷く。何かを言葉にしようとしたが、やはり言葉にならなかった。だから、首を傾げて、少し笑った。
彼女も笑ってくれる。
窓の外。
鳥の声。
いつの間にか、冬が明けて、もう少しすれば、春になる。
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