いい薬

石田空

第1話

 給料はお世辞にもいいとは言えないが、定時に帰れるというのだけは気に入っている派遣業務。ときおり目薬を差しながらその日の事務処理を終えた美弥は、正社員に「お疲れ様です」と言って定時帰宅することとした。

 制服すら与えられず、さっさと帰る美弥。駅前は派遣社員かホワイト企業の社員で溢れかえり混雑している中、ひときわ背の高い美しい男性が「美弥」と手を振った。

 嫌味じゃない石鹸の匂いは営業のためだろう。

 最近付き合いはじめた卓である。


「お疲れ様。今日も予約してたんだ。美弥が食べたいって言っていたイタリアン」

「嬉しい! あそこ全然予約取れなかったんですけど、取れたんですね?」

「営業でコネだけはいくらでもあるから」


 彼の働いている企業を考えれば、そりゃレストランの一件二件にもコネが効くのだろうと思う美弥。

 仕事ができる上に、世間話で言った本人すら忘れているようなことでもよく覚えていて、仕事が忙しいときだと励ましに差し入れをくれる。記念日になったらさらりとごちそうをしてくれる。


(世の中、こんなスマートにデートできる人って本当にいたのね)


 恋愛経験がお世辞にも豊富とは言えない美弥は、最初は誰かと勘違いしているのではと思っていたものの、徐々に絆され、今ではすっかり首ったけになってしまっていた。

 出かけたイタリアレストランで、甘い白ワインとフレンチとイタリアンのいいとこ取りな料理に舌鼓を打ちながら、世間話をする。


「へえ……妹さんがもうすぐ結婚」

「そうなんです。だからお祝いを贈って、私も参列する予定なんですけど」

「じゃあ妹さんにお祝いの品贈らないとね。よかったら一緒に見に行かないかな?」

「え……私、結婚式のお祝いとかってなに贈ればいいのか全然わからなくって。よかったら見てもらえますか?」

「自分でよかったら。お客様の話くらいでしか聞いてないけど」


 会話にもそつがなく、あっちこっち飛ぶ話題にも全部乗ってくれる。ますます美弥が夢中になってしまうのだった。

 彼が最寄りの駅まで送ってくれ、最後にタクシー代まで出してタクシーに乗せてくれたときには、「この人と結婚できたらいいなあ」とまで思いはじめるのだった。

 ワインのほろ酔いで足取りもふわふわ軽やかに帰宅する中、美弥は自宅のアパート前に大きな車が停まっているのが目に留まった。大学時代から住んでいるアパートは、元は学生専用のアパートだったのが、古過ぎたせいで今では住んでいる人全員物好きなため、案外居心地がよくてそのまま住んでいたが。


(あんな車に乗ってる人と知り合いそうな人……うちには住んでなかったような)


 住民とはほとんど顔見知りなため、意味がわからず美弥が困る。そのまま車を通り過ぎようとしたら。


「崎守美弥さんってあなた?」


 いきなり車の窓が降り、ピリリとした声をかけられ、美弥は驚く。

 顔を出したのは、年齢不詳の美女だった。化粧は女優メイクで、唇だけやけに赤い上にナチュラルに見えるくらいにつくり込まれた素人では絶対に無理な化粧。上半身から下は暗くてよく見えないが、上半身に見えるのは最近通販サイトで見た高級ブランドのワンピースに酷似していた。


「は、はい?」


 無視すればよかったものの、突然名前を呼ばれて驚いたこともあり、美弥はついつい返事をしてしまう。美女はトゲトゲとした言葉で告げてくる。


「うちの主人に言い寄っている女とはあなたのことですか?」

「はい?」


 その美女の夫と付き合っていたら、それは不倫ではないか。美弥には覚えがなく、「知りません」と素直に首を振る。

 すると美女はいきなりなにかを差し出してきたのだ。今時珍しい現像された写真だった。それを見て、美弥は喉からワインを吐きそうになった。


「……卓さん」

「主人は若い子と遊ぶとき、私に見つかるまでの間いくつもの顔や立場、名前で引っ掛けます! 迷惑なんです! あなたのことは興信所で徹底的に洗いました。あなたは主人をたぶらかした罪を、しっかり自覚なさい!」

「ま、待ってください! 私、本当に不倫するつもりなんて! 別れます! 別れますから!」

「若い子はだいたいいつも自分は悪くないと言うんです! 不倫は、したほうが悪いに決まっているでしょう!?」


 騙されたほうが罪なのか。

 美弥の言い訳を聞かず、美女はそのまま車を走らせて去ってしまった。美弥は必死に卓に電話をしようとスマホを取り出したが。


「……今かけた電話番号は現在使われておりません」


 唐突な美女の出現は、美弥がなにもかもを失う前兆であった。


****


 ショックでなかなか寝付けないまま、日付が変わって夜も明けてしまった。眠気とショックで重い体を引き摺ってどうにか会社に行こうと準備をしていたところで、スマホが鳴った。

 点滅している電話は派遣会社の担当からのものだった。


「はい、崎守です」

「崎守さん、君ハロナグループの社長夫人になにをしてくれたの!?」

「は、はい?」


 ハロナグループは、美弥が利用している派遣会社の親グループだ。そこの社長夫人と言われても、と考えたとき、あの大きな車に運転手付きで乗っていた美女が頭に浮かんだ。

 卓は身分詐称をすぐやらかすとも。


(まさか……)


 担当は嘆き声を上げていた。


「社長をたぶらかした、即刻君を処分しろって、昨日鬼電があって……本当に申し訳ないけれど、まだ少し期日残っているけれど、派遣打ち切りだから!」

「ちょっと。待ってください! 給料は!?」

「今月出た分は期日には支払うから! それじゃあね!」


 そのまま切られてしまった。

 いくらなんでも無茶苦茶過ぎる。そう思って美弥が泣きそうになっている中、今度は実家から電話がかかってきた。


「美弥……あなた、不倫していたの?」

「お母さん。ちょっと……なんで?」

「昨日ね、うちに写真を持ってハロナグループの奥様がいらっしゃったの。そのせいで、あの子結婚取りやめになりそうなの。社長夫人を敵に回したくないって、向こう側が」

「ちょっと、ちょっと待って! あの子は関係ないじゃない!」

「……あのね、美弥。付き合う人は選びなさいって、いつもいつも言っているでしょう? お父さんはカンカンで、もう絶対にうちの敷居は跨がせないって。ほとぼりが冷めるまで、うちに帰ってこないでね」

「ちょっと待って! お母さん、本当に違う!」


 美弥の言い訳も聞かず、母にまで電話を切られてしまった。


(私が……私が騙されたって話は、誰も聞いてくれないの?)


 卓が遊ぶために詐欺を働いていたなんて知らなかった。既婚者だったら近付かなかった。

 そう言っている中、今度はトントンと控えめに玄関の扉が叩かれた。まだなにかあるというのか。

 美弥が心底うんざりしている中、ためらいがちな声をかけてきたのは大家であった。


「崎守さん、ちょっと大丈夫?」

「あ、はい。なんでしょう?」


 美弥は訳ありしかいないこのアパートでも家賃滞納を怠らない有料店子の自負がある。そんな自分にわざわざ会いに来たのはなんだろうか。

 美弥は大家を玄関の中に招き入れると、小さな大家がより一層小さく見えた。持っているのは大手デパートに入っている有名菓子メーカーのものだった。


「……本当は二ヵ月前には言わないと駄目なんだけど、本当に急に立ち退きになっちゃったのよ」

「はい?」


 いくらなんでも。

 昨日の今日で既に職も家族も失ったばかりだというのに、あんまり過ぎる。美弥は頭が回らない中、なんとか言葉を捻り出す。


「どうしてですか?」

「わからないの。うちの地主にいきなり立ち退き要求が来て……他の店子さんにも今連絡が入って大騒ぎになっていて」


 大家は既に夫を亡くしてひとりでアパート経営をしていたというのに、突然の話で顔面蒼白になってしまい、唇まで真っ青に震えてしまっている。

 その人にはもうなにを言っても追い打ちをかけるだけだということを、嫌でも美弥は思い知った。


「……わかりました。今まで、お世話になりました」


 衣食住足りて礼節を重んじる。

 美弥はたったひと晩のうちに、これら全てを失ってしまった。なんとか学生時代に使っていたカートに生活用品を全部持ってきたものの、これからどうすればいいのかがわからない。


(私……ここまでされないといけないこと、したの? 騙されたのは私なのに、どうして……?)


 しかし相手は大手企業の社長にその妻。相手が巨大過ぎて話してもまず誰も信じてくれないし、その相手を知っていたら誰も助けようとも思わない。

 今は真昼間で、普通の人は働きに出かけている。路地を歩いているのは買い物に行く主婦か大学生しかいない。その中、美弥は途方に暮れてよれよれと歩いていると。


「お嬢さん、お困りですか?」


 普段であったら無視する、怪しい声だった。

 現状の美弥は普通ではなかったため振り返ってしまった。黒いスーツに黒いコートは時代がかっていて、まるで昭和の映画スターのようだ。

 昨日はいきなり美女に罵倒されて、今朝に衣食住を失ったばかりだ。もうなにも怖くはないと、美弥は「はい」と答えた。


「私、いきなり不倫だと罵倒されて、仕事クビになって、家族と絶縁しかかって、アパートも追い出されてしまったんです」


 それだけされたという事実を思い知り、ようやく美弥は涙が出てきた。

 好きになった相手が悪かった。理屈で言ってしまえばそれまでだったが、そこまでされないといけない意味がわからなかった。美弥は声を上げて子供のように嗚咽を漏らしはじめたのを、黒スーツは黙って見ていたら、やがてひと言「ふむ」と言った。


「いらっしゃい。薬をあげましょう。幸せになれる薬ですよ」


 これが普段の美弥であったら、「大変なことになる」と速攻で逃げ出していただろうが、今の彼女は自暴自棄になっている。もう守るものがなさ過ぎて逆に無敵だ。

 だから黒スーツにひょこひょことついていってしまった。


 たしかに、くれる薬はいいものだったが、別に白くて違法なものではなかった。


****


【黒沼美容整形】


 古くて平成通り越して昭和の建物だらけな路地をぬって到着した、より一層ボロボロの建物に掲げられた看板に、思わず美弥は黒スーツを見た。

 危ない薬のバイヤーには見えても、医者には見えない。

 黒スーツ……黒沼は顔を竦めた。


「うちには意外と芸能人も来るんですよ。表立って整形したら、週刊誌にあることないこと書かれますから。いらっしゃい」


 そう言われて美弥は恐々とついていった。

 中からは何故か焼き肉の匂いがする。レーザー手術をすると人の肉の脂でそんな匂いになるらしい。どこかで聞いた話をぼんやりと考えていて、肝心なことを言わなければいけなかった。


「私、手術をしてもお金はありません」

「ああ……そう取られましたか。心機一転赤の他人になったら、人生やり直せると。半分は当たっていますが、半分は正しくはありません。あなたに求めているのは試薬……うちにたびたびやってくる美容の薬のモニタリングの仕事を依頼したいのですよ」

「……薬、ですか?」

「はい。世の中整形で芸能人の誰かのようになりたい、もっと美しくなりたいとおっしゃる方々が足を運んできますが、中には物理的に不可能な方もおられます」

「物理的……お金の問題ですか?」

「もちろんそれもありますが。世の中には骨格の問題で、お客様の願望に沿う顔にするのが不可能な方が存在します。もしそれでも無理矢理するのでしたら、骨格を削ったり逆に足したりして手術する必要があり、全ての手術を終えるとなったら、うちの病院を土地ごと買える値段を支払う必要があり、実用的ではありません」


 それに美弥は呆気に取られた。いくらボロボロの病院とはいえど、それを買い取らないといけない金額の手術費なんて、美弥のかつての年収を越えているに決まっている。

「そこで」と黒沼はなにかを出した。


「製薬会社が美容液の研究の最中で、骨格を柔らかくすることで整形しやすくなる薬を偶然開発に成功させたんです。ただ骨格を柔らかくして好きな顔に整形できるなんて技術、表で知れ渡ったら悪用されるに決まっていますからね。それで、あなたにモニタリングをして欲しいんですよ」

「……私になにをさせたいんですか?」

「いえ? あなたを陥れた方々に復讐する機会です。顔を替え、新しい戸籍を用意するところまではお手伝いできますが、私ができるのもここまでです。あなたが誰にどのような形で復讐を果たすかは、あなたが好きになさってください」


 新しい顔、新しい戸籍。復讐の機会。

 元々の美弥は大人しく、今をそこそこ楽しく生きられればいいというよくも悪くも欲がない性分であったが。その欲のない人間が全てを奪われた。

 金持ちの道楽のために。嫉妬のために。そいつらから全てを奪って、なにがいけないというのか。


「……わかりました。薬のモニタリング、お受けします」


 ただより高いものはない。それでも、無欲のまま奪いつくされるよりはずっとマシだった。


****


 今時不景気でも金が回るところでは回る。歓楽街の中でもひと際華やかな店は、VIP以外の客は回らなかった。

 その中で波浪奈聡介は酒を飲んでいた。たった一代でグループを形成されるほどの会社を育て上げ、中でも派遣会社の業績は天井知らずだ。派遣業務という業績内容のせいで、その分世間から白い目で見られることも多いが、人材インフラを各地に派遣しているのだから、文句を言われる筋合いはない。

 これだけ金を持ち、人にかしずかれていると、忙しいのに暇だという不思議な感覚に陥る。体が勝手にできる仕事をしているときは、頭の中は暇なのだ。

 その退屈さを持て余してその辺の女子に手を出しては遊んでいた。そして飽きたと同時に、妻に不倫内容を報告する。妻は叩き上げの聡介とは違い、生粋の金持ち家系の人間だ。プライドの高い彼女が不倫や醜聞を許す訳がなく、遊んだ女子は皆、綺麗さっぱり消えてくれるから、後腐れがない。

 こうして彼は、無神経なまま女子を貪り食い、そんな子の入れ替えのタイミングでホステスを呼ぶこともなく、ゆっくりと高い酒を飲むのをよしとしていた。

 のんびりとバカラのグラスの酒を注いで舐めていたところで、見知らぬホステスが接客をしているのが目に留まった。鮮やかなドレスを清楚に着こなし、鮮やかに笑っていてもけばけばしい雰囲気にならないヤマユリのような佇まい。


「彼女は?」


 ボーイに尋ねたら教えてくれた。


「新しく入りました胡蝶です」

「ほう……うちの席に呼んでくれないかな」

「かしこまりました」


 ボーイに呼ばれ、胡蝶は聡介の席に現れた。


「胡蝶です。よろしくお願いします」

「いいよいいよ。こっちに座って」

「失礼しますね」


 聡介のグラスに酒を注ぐ様も初々しく、そこが彼の嗜虐心を煽った。彼は右も左もわかってないような無欲な女に付け入り、妻によりなにもかもを奪われていく様を見るのが楽しみだった。

 ちょうど先日も妻に追いやられた女がいた。既に聡介は名前を覚えていなかったが。


「飲み直したいのだけれど、よろしかったらアフターはどうかな?」

「まあ、嬉しいです」


 彼女は声を弾ませた。

 チョロい。新入りだと言っていたから、まだ夜の世界の嘘が見破れないのだろう。そう聡介は楽し気に思いながら、彼女を連れて行った。

 仕事用に一年単位で予約を抑えているホテルのスイートルーム。そこに部屋を取っていたが、胡蝶は「先にバーを見てもいいですか?」と尋ねてきた。


「私、夢はバーを開いてそこでお酒を飲むお客様を見ることなんです。いろんなバーを見たいんです」


 夢見る少女らしい言葉に、どうせ何杯か飲ませたら終わるだろうと快諾して、バーに入っていった。

 カクテル。スキュリュードライバー。アレキサンダー。ホワイトルシアン。どれもこれもレディキラーとも呼ばれる酔いの回りの早いカクテルだが、それを胡蝶は顔色ひとつ変えることなく飲み、聡介にも進める。


「ああ、すみません。お酒が回って化粧が崩れました。少し化粧直しをしてきますね」

「いいよいいよ。そのまま部屋にでも」

「この顔じゃ駄目でしょう?」


 そう笑いながら化粧室に回る胡蝶を、聡介は目を細めながら見送った。つくづく自分をじらすのが上手いらしいと満足気に眺めていたら、飲んでいたホワイトルシアンに違和感を覚えた。

 元々ウォッカとコーヒーリキュールで割り、生クリームを上にいっぱい載せてつくられるこれは、甘い口当たりのはずなのに、わずかばかりに辛さが残ったのだ。その辛さはウォッカやコーヒーリキュールのものではない。


(なんだ……? 眠気が……まさか。薬を!?)


 遊んでいる中、妻に連絡が取れないようにしていた。それが災いして、倒れてもバーの店主以外は誰も見ていなかったのである。


****


 胡蝶……美弥は「けっ」と言いながら、バーの外のトイレからそのまま家路についていた。

 黒沼の用意してくれた家は自分が住んでいた安アパートよりも狭いが綺麗で、概ね満足だった。

 卓に盛った薬は、自分が飲んだものと同じだった。

 あの薬は少し触れた人間の顔はもちろんのこと、指紋も変えてしまう。正真正銘別人に生まれ変わる薬だった。

 だからこそ美弥は、卓に薬を盛り、ペタペタ触って誰もがうらやむ顔の彼の人相が変わるよう呪った。そして手。指紋が変わったら大騒ぎだろう。

 彼が目が覚めたとき、彼はなにもかもを失う。

 プライドの高過ぎる妻。育て上げた会社。そして遊びに付き合ってくれていたいといけな女の子たち。


「なにもかもをおもちゃのように捨てられる気分を、一度味わえばいい」


 それがいい薬になるか、ならないかは。彼しか知らない話だ。


<了>

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