6.続・ピンカートンの悲劇

「わっ!!」

{ダメッ!!」」

 くつくつ煮えるまっ黒なお出汁だしがたちまちピンカートンの姿を飲み込んだ。


   角鍋やどぜう跳び込む出汁の音


 万事休す、と立ち尽くしたその刹那、

「待てっ、このっ!!」

 店主が、目にも留まらぬ早業で長箸をひっつかみ、物凄い形相でピンカートンをはさみ上げた。

 お皿によそわれたピンカートンは狂ったように胴体をねじりまくっている。

「氷だ!早く!!」

 川田くんが叫ぶより先に一夏は跳び出して、隣の店のラムネ桶をまるごと掻っさらって来るなり、ピンカートンを氷水の中に漬け込んだ。

 あっけにとられて人々が見守るなか、ピンカートンは徐々におとなしくなって行く。

「良かった …」

「ドジョウのおでんになるかと思った …」

 ホッと胸をなでおろす川田くんと一夏。

「見せてみろ」

 怒鳴り倒されるかと思ったら、おやじ氏が意外にも心配そうに覗き込んできた。すっかりおとなしくなったピンカートンを片手にのせる。それからおもむろに、体にねりカラシをぬりはじめた。

「火傷にはこいつが一番効くんだ」

 案外、良い人なのかもしれない。

 ぬり終えたピンカートンを氷桶に戻すと、店主はこちらに背を向けてボソッとつぶやいた。

「金は要らんから、二度と来てくれるな」

 やっぱり怒っている。ふたりは身をすくめてその場から退散すると、お隣にラムネ桶を返しに行った。さすがにおでん代だけは置いて来た。

「大変だったねぇ」

 一部始終を見ていたおばさん店主がふたりにドウジョウしてくれた。川田くんと一夏は謝って、迷惑をかけたお詫びにラムネを一本ずつ買うと、お店のベンチの、カント煮屋さんから一番遠い側の端に腰かけて神妙に飲み干した。一息つくとほっと気が抜けて、ふたりしてしばらくぼんやり海を見ていた。店の奥からは落語の小噺らしいラジオが聞こえて来る。


   「もしもし、お父さんいる?」「いらない」


   「タバコ吸ってもいいですか?」「いいわ、吐かなければ」


   「隣の奥さん、交通事故で顔を大怪我されたそうよ」

   「まあ、お気の毒」

   「でも手術で元に戻せたんですって」

   「まあ、お気の毒」


「ピンカートン、元気になったかな」

 一夏が桶を覗きに行ったきり、棒立ちになった。

「プッチー兄」

 茫然と川田くんの顔を見る。

「凍ってる!」

 だが、その手の事故なら川田くんは今日すでに一度経験済みだ。

「浸け過ぎたかな?少し温めて溶かしてやろう」

 おばさんに頼んで軒先を貸してもらい、てるてる坊主がわりにピンカートンをつるしておいた。

「これでよし」

 溶けたらまた人工呼吸とマッサージをしてやれば良い。

「じゃ、泳ぎに行こ!」

 一夏はさっきからうずうずしていた。

 川田くんは気が乗らない。ピンカートンを見ていないとまた視界が変になるからだ。

「見ててやるから、ひとりではじけて来い」

「うん、わかった」

 一夏は大真面目に準備運動して、「溺れかけたら絶対助けてね」と言い残し、一目散に海へ駆け出した。

 ラジオではまだ小噺が続いている。


   「うちの犬はね、子供が大好きなの」

   「あら、うちのはドッグフードしか食べないわ」


 一夏がはしゃぎはじめた。肩くらいの深さの所でクロールを試したり、潜って魚たちと遊んだり、背泳ぎで浮んだりしながら、時々こちらを振り向いては手を振って来る。幸せな奴め。ひとりであんなに笑っていられる一夏が、川田くんにはちょっぴり眩しい。

にい!」

 ひとしきり遊んだ一夏は、ずぶ濡れの髪の毛で戻って来て手を引っ張った。息がはずんでいる。

「きれいだよ!一緒に行こう」

「よし」

 立ち上がって行こうとした川田くんをふいに呼び止める一夏の声。

「プ、プッチー兄 …」

 川田くんが一夏の視線を追う。

「ピンカートンが …」

 ピンカートンがからからに干からびて干物になってしまっている。干し過ぎた。大変だ。急いで軒からはずし、海へ向かう。

「早く水分を補給しないと!海に浸けてふやかそう」

 一旦、波打ち際に下ろして様子を見る。少し湿り気が戻ってきたが、全身ボロボロに皮膚が焼け剝がれていて、ドジョウだか何だかもう分らない。それにあまりにも動きがない。

「貸して」

 一夏がピンカートンを連れて海へ入ってみる。泳がせようとひもを引っ張って歩いてみたが、ただ為されるがままにゆらゆらと漂っているばかりで全く反応していない。試しに立ち止まると、お腹を上に向けた格好のままゆっくり底へ沈んで行ってしまう。溺れている。もう一度試してみる。やはり何もせずに沈んで行く。どうしよう。早く何とかしなければ …

 あれ?一夏の後の海面が急に持ち上がる。と思った次の瞬間、突然、倍くらいの高さになった大波が一夏の方に襲いかかってきた。ホオジロザメだ!リーフに迷い込んで来たサメの子が、餌と間違えてピンカートンに襲いかかった。

「危ない!」

 間一髪、一夏はピンカートンの糸をたぐり寄せた。だが、牙のかすめた尻尾の付け根は身がえぐれて骨がのぞいていているではないか。さらにまずいことに、サメは、今度はピンカートンではなく一夏のお尻に狙いを定めて方向転換して来た。いくら子ザメでもあんなのにかじられたらひとたまりもない。

「プッチー兄‼」

 一夏の悲鳴が上がる。

 川田くんは服のまま捨て身で海へ飛び込んだ。

 だが、とても間に合わない。

 大きく開いたサメの口が、とうとう一夏のお尻にかぶりついた。海面がたちまちくれないに染まって行く —— はずだったが、なぜかまだお尻はある。血も出ていない。絶対噛み付かれたと思ったのに。だが、子ザメはそんなことにはおかまいなく、再び身を翻して迫って来た。そして、遂に … 、砂浜まであとほんの少しという所で今度こそ本当に一夏に追い着いてしまった。もうお終いだ。幸運は二度は続かない。狂暴な牙をむき出しにした口の裂け目が丸呑みだぞと呼んでいる。母ちゃん、父ちゃん、ばっちゃん、じっちゃん、ついでにプッチー兄も、さようなら。ほら、跳びかかってくる。—— ところが。その時、何かが起きた。

 一夏の手に釣り糸でぐったりぶら下がっていたピンカートンが全く突然、水平に身を起すなり、それは苦し気に大きく咳をして物凄い火を吐いたのだ。さっきのカント煮のお出汁がよほど効いていたとみえる。いきなり巨大な爆炎に襲われたサメの子は鼻づらをまっ黒こげにされてキョトンとなった。それから、今しがたの一夏と同じくらい死に物狂いでUターンするとあっという間に外洋へ逃げ去って行った。

「一夏 !! 」

 ようやく辿り着いた川田くんが一夏を激しく抱きしめる。

「大丈夫か !? 」

 お尻をなでて確かめてやる。無事なようだ。その時になってはじめて、一夏は自分にしか見えない素敵な尻尾が、あの時、身代わりになってくれたのだと気が付いた。

「プッチー兄、逃げよう」

 見るとビーチ中の人たちがこちらに押し寄せて来る。カント煮のおやじ氏もラムネ屋のおばさんもいる … 。これではいい晒し者だ。報道陣など来て、もしニュースにでもなってしまったら死ぬほど恥ずかしい。

 水筒もローブもバッグも帽子も何もかも椰子の木陰に置いたまま、ふたりは逃げ出した。

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