3.ある晴れた日に

 玄関で声がした。

 一夏だ。放っておこう。どうせ勝手に上って来る。

 中学一年生の、発達心理学でいうところの思春期前期の乙女だが、精神年齢が幼いのか開けっぴろげで色気が無く、健全な成長の証しである反抗期の兆候すら皆無なので、川田くんにとっては少女というより、限りなく人間に近い。ほら、上って来た。

「わ、ビールだ!」

 目ざとくジョッキを見つけて楽し気に川田くんを見る。それにしても何という出で立ちだ。普通のスクール水着のうえに大きなローブを羽織って、あとは麦わら帽子を頭にのせただけ、胸はペタンコだ。片手の小さなビニールバッグにも、ゴーグルか、せいぜい耳栓が入っているくらいで、鏡やブラシや化粧品なんて絶対に入っていない。命をかけてもいい。けれど、一夏に会う度に川田くんが思わずプッと吹き出しそうになるのを必死でこらえなければならないのには別の理由がある。あれは一夏が四年生だった三年前のことだ。ある晴れた日に、川田くんは二階のロフトに寝そべってプリンを食べていた。ロフトには小窓がひとつ付いていて、何気なく外をのぞいていると、庭に面した隣家の廊下を一夏が駆け抜けて行く。何と生まれたまんまの一糸まとわぬ真っ裸だ。比嘉宅の間取りから察するに風呂場にバスタオルがなかったのだろう。もろにお尻を見てしまった。一瞬の間のあと、川田くんはひとりでひっくり返った。笑い転げて、そこら中プリンまみれにしてしまったが止まらない。それ以来、一夏の顔をみる度にあの時のシーンが思い出されて、笑いがこみ上げて来て苦しい。もちろん、比嘉一族にはこの件は伏せたままだ。

「あぁ、困った」

 川田くんはわざと顔をしかめてみせて可笑しさをかみ殺す。

「一夏のせいで飲み損ねたぞ。どうしてくれる」

「わたしのせい?」

「そうとも。今これを飲んでみろ、もし一夏が波にさらわれて溺れでもしたら、いとけなき少女を見殺しにした無責任な酔っ払いの下衆男だと叩かれること必定だ」

「もう一度言って」

 一夏は嬉しそうだ。「いとけなき少女」というところが気に入ったらしい。

「クソッ、保冷ポットや冷蔵庫に戻したくらいじゃ気が抜けちまうしなぁ … 」

「じゃ、ばっちゃんたちにあげよ?これからシュプレヒコールを上げに行く所だから良い景気づけになるよ」

 口惜しいが、それくらいしかなさそうだ。

 川田くんが手早く身支度を整えて居間に戻ってみると、一夏はピンカートンを取り出して首に何かを付けていた。

「わたしが作ったの。見て、何て可愛いの!」

 ピンカートンの首にエリザベスカラーが飾られていた。犬や猫が傷口をなめないように首にはめるあれと同じ形だ。薄くてやわらかな透き通った合成樹脂を切り貼りして上手に作ってある。淡いレモン色の地に、お洒落な黒の音符模様が散っていて、サイズもちょうど良い。

「おー、なかなかだ。似合ってる」

 正面から見ると、エリマキトカゲかウーパールーパーに似ていなくもない、かもしれない。

 うん、そうだ、歩く時、こいつを帽子の前にくくりつけて行けばクールだし、もやもやに悩まされる心配もせずに済む。こいつの運動にもなるし陽も浴びられて一石二鳥だ。

 こうして川田くんと一夏はピンカートンを連れて海水浴に出発した。出がけに訪ねた比嘉宅では鉢巻とタスキをまとって戸締りをしていた二人のばっちゃんたちが、ピンカートンの漬かっていた川田くんの大ジョッキを、半分ずつ、大喜びで回し飲みしてくれた。無駄にならずに済んだだけ良しとしよう。

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