2.ピンカートンの悲劇

 玄関さきで「川田くーん」と隣の比嘉ひが夫妻の呼ぶ声がした。この辺りでは、どの家の玄関も昼間は開け放しが当り前なので、ご近所を訪問するのにドアフォンや呼び鈴を押す律義者などまずいない。

「おひとつどうぞ」

 ふたりはもぎたてのゴーヤを幾つもくるんだ新聞包みを差し出して、皺だらけの笑顔を向けてきた。

「きょうはお暇?」

 お暇だとしても、他人ひと助けのできる状況ではないのだが(だって、ふたりの顔にもがかかっていたのだから)、夫人の暖かくて優し過ぎる円い笑顔に尋ねられると強く否定するのはためらわれた。

「よかったら一夏いっかを浜へ連れて行ってやってくれないかな」

 日焼けした比嘉氏の皺顔の人懐こさにも、夫人の笑顔以上に逆らえないものがある。

「泳ぎに行きたがってるんだが、きょうはこれから五人で抗議集会へ出かけるものだから」

 五人というのは、一夏と母方の祖父を除く比嘉家の全員、比嘉夫妻と、比嘉氏の両親と、比嘉夫人の母親のことだろう。一夏は基地問題より海水浴の方が大切なようだし、比嘉夫人の父親の方は、デモ行進などという平和的手段にははなから興味がないらしい。

「じゃあ、すぐ寄越すから、よろしく頼むよ」

「困らせるようなら適当に叱ってやってね」

 知らぬ間に子守を引き受けることになってしまったようだ。が、しまった。これからジョッキをあけて酔っ払う予定だったことを今頃思い出す。迂闊だった。どうしよう。

 居間に戻った川田くんは苔落しする気力も萎えてしまい、しょんぼり水槽に蓋を戻しかけた。が、おかしい。ピンカートンがいない。あわてて水底に手を突っ込み、底の泥までかき回して捜してみたが、消えている。テーブルや床回りにも見当たらない。そういえば彼は半端でないジャンプ力の持ち主だった。以前にも何度か脱走騒ぎを起している。父によると、もともと養殖ではなく、田んぼの中で暮らしていたところを誰かにつかまった天然のマドジョウだったから、普通以上に帰省願望が激しいのではないかという。どこに消えた?もしやと思って、念のためにジョッキのなかをのぞき込むと、何やら長細い棒状のものが泡の下に刺さっていた。ピンカートンが真っ逆さまの姿で宙ぶらりんに凍っている。

 あわてて取り出したものの、生命反応がない。胸に指を当てても鼓動がないし、鼻の穴も呼吸していない。大変だ。川田君は大急ぎでテーブル磨き用のベルベット布を取り出してピンカートンの全身を包み込み、救命措置を試みた。親指と小指で心臓マッサージを施しながら口うつしで息を吹き込む。しばらく続けていると、奇跡的にピンカートンのヒゲがピクリと動いた。蘇生成功だ。意識を取り戻したピンカートンは、ケぽっ、ケぽっ、と咳き込んで口から小さな火を二度吐いた。タカノツメが効いているようだ。異常がないか、念のため体を確かめてみる。ひれ良し、ヒゲ良し、模様良し。と、その時、どうしたことか川田くんの視野から突然霧が晴れて行った。嘘のようにモザイク模様が消えて行く。原因はすぐにわかった。ピンカートンのレトロな模様が、何とと瓜二つではないか。色具合といい、形といい、そっくりで、川田君の意識下で両方の模様が出遭ったとたん、ジグソーパズルさながらにピタッとはまって打消し合ってしまったのだろう。なんて奴と、たっぷりお礼の口づけをしてピンカートンをアクアリウムに帰してやる川田くん。ところが、目の前からピンカートンの姿がなくなると、またもやが現れはじめた。いくらも経たないうちに、元通り復活してしまう。どうやら2分おきくらいにピンカートンを見続けておかないと効き目はないらしい。

「プッチー!」

 玄関で声がした。

 一夏だ。放っておこう。

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