ある晴れた日に

友未 哲俊

1.川田くんの受難

 九月最初の月曜日、川田かわだくんの視覚がおかしくなった。二時限目の講義で、とある神経症患者の症例を耳にしてしまったことが間接的な原因だった。それは臨床心理学ではなく知覚心理学の初等講義だったので、特にノイローゼの話題にまで立ち入る必要はなかったはずだし、そもそも、その単位がなければ困るという訳でもなかったのに、隙間時間を埋めるために受講していたら、話のついでにそういう流れになってしまったのだからついていない。

しかして、人は目に映る全てのものを見ているとは限らない」

 女学生に手を出すことで著名な老講師が、前列の娘たちを値踏みするように眺め渡しながら言葉を継いでいく。

「人は見たい物しか見ないという言葉もある通り、脳は無意識下で常に情報を取捨選択しており、もし、何かの拍子にその機能が損なわれたりするとひどく困ったことになる。たとえば、以前、わたしのていたある神経症患者は、自分の鼻が見えると訴えて日常生活が手につかぬほど悩んでいたものだ … 」

 彼は、最前列の右から2番目に座っていたタンクトップの学生のバストにしばし目をめてそう続けた。人は見たい物しか見ない。一方、その症例を耳にしたとたん、川田くんはまずいと直感した。が、すでに手遅れだ。自分の視界が、もう気になりはじめている。確かに自分の鼻先が見えていた。極端に暗示にかかりやすく、いったん気になりはじめると容易にはそこから抜け出せなくなってしまう性格たちの川田くん。入学当初目指していた職業カウンセラーへの道を早々にあきらめて、ニッチな犯罪心理学へと舵を取り直さざるをえなかったのも、そんな性分を自覚させられてのことだった。あわてて大きくかぶりを振り、二、三度耳たぶを強く引っ張って、その場の鼻ノイローゼだけは何とかふりほどくことができたのだが …

 症状の再発を恐れて予定していた午後からの聴講を切り上げたは良いが、帰路、モノレールの座席に腰を下ろした川田くんは、今度はその両目で、まわりに見える世界のあらゆる物を一つずつ確かめずにはいられない強迫衝動に囚われた。鼻の他にも、見えているのに意識されていない「何か」がないだろうか? 寄り目にすると、案の定、まつ毛と眉毛は見えてくるが、これはやむを得まい … 。他はどうだろう? … 窓下を流れて行く世界遺産の古城や岸壁にきらめく大小の船かげ、老若男女の乗客たちの靴の形やネクタイの色柄、ズボンの膝に落ちかかる手すりのシルエット … 、それら意識されざる物たちは、だが、それに気づいたからといって、別に川田くんを不安がらせる理由のない無害な物たちばかりのように見える —— そう安心しかけたのも束の間、もう一度安心し直す為に視覚を再点検しはじめた川田くんは、ふと、自分の目が何かおかしなものを映していることに気が付いた。間違いない。よく注意すると、視野いっぱいに、意味のないまだらな不定形の影模様のようなものが浮かんでいる。目を閉じたときに瞼の裏側に見えてくる例のあれだ。見ようと意識すると、車両内の全ての物体や窓外の景色の上にかぶさってくる。色とも言えない灰色や白や黒や褐色の、模様とも呼べない実体のないモザイク模様が視野を覆っていた。目をつむっても消えないのだから、鼻やまつ毛よりさらに始末が悪い。余計な知覚にわざわざ自分でとりつかれてしまった川田くんは、駅に降りるのももどかしく、逃げ込むようにわが家へと急いだ。

 川田くんの家は徒歩10分ほどのお洒落な今風の二階建て。この地域では珍しく両親と三人だけの小家族だ。その小金持ちの小市民プチブル的両親は昨日から地中海クルーズに出かけていたので、このさき二週間は独り身だった。その間の生活費はもらっているし、特に言いつかった用事とてなかったが、強いていえば、父親からドジョウのピンカートンの世話をするように頼まれている。居間の中央に構える厳めしい切り株型の大テーブルの真ん中にでんと置かれた30センチ水槽の泥水の中で去年から暮らしている体長四寸ほどのマドジョウだ。ドジョウの飼い方など全く知らなかったので、1~2年のはかない寿命を、せめて親の留守中だけは生き抜いてくれと願うほかない。出がけに預かったメモにはひと言、


   よく陽に当てて、日に50分は散歩させる


とだけあった。けれど、ピンカートンより、まずはこののモザイクをどうにかしなければ。だが、1時間まえ講義室でやったように頭を振ってみても、耳たぶを引っ張っても、頬っぺたをつねっても、片眼ずつウィンクを繰り返してみても、顔を洗っても、はたまたヨガ式に深呼吸して逆立ちしてみても、一向に治まる気配がない。医者に行くといっても機能的損傷ではないから眼科では無意味だし、さりとて神経科を受診するのも心理学専攻生としては恥ずかしい。詰まる所、最後はこれしかなさそうだ。川田くんは、キッチンへ行き、冷蔵庫からぎんぎんに冷えたビールを三缶取り出すと胸もとに抱えて来た。それからもう一度行って、大ジョッキにかち割り氷を山ほど放り込み、タカノツメを片手にピンカートンの待つ席まで戻って来る。水槽の正面のソファーに陣取って、おもむろにジョッキへビールを満たして行った。一缶目、二缶目、三缶目のおしまいで、入道雲みたいにむくむくと溢れかけたぶ厚い泡がぴたりと縁に止まる。よし、旨そうだ。いつもの好みで、仕上げに、砕いたタカノツメを隠し味で放り込んだ。ビールが大好きなくせに、アルコールにからきし弱くて奈良漬けを食べただけでも顔の火照ってくる川田くんだから、これだけ飲み干せば、酔っぱらって気病いも雲散霧消してくれるにちがいない。さぁ、まずは一口 … あぁ、たまらん!では、今度は一気に … と大ジョッキを口に運びかけた川田くんの目が、またまた余計な物を見つけてしまった。水槽の壁がこけだらけではないか。ピンカートンの姿がよく見えない。眺めているうちにどんどん気になってくる。とりあえずジョッキを戻し、水槽のガラス蓋を外してみる。ひどい。掃除してやらなければ。立ち上がって苔とりブラシを取りに行こうとした時、玄関さきで「川田くーん」と隣の比嘉ひが夫妻の呼ぶ声がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る