●第四十六話● 儚い蝶



『え、ええっ……⁉ こ、これって……』



〈イン・ジ・アイ〉に、月穂つきほからの通信も混ざってきた。


「そうか……、そういうことか」



 深羽みはねが言っていた。

 小等部時代、桜ノ宮女学院の少女たちはこの映画を皆で観たことがあると――。

 当然、その中には幼い嫩葉わかばもいたのだろう。

 そして、嫩葉は他の誰よりも恐怖したのだ。

 この――綿飴男コットンキャンディ・マンに。


  晴矢の耳に、文ちゃんの不気味な高笑いがどこからか聞こえた気がした。



(―—うひ、うひひひひ。これが中君なかのきみのお友達の巨大な悪夢なのでぇーす。さあ、慄きなさぁい!)



 ふわふわもこもことした体躯を持った巨大な綿飴男コットンキャンディ・マンは、こうしてみると巨大な筋肉男にも見えた。

 いかにもオールド・アメリカン・スタイルなポップ・スイーツ。

 雪のように真っ白なもこもこの体をした綿飴男コットンキャンディ・マンは、屋上を睨んでいたが、やがて、大きな首をめぐらせ、桜ノ宮女学院の敷地内をゆっくりと見まわした。


 そして、カグヤ・タワーに目をつけると、そのまま緩慢に手足を動かし、歩き始めた。

 晴矢は、思わず〈イン・ジ・アイ〉回線に向かって叫んだ。


『――踏み潰されるぞ! 皆、逃げろっ‼』


 晴矢が〈イン・ジ・アイ〉で警告を発する前に、すでに学内警報がうるさいほどに鳴っていた。地上からは、綿飴男コットンキャンディ・マンの巨大さに、地上からは少女たちの悲鳴が上がっている。

 綿飴男コットンキャンディ・マンに踏み潰されないようにと、可憐な駆除用作業着に身を包んだA組の女子生徒たちが逃げ惑っていた。

 

 彼女たちが無事逃げるのを確認すると、晴矢は、すぐさま〈イン・ジ・アイ〉で嫩葉わかばの反応を探した。

 なんと――、嫩葉の現在位置は、綿飴男コットンキャンディ・マンの内部だった。〈イン・ジ・アイ〉で呼びかけても、嫩葉の応答はない。どうやら、気絶しているらしい。



 晴矢は、深羽と月穂の方へと駆け戻った。


「二人とも、無事か?」

「は、はい」

「うん、なんとか……」


 腰を抜かしている月穂を立たせると、やっぱりダメなようだった。

 月穂は、再びへたり込んでしまった。


「ごめん、あたし、こんな大事な時に……」


 涙で潤んだ瞳で、月穂が蚊の鳴くような涙声を上げる。晴矢はすぐに首を振った。


「無理すんな。大丈夫だ。俺が必ず嫩葉を助けるから、月穂はここで待ってろ」


 すると、深羽が言った。


「俺が、じゃありませんよ」

「え?」

「俺たちが、です。……安心してください、月穂ちゃん。

 月穂ちゃんの頑張りは、絶対に無駄にはしません」


「み、深羽ぇ……」


 月穂は、とうとうぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。

 しゃくり上げている月穂の頭を撫でてから、深羽と晴矢は一緒に立ち上がった。



嫩葉わかばちゃんが待ってます。わたしたちで、嫩葉ちゃんを助けましょう」



 晴矢と深羽は、特別校舎の屋上から巨大な綿飴男コットンキャンディ・マンを眺めた。

 綿飴男コットンキャンディ・マンは、カグヤ・タワーをなぎ倒そうというのか、その腕を伸ばしている。

 屋上の柵を剣で切り裂いて突破口を作ると、晴矢たちは助走のために反対側の柵に背中がつくまで下がった。



「さあ、もう一度跳ぶぞ……!」

 


 晴矢は、深羽を背中に担いで走り出した。晴矢の青い駆除用作業着が輝き出し、〈イン・ジ・アイ〉から伝わる意思のままに、特能――【放たれる矢】を発揮した。

 綿飴男コットンキャンディ・マンに向けて、『矢』が、打ち出される。

 屋上のフェンスを蹴って、晴矢たちは思いきり跳んだ。



『――目標までの距離、四百九十五メートル』



〈イン・ジ・アイ〉が、冷静に告げる。

 走り幅跳び世界記録の云十倍を超える距離を、晴矢たちは空を駆けた。風が勢いよく頬を叩く。じきに風の感覚もなくなり、空気が――時が止まっているかのような錯覚を晴矢は覚えた。


 はっとして見ると、深羽も、……晴矢を見ていた。


 スローモーションの中に入り込んでしまったかのように、間延びした空気の中で景色が流れていく。そのはずなのに、晴矢たちは、驚きながらも、互いに見つめ合う余裕があった。晴矢たちは、紛れもなく、『同じ瞬間』の中を生きていた。


 深羽は、晴矢の顔を見たまま、優しく微笑んだ。


『ハルちゃんは、着地の準備を』

『え……?』

『わたし、行きますね』

『深羽……!』


 目を見開いた時には、深羽は、晴矢の手をそっと解いていた。


『すみません。肩、お借りします』


 そう言うと、深羽は流れるような動きで晴矢の両肩に両手を乗せた。そして、羽のような軽さでぽんっと晴矢の両肩を叩いた。

 そのまま、深羽の体は空中でくるっと一回転すると、さらに高く、蝶のように舞い上がった。―—【飛行】。反対に、晴矢の体は、すでに放たれてしまった矢は、もう下降線に入り、地面に向かって落下していっていた。



「深羽っ‼」

 


 晴矢は、強く少女の名を叫んだ。

 ……だが、もう晴矢は深羽と同じ時間を共有していなかった。深羽は空高く舞い、もう声は届かない高度にまで到達している。


 その瞬間だった。綿飴男コットンキャンディ・マンが、深羽に気がついた。


「……っ!」


 巨大な綿飴男コットンキャンディ・マンから見れば、深羽は本当に、か弱いただの蝶のようなものだった。

 柔らかな翅を持つ小さな蝶の舞う姿を、綿飴男コットンキャンディ・マンの目がしっかりととらえる。


 綿飴男コットンキャンディ・マンは、まるで少年が小虫を無残に殺すように、もこもこと膨らんだ腕を振り上げた。

 深羽も、標的に対しては小さすぎる大剣を振りかぶる――……。





 その時、晴矢ハルヤは、そんな場合じゃないのに、あの詩の続きを思い出していた。




 ――やがて地獄へ下るとき、

 そこに待つ父母や

 友人に私は何を持つて行かう。


 たぶん私は懐から

 蒼白め、破れた

 蝶の死骸をとり出すだらう。

 さうして渡しながら言ふだらう。


 一生を

 子供のやうに、さみしく

 これを追つてゐました、と。




(――なんだって、こんな時にこんな詩、思い出すんだよ⁉)


 晴矢は歯噛みした。


 嫌だと思う気持ちとは裏腹に、詩人何某が書いたこの詩のことが、どんどん脳裏に蘇ってきた。

 これは、祖父母が好きな詩だった。


(祖父ちゃんたちは、学者ってのはこういうもんだっていつも言ってたっけ……)

 

 晴矢は、幼い頃からその気持ちがどこか理解できるような気がして、生きてきた。

 きっと自分も、どれほど追いかけても手の届かないものを――真理を追いかけ、追い求め、追い続けて生き、そして、死ぬのだろうと。


 ……だけど、今の晴矢は、出会ってからずっと心の中で追いかけ続けてきたあの少女を、脆くて儚い優しい蝶を、諦めたくはなかった。


 だが――。


 その晴矢の目の前で、深羽の小さな体が、綿飴男コットンキャンディ・マンの巨大な手に鷲摑まれ、奴の口の中に無残に放り込まれた。




「っ……‼」


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