●第四十四話● 嫩葉という少女


「――嫩葉わかば! 頼む、嫩葉、返事してくれよ……!」


〈イン・ジ・アイ〉の回線が切られていても、もう直接声は届いているはずだ。

 

 人魂を無数に斬り伏せながら、晴矢ハルヤは、必死に嫩葉に向かって声を上げ続けた。

 しかし、嫩葉わかばは答えない。


「くっ!」



境界の鏡ゲート・ミラー〉に一歩近づくごとに――嫩葉に一歩近づくごとに、人魂たちの猛攻は凄まじくなる。

 人魂に頬を切り裂かれ、晴矢は舌を打った。

 もう嫩葉はすぐそこにいるというのに、人魂たちの猛攻が激しさを増し、晴矢はほとんどその場に釘づけになっていた。


「嫩葉っ……‼」


 その瞬間、嫩葉がわずかに振り返る。

 しかし、嫩葉は止まらなかった。

 

 嫩葉は、〈境界の鏡ゲート・ミラー〉に向けて、明確な強い意志を持って近づいていた。その手が、〈境界の鏡ゲート・ミラー〉に伸びる。

 ……嫩葉は、〈境界の鏡ゲート・ミラー〉の向き合う角度を大きく変えた。

その瞬間だった。〈境界の鏡ゲート・ミラー〉が生み出した異界との穴が大きく広がる。


 猛烈な量の人魂が〈境界の鏡ゲート・ミラー〉からさらに噴き出し、視界がホワイトアウトした。晴矢は、慌てて剣を振るう速度を速めた。

 けれど、猛吹雪の中で立ち往生する遭難者のように、もはや一歩たりとも前に進むことはできなかった。


(アイツは……、アイツは操られているわけじゃないんだ)


 やっぱり、嫩葉が裏切り者だったのだ。

 嫩葉は、自らの意志をもって、〈境界の鏡ゲート・ミラー〉を悪用している。

 だが、今は異界への入り口の真ん前に突っ立っている。

 あれ以上異界への入り口を大きく開いたら――、自殺行為だ。

 嫩葉の命もきっと危ない。


「……嫩葉わかば‼ なんで、こんな――!」


 晴矢は必死になって嫩葉に何度も呼びかけた。声でも、〈イン・ジ・アイ〉でも。


 すると、やっとのことで、〈イン・ジ・アイ〉の個人ルームに、嫩葉の応答があった。



『――声が、聞こえるようになったんだ』



「え……?」


『声が聞こえるようになったんだよ。ある時からね。その声は、ボクにこう言った。――本当にこのままでいいのかって。本当にこのまま、顔と名前しか知らないような男と結婚して、家庭に入って子供を生んで。自分の意思なんかない。お人形さんの人生だ。そんな風に誰かの敷いたレールに乗って生きるために、キミは生まれてきたのかって』


(声、だって……?)


 オルレアンの乙女――ジャンヌ・ダルクが聞いた神の声? いやいや、まさか。

 それとも、いわゆる第六感が察知した未知なる声か、精神疾患の症状の類か。


 晴矢は、思わず眉間の皺を深めた。

 ふいに頭の中から聞こえる声というと――心当たりがあった。

 ……だが、今は、深羽が言っていた通り原因を考えている場合じゃない。


『……それで、嫩葉はその声に、なんて答えたんだ』

『ボクは、ボクは……。違うって答えたかった。ボクは人形なんかじゃないって。だけど……』

『……』

『……何にも言えない自分に気がついたんだ。ボクには、何にもない。自分の意思も、将来の夢も、楽しいことも、やりたいことも、なにもない。

 空っぽだったんだ。だから……!』


 嫩葉からの無声通話は、もう引きつるようになっていた。今にも叫び出すような嫩葉の心の声が、晴矢の中で響き渡った。



『――全部壊してやろうって、決めたんだ。桜ノ宮女学院さくらのみやじょがくいんなんていう馬鹿げたシステムを隠れ蓑にして動いてる大人たちに、ボクたちにだって感情があるっていうことを教えてやるんだ。だって、桜ノ宮女学院が潰れちゃえば、《人類の敵》に対応するのは大人になるだろ? 一度滅茶苦茶になって、それからよく考えればいいんだ。自分たちが、どれだけ残酷なことをしてるかってことをさ。

 この〈境界の鏡ゲート・ミラー〉の話は、おまえも知ってるんだろ? このまま開きっ放しになれば、いくらでも《人類の敵》が現れるんだ。だけど、まだ足りない。もっと入り口を大きくしないと、本当に強い奴らは通れない』



『そんな、そんなことするために……、深羽が退学にしてもいいと思ったのか?』

『……オマエはいつも深羽だな』

『話をすり変えるなよ』

『だけど、本当のことじゃないか』

 

 嫩葉は、完全に冷静さを見失っていた。〈イン・ジ・アイ〉から聞こえる彼女の声は、今にも泣き出しそうだった。


『――ハルちゃん』

 ふいに、〈イン・ジ・アイ〉に深羽の通信が入る。


『ごめんなさい。嫩葉ちゃん、わたしからの通信には答えてくれないんです。

 ……お願いします、嫩葉ちゃんの力になってあげてください』


「……っ」


 聖女のような申し出。

 深羽の頼みに、晴矢は唇を嚙んだ。

 美しい。美しすぎる、他人への思いやり。

 これが、岩子いわこさんの言っていた【女同士の友情】とやらの真骨頂なのだろうか。


『……深羽。おまえ、今の状況わかって言ってんの?』

『嫩葉ちゃんには……、ハルちゃんが必要なんです、きっと。わたしには、その気持ちがわかります。

 だから……、お願いします』


 月穂を庇って戦いながら、嫩葉を心配する。……じゃあ、深羽の心配は誰がするんだ?


 すると、嫩葉から〈イン・ジ・アイ〉の通信が再び入った。


『いいよな、ハルは。好きじゃない相手と結婚しなくてもいいもんな。ボクみたいに頑張って演じたりしなくても、ファンとかついちゃってさ。皆、ハルが男らしくてカッコイイって言ってたよ。……ボクはさ、本当は男に生まれたかったんだ。そしたら、桜ノ宮女学院なんかに来なくてもよかったもんな。

 皆はどうかな? 女でよかったって思ってんのかな。嫌なこと、こんなにいっぱいあるのに』


『何だよ、それ』


『だってさ、どう考えたって男の方が生きる自由度は高いだろ? あーあ、男だったら、もっと好きなことできんのにな』


『す、好きなことって……』


 晴矢は、初めてその時、……深羽以外の奴のことを真剣に考えた。


(……そっか。この桜ノ宮女学院には――好きなこととか、嫌いなこととか、まともに考えられてる奴なんかいないんだ)


 それが、たとえ、深羽以外の女の子であっても。

 やっとそれがわかって、晴矢はようやく、嫩葉という少女に真っ向から向き合った。


『待てよ、別にいいじゃん、何でも好きなことすれば』

『無理だよ、そんなん。誰でも彼でもオマエじゃないんだよ。簡単に言うな』

『それは……。俺だって、別に簡単に言ってるわけじゃ……』


『ボクなんてダメだ。ダメダメだ。せめて在学中になにかできないかって考えたって、皆のために恋愛ごっこの思い出作ってやるくらいしか思いつかない。でも、キャラ物グッズは可愛いし、たまには深羽みたいにピンクが着てみたいし、甘いものだってほんとは大好きだし。

 そのくせ、親に命令されて伸ばしてる髪を切る勇気もない。女っぽいのは嫌なのに、こんなん、まるで女じゃん』


『女だっていいじゃん、別に。何でそんな無理すんだよ。何やったって、どう生きたって、何が好きだって、自由にすればいいじゃん。おまえが自分の人生を生きたいっていうんなら、好きにしたらいいんだよ。おまえの人生は、おまえ以外には決められない。決める権利もない。そうだろ?

 ……だけど、訊きたいんだ。なあ、嫩葉。こんなやり方を選ぶ必要が本当にあったのか?』


『あったよ! あった……、あったんだ。ボクは、絶対……。だから……』


 晴矢に責められていると感じているのか、嫩葉の声はどんどん途切れがちになっていく。


『違う、そうじゃない。俺は、おまえが悪いって言ってるわけじゃないんだよ、ああ、なんて言えばいいのかな……!』


 晴矢は苛立った。

 本当に違うのだ、晴矢が言いたいのは。

 だけど、上手く言葉を選ぼうと思うのに、意図に反して、表現が曲がっていく。


『本当なんだ。俺は、今度のことはおまえのせいだとは思ってなくて……!

 そりゃ、こんなことをしたおまえには言いたいことがいっぱいあるよ。だけどさ!』


『何だよ。言いたいことがあるんだったら、さっさと言えばいいだろ⁉』


『だから、本当に責めたいわけじゃないんだって! 嫩葉に、こんな風に桜ノ宮女学院に対する破壊工作みたいなことを仕掛ける必要があったのかって聞いてるんだよ。

 もしかして、おまえ以外の誰かが――』


『逃げるなよ! ハッキリ言えばいいじゃないかっ』


 嫩葉の瞳から、……ついにつっと涙が溢れた。


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