●第三十二話● その女の子が、泣いた時


 

 幽霊ゴーストの大量発生――今回の事件は、絶対におかしい。



(ひょっとして、深羽みはねを陥れようとしている奴がいるんじゃないか?)


 そしてそれは、……晴矢ハルヤには、あの斎院さや盾羽たてはだと思えた。


 黙って前を歩いている深羽に、晴矢は眉間を寄せた。深羽の肩は、かすかに震えている。


「……なあ」

「……」

「なあ、深羽」

「……」

「なあ、おい、深羽!」


 三度目に声をかけても反応がなくて、晴矢は深羽の肩に手を置いた。

 驚いたように深羽が振り返り、ようやく晴矢を見た。



「あ……。すみません。ぼーっとしてました」


「謝らなくていいよ。

 こっちこそ、大きい声出したりしてごめん。

 あの、あのさ、深羽。……桜ノ宮女学院さくらのみやじょがくいんを退学って、本当か?」


 晴矢が訊くと、深羽は小さく頷いた。

「……はい。桜ノ宮女学院の高等部に進学した時の、姉との約束でしたから」



 では――最初から、この罠が仕掛けられていたというわけだ。

 この間盾羽に持ちかけられた陰謀の件もある。

 あの女は、いずれ機を見て妹を退学へ追い込むつもりだったのだろう。



(深羽の退学? ……けど、深羽がこのまま、桜ノ宮女学院を退学すれば)



 晴矢ハルヤは、深刻な表情をしている深羽みはねに、何とかさり気ない調子で言った。

「でも……、さ。

 退学したら、普通の高校に行くんだろ? そういうのも……、楽しいかもしれないよな」


 彼女がこのまま三十歳のオッサンと結婚させられるくらいなら、他校に転校してしまった方がよっぽどいい気がした。



「普通に学校行ってさ、おんなじ普通の奴らがいて、青春して、いっぱい遊んで……。

 きっと楽しいよ、深羽なら。絶対楽しめる」


「でも……。ハルちゃんは、わたしが転校しても、寂しくないですか? わたしは、ハルちゃんと会えなくなったら、寂しいから……」


「お、俺だって寂しいよ。だけどさ――」



 ……だけど、ただの転校なら、もしかしたらいつかどこかで会えるかもしれない。

 再会。

 その時、深羽は晴矢を覚えていてくれるだろうか? その時には、晴矢はちゃんと神埜晴矢おとこに戻っていて、それで、それで――。



「転校したって、何とか連絡は取れるじゃん。〈イン・ジ・アイ〉もあるし、任務にかこつけて会いにだって行けるよ、きっと。

 だから……」

  


 深羽みはねは黙ったまま晴矢ハルヤの話を聞いていた。

 その顔色が蒼白で、あのさくらんぼみたいな小さな唇まで真っ白になっていて、晴矢はようやく言葉を止めた。


  深羽が、大きな瞳で晴矢を見上げた。


 いや、たぶん晴矢のことは見ていなかった。

 ただほうけたように、首を振った。



「……ごめんなさい。ハルちゃんがわたしを慰めてくれてるってことはわかってるんです。

 そうですよね。わたしなんかどうせ普通なんだから、この桜ノ宮女学院に来たのが間違いだったのかもしれません。

 頑張ったけど、やっぱり、才能なかったってことなのかな……」



 泣き声もなく、深羽の瞳からはらはらと大粒の涙が落ちていった。


「泣いたりしてごめんなさい。でも、止まらなくて……」


「いや、あの……」



 また泣かせてしまった。

 だけど、今度は涙目なんてものじゃなくて、本当に泣いている。


 こんな風に流れ落ちていく女の涙なんてものを間近で見るのは初めてで、どうしたらいいのかわからなくて、晴矢はただおろおろするばっかりだった。



 深羽は、そんな晴矢から目線を外して、小さな声で言った。


「……少し、一人にしてもらってもいいですか?」


「え……」


「すみません。今、普通に話せる気がしなくて……」


 

 晴矢ハルヤは、思わずひるんだ。


(……何、これ? なんで? 俺なんかもう、消えた方がいいってこと? ……だって、深羽の奴、肩は震えてんのに――)



 声はもう、震えていないのだ。



 深羽は、ぺこんと、大きく頭を下げた。


「本当にごめんなさい……。でも、ハルちゃんも、盾羽たてはお姉様の指示に逆らっちゃダメです。目をつけられたら大変です。

 ……わたしは、一人で大丈夫ですから」


 完全拒絶。

 その声と態度は、そういう風に思えた。

 こんな状況なのに、一番苦しいのは深羽のはずなのに、少なからず胸に衝撃が走って、……傷ついて。

 晴矢は、自分の心についた傷を見た。



(やっぱり、……ダメなんだ)



 こんなに可愛くて気持ちの優しい子に少しでも近づけるかも、なんて、大それた夢だった。

 深羽は、晴矢とは全然違う人生を歩む。

 だって、婚約者がいる。三十歳の太ったオッサンったって、その婚約者は相当稼ぐんだろうし、深羽のこの純粋さも優しさも守ってやれるんだろう。

 晴矢なんかが、憧れても、目線を送っても、胸に秘めて覚えておいてもいけない。

 斎院深羽からすれば、そういう圏外の男が、自分。


 無性に惨めになって、どうしたらいいかわからなかった。

 

 でも――何でだかわからないけど、深羽みはねは逆のことを言っているんじゃないかって思えてならなかった。


 ……だって、晴矢ハルヤが間違える時は、いつだってそうなのだ。


 ホラー映画を見たあの日、チビだった晴夏ハルカの奴は、『ちっとも怖くない』と言っていた。晴矢なんかより全然平気な顔をして、ビビっている晴矢をからかって馬鹿にして、だから放っておいた。

 ……でも、真夜中に晴矢のベッドの中に潜り込んできて。小さくなって震えて、ビービー泣いて、しがみついてきたのだ。

『お兄の馬鹿野郎。何で来ないんだよ。来てくれるの、……待ってたのに』



 それに、晴矢の初陣だった、あのオーク戦の時もそうだ。大丈夫だと言って、背負わなくていいもんまで背負って、深羽は馬鹿どもを助けに行った。だけど、その夜、深羽の小さな手は震えていた。


 大丈夫じゃないくせに、大丈夫と言う。


 だけど、本当は、本当の深羽は、本当のこの女の子は――……。

 


 わからないけど、自信はないけど、……もしちょっとでも大丈夫じゃない可能性があるなら。


 だから、晴矢はもう一度だけ勇気を振り絞って――今は女なんだからとかなんとか自分に理由をつけて、次の瞬間には、目の前の女の子の顔を上げさせていた。


「! あ、あの……」

「……急にごめん。でも、これだけは言わせてくれよ。俺が間違ってた」

「ハルちゃん……」


「つーか、そんな簡単に謝んなよ。謝るようなこと、深羽はしてないじゃん」

「でも」

「悪かった。もう転校した方がいいなんて二度と言わないよ。俺が絶対なんとかしてやる。だから、諦めんな。そんなに泣くなって。

 俺、絶対に深羽を一人になんかしないから――」



 わけがわからないまま映画かドラマで聞きかじったような台詞を言い募りながら、一方で、どこかに冷静で冷め切っている晴矢が、自分を見つめていた。



(……いやいや。なに言っちゃってんの? 俺。調子乗りすぎじゃね?)



 やたらと早口になってるし、なんなら声裏返ってるし、キョドりまくってるし、キメエんだよ、俺。

 てか、無理だろ、そんなん。


 こんな自分ごときに――妹に体と人生めちゃくちゃにされて、なのに文句言うしかできなくて、親にも信じてもらえなくて、打ち明けられる友達もいない。



 クソじゃん、俺なんか。



 だけど、人生とか現実ってやつは、いつだってこっちが想定する以上に厳しいのだ。

 そーゆーもん。

 望んだ方が負けなんだ。

 だから、諦めた方が楽になることって、あるんじゃないか。



(……今回なんか、特にソレ。あの《人類の敵》の数、見たじゃん。やべえよ、あれ。

 あんなん無理だろ、絶対……)



 本音では、そう思っていた。

 そう、そう思っている。

 骨の髄から、そうだって思っているはずのに……。



「――大丈夫! な? 大丈夫だから、俺が何とかするから、俺のこと信じてくれよ。だから、もう泣くな」


 小さい頃の妹に言い聞かせるみたいに、晴矢ハルヤは何度も深羽みはねを励ました。



 何でもできるわけがない。

 できないことだってある。

 むしろ、できないことのが多い。


 そう思って、晴矢は晴夏を連れずにアメリカに行くことにしたのだ。

 それなのに、今、晴矢の口は勝手に超希望的観測を喋っている。

 

 信じられない。

 もしかして、自分は体だけじゃなくて心まで、妹に弄られて別人になってしまったんだろうか。



「深羽には、俺がついててやるから。俺がずっと、深羽の味方だから。俺が一緒に、頑張るから」



 打開策なんかちっとも思いついていないのに、泣いている深羽の前で、晴矢はそんな気休めをずっと口にしていた。


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