●第二十話● 『無』になり切るしかない!


 ――無。無だ。

 無になり切るしかない。

 


 きゃあきゃあと嬌声が響いてくる脱衣所で、晴矢ハルヤはとにかく『無』に徹していた。


 あれだけの戦闘があった後だってのに、誰もが笑顔で明るく喋り合っていた。

 晴矢ハルヤの手には、まだオークを斬り捨てた嫌悪感が残っている。

 きっと、彼女たちもそうなんだろうが……。


 そうか……悲しんだり辛く思ってしまうことさえ越えて、……慣れて・・・しまう。これが、この桜ノ宮女学院さくらのみやじょがくいんの日常なのか。



(それにしても、女の声ってのはどうしてこう、耳の奥にまで届くように感じるんだろうな……。

 風呂場でまでも、こんな騒ぎなのかよ)


 晴矢は、ぼんやりと考えた。



(……そして、そのど真ん中になぜかいる、俺――……)



 そもそも、シャワー個室なんかの設備は桜ノ宮女学院には存在しないのだ。


 大浴場は二十四時間開放されているから、ここまでごった返す時間は避けるにしても、いつかはここを使わなければならなかった。



 それが……、たまたま今日だっただけで。

 


 隣では、深羽みはねが制服を脱ぐ音が聞こえてくる。

 スカートを床に脱ぎ落として畳んで、シャツのボタンを一つ一つ外して、前に少しかがんで下着のホックに手をまわして……。……って、音と気配だけで、脱衣中の彼女が今どの工程にいるのか想像がついてしまう。

 ……頭に血が上りすぎて、今にも鼻血が出そうだった。


 何とか無に立ち戻って、晴矢はさっさと服を脱いだ。



「あ、ハルちゃん。

 バスタオル、体にぐるっと巻いちゃダメなんです」

「……え⁉ そ、そうなのかっ?」

「はい。わたしも知らなかったんですけど、バスタオルを巻いて湯船に浸かるのは公衆浴場ではマナー違反なんだそうです。

 だから、身体を隠したい時は、フェイスタオルで前をこう……」


 深羽みはねが、ありがたくない実践をして見せてくれる。

 晴矢ハルヤは、目を背けたまま首を振った。



「わ、わかった! どうやりゃいいかはわかったから、もう大丈夫だから!」

「そうですか? それじゃ、行きましょうか」



 晴矢ハルヤの不審な態度を怪訝に思った様子もなく、深羽みはねが手招きする。



「こっちですよ、ハルちゃん」

「う、うん……」


 蚊の鳴くような小声で答えて、晴矢ハルヤ深羽みはねの小指に掴まった。

 フェイスタオルをしっかり前に抱いて心にもガードを張った気になって、そのまま晴矢ハルヤ深羽みはねにくっついて浴場に入ることにした。



 油断すると、深羽みはねの一糸まとわぬ後ろ姿が勝手に目に入ってくる。


「……っ」


 急いで目を逸らして、晴矢ハルヤは床を見つめることに全神経を集中することにした。


 それでも、視界の端に真っ白なふくらはぎが入るだけで、見てはいけないものを見ている気になる。



 女のふくらはぎくらい、これまでも見たことくらいあるはずのに、この状況だとまったく違う感情になるのはなぜなんだ。




(……と、とにかく、怪しまれない程度に付き合って、とっとと部屋に帰るぞ……。お、俺は別に、こんな状況で人の裸なんか見たいわけではないんだからな……うん、そうだ、ちっとも見たくないんだぞ、俺は)

 晴矢は、脱衣所の床を眺めたまま、固く胸に誓った。





 ○





〈イン・ジ・アイ〉でこっそり緊迫した国際情勢に関する最新ニュース動画を再生し、地球の未来について云々煩悶しながら、晴矢ハルヤはざざっと全身を洗って湯を被った。


 ……温泉番組さながらにバスタオルをぐるぐる巻きにして大事なところをガッチリガードする女、というのは、ファンタジーであることを晴矢ハルヤは初めて知った。


 このあまねく女界に行き渡っているらしい常識を基準に、フェイスタオルで大事なところだけ隠す派、一切なにも持たないで堂々とすべてを晒す派、洗い髪にフェイスタオルを巻く派など、共同浴場の作法にも様々な流儀があることを視界の端でさり気に学ぶ。

 どんな分野でも、若者たる者学びは重要だ。



「あっ、湯船にタオルは浸けちゃダメですよ」

「そっ、そうなんか⁉ 女子も⁉」

「? はい、そうですよ。これもマナーなんです」


 箱入りお嬢様の深羽に一般常識を教えられて、もう、涙が出そうだった。

 そうかそうか――大昔に眺めた少年漫画の混浴シーンで女の子がタオルで身体を隠していたのは、『混浴だから』だったのか。決して、『女の子だから』ではなかったのか。……またも、晴矢の中で『女の子』に関する情報が更新される。



 深羽の指南通りにフェイスタオルという頼りないガードすらをも外して湯船に浸かると、晴矢ハルヤは湯を堪能するような振りをして固く目を瞑った。

 すぐそばで、ちゃぷんと湯を揺らす音が聞こえる。



「気持ちいいですねえ……」

 本心からそう言っているらしき隣の深羽みはねに、晴矢ハルヤは至って自然に答えた。


「う、う、うん、そ、う、だ、ね……」


 


 ……だが、ほとんど目を床に向け、怪しいものが視界に入り次第目を逸らし続けた努力の甲斐あって、幸いにも『直撃』は避けられた。

 この涙ぐましい血の滲むような努力!

 なんなら、乙女たちの貞操は俺が守ったぞ……と勝手にヒーローを自負したいくらいだ。




 ――が、次の瞬間、晴矢ハルヤは己の欺瞞を認めた。即座に晴矢は脳内で、この大浴場にいる女の子全員に――世界中のありとあらゆるモノに全力土下座した。




(――とか嘘です調子乗りました貞操は守ったとか胸張っていいことじゃないのわかってます! ごめんなさい。ほんっと、ごめんなさい。でも、マジで真正面からは見てないから!)



 マジ努力したんで、神様勘弁してください……。



(……だいたい、元はと言えば悪いのは俺じゃねえ! 絶っっっ対、俺じゃねえ‼)


 

 このような事態に陥ったのは、すべてあの悪魔のような妹のせいなのだ。

 断じて晴矢ハルヤのせいではないと世界中に全力で抗弁したい。が、……もう限界が近い。




 本当はもう今すぐにでもこの場所から脱出したいところだが、深羽が手を引いてくれないと、罪もない女の子の裸を見ずに大浴場の出口というゴールまで辿り着けないかもしれない。



「ね、ねえ、そろそろ出ようよ……」

 銭湯に一緒に連れてきてくれた親戚の姉ちゃんにでも言うみたいに、晴矢ハルヤ深羽みはねにおそるおそる声をかけた瞬間だった。




 ……誰かが、目の前で乱暴に浴槽から出て、湯が勢いよくジャブンと飛び跳ねて。




 思わずちらっと目をやってしまった。――白くて形のいい尻が、こちらへ向けて突き出されている方へ。



 そして、晴矢ハルヤは、気づけば。



(――見てしまった――……!)



 一番見てはいけないその場所を。

 人類で一番大事なところを。

 そして、その瞬間だった。




「……っ‼ ……っ⁉ ……う、う、うわあああぁぁぁ――――⁉⁉」




 浴場中に響く声で叫んで、きょとんとしている深羽みはねを置いて、晴矢ハルヤは一目散に湯船を上がって脱衣所に駆け込んだ。



 びしょ濡れのままいい加減に制服を着て、そのまま寮まで続く渡り廊下を叫びながら走った。



「うっぎゃあああああ!!!」







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