0あるいは13
「これでよしと」
携帯電話でメッセージを送信したのを確認して、私はその携帯の電源を切る。
運悪く、メッセージを返されたりしたら厄介だ。母は私の事を呼び止めるに違いない。私の存在は母の負担にしかなっていないにも関わらずにだ。
それは不味い、せっかくだした勇気が無くなってしまっては困るのだ。
市川さんの机に先ほど書いた遺書……と呼んでいいのかは微妙だけれども、別れの言葉を書いたノートの切れ端を引き出しに入れておいた。
雑な彼女のことだから、他の教科書やらと混ざって見つけられないかもしれないけど、それならそれでもいいと思う。
所詮こんなものは、私の勇気を後押しするために書いたものだ。
あろうがなかろうが、市川さんにとっては何の意味もない。ただ私の自己満足だけで書いたものなのだから。
どうせすぐに慣れていつも通りの日常に戻っていく。人間と言うのは慣れていく生き物だ。
どんなに辛い現状だって、いつの間にか慣れてしまうものだ。
私だっていつの間にか『いい子』である事に慣れてしまった。
物心ついた時から、何時だって母は忙しそうだった。
休日に遊んだ記憶なんてないし、夜に一緒に食事を取った記憶だって殆どない。いつも私が目を覚ます事には出勤して、帰りは私が寝た後というのが日常だった。
ただそれは普通の事だと思っていた。家族というのは母親しか存在しておらず、そして一緒に食事をとることも半月に一度程度しかない。それが普通の家族だとおもっていたのだ。
だけど、それが普通ではないと知ったのは、確か小学校の頃だったと思う。周りの友達の話を聞いてみると普通は父親なるものが存在しているらしいし、休日には家族で過ごすのが普通らしい。
そのことを知った私は大いに悩んだ。どうして自分の家は普通ではないのだろうかと、思い悩んだ。
思い悩んだ結果、馬鹿らしい話ではあるが、母は自分の事が嫌いなのではないかと言う一つの結論に至った。母は自分の事が嫌いだから、一緒にいてくれないのだと、本気でそう考えてしまったのだ。
そして私はある日、学校の先生に
「お母さんは私の事を嫌いなのかもしれない」
と相談した。母親の事で相談できる信頼できる人なんて先生ぐらいしか知らなかったから。
その時の先生は困ったことだろう。
先生もこちらの事情は知っていたはずだ。だけど、「お母さんは君のために頑張っているだけなんだよ」なんて正論を言ったところで目の前の小さかった私が納得なんてするはずがない。だからといって何の根拠もなく「大丈夫、そんなことはないよ」と言っても納得してもらえないだろう。
だから、先生はこう口にした。
「もっと東里ちゃんが『いい子』にしてたら、お母さんも一緒に過ごしてくれるかもね」
きっと先生は昔そんなことを言ったことはもう覚えていないだろう。
だけどその言葉は私にとって呪いの言葉となった。
その日から、私は『いい子』になろうと心に決めた。母にとって自慢の娘で、それでいて手のかからない娘になるべく、努力を続けた。
母に褒められるべく、勉強を頑張った。
学校で問題を起こさないように、周りのみんなと仲良くするようにした。
母の迷惑にならないように、わがままを言うのを辞めた。
母の手間を減らすため料理だって始めた。
偶に会う母親はくたびれた顔をしながらも『いい子』である事を褒めてくれた。
私はそれが嬉しかった。だからこそもっと『いい子』であろうとしたのだ。
そう思えた日々はよかった。
ただある日気づいてしまったのだ、私という存在が母の負担になっていることに。
そのことに気づいたのは、深沢正樹という男と出会ってからだった。
深沢正樹、こいつは血縁上は父親に位置する。既に死んでいると母から聞いていたが、中学校の帰り道あの男は何処で調べたのか私に話しかけてきた。
あの男としては私を、娘として迎え入れたかったらしいがきっぱりと断った。
私にとって家族と言えるのは母しかいなかったからだ。
そこまではよかった。
だがそこで私は衝撃の事実を知ることになった。
どうやら私は不倫の関係の間に産まれた子であるらしいことを、そしてその結果母は元いた会社をクビになったらしい。
その話を聞いて思ってしまったのだ。
――もし、私がいなければ母はもっと幸せな生活ができたのではないかと。
私が産まれなければ、母は元いた会社で働き続ける事が出来ただろう。
私が産まれなければ、もっと自分の時間を確保して働くことが出来ただろう。
私が産まれなければ、もっと自分のためにお金を使うことが出来たんじゃないか。
そのことに気づいてからは『いい子』であることは努力目標ではなく、私にとって義務になり、『いい子』でいることが存在意義になった。
少しでも母に恩を返すために、母に報いるために私は『いい子』でなければならない。
それが母から様々なものを奪ってきた自分に出来る唯一の罪滅ぼしだから
そして今、更に『いい子』になるために、こうして自殺する道を選んだのだ。これならこれ以上母に迷惑をかける事もない。
最高な結末を迎えるために、最悪な手段を選ぶのはどんな皮肉だと笑ってしまいそうになる。ただまあ私のような半端物には丁度いい末路なのかもしれない。
千紫万紅学園、この学園の屋上は珍しくいつでも解放されている。
なんでも自由な校風、というのを優先した結果いつでも屋上を解放しているらしい。首吊りも考えたが、あれだと家が事故物件になってしまう。だからと言って、学校で首を吊ってたら、誰かに助けられる可能性が高いだろう。だから、特に準備のいらない飛び降りをすることに決めた。
屋上が解放されているという珍しさから昼休みなどでは多くの学生の姿が見えるのだが、流石にこの時間だと誰の姿も見えない。
生徒達の憩いの場となっているこの場所が私のせいで立ち入り禁止になる可能性があることは、私の心を痛めたが足を止める程の理由にはならなかった。
何度かこの屋上に来たことはあるが、わざわざ好んで生徒が集まるような場所には思えない。
その思いは今も変わらない。殺風景な景色に、風や雨を凌ぐものすらないこの場所。
十月になり、ようやく秋らしい気温になったとはいえ、風が強いこの場所に長くは居たいとは到底思えなかった。出来るだけ早く終わらせてしまおう。
別に今日死のうとしたことに意味はない。誰かの誕生日というわけでもないし、何か嫌なことがあったわけでもない。
ただふと朝目を覚まし、日差しを浴びた際に今日は死ぬのに良い日だなと、そう思った。ただそれだけの事だったが、それだけで私には十分だった。
屋上に設置されたフェンスの前にたち、学校指定の上履きを脱ぐ。
屋上は整備されているとはいえ、グラウンドから来たのであろう砂などが散漫している。実際靴下で床を踏むと、ジャリっとした違和感があった。
今、靴下が砂や埃で汚れていることは想像に難くない。
この汚れを落とすのは面倒だなと、どこか冷静に判断している自分がいたのに気付いて笑いが込み上げてくる。
汚れを落とす必要なんてもうないというのに。
屋上に設置されているフェンスを慣れない手つきで登り、屋上の境目に立つ。
下を見れば、いつも登下校の際に使う昇降口の付近が見えた。
ここから落ちてしまえば、翼の無い私は潰れた柘榴のような物体に成り下がることが出来る。
私は内側に向き直ってから、目を瞑る。
大の字に手を広げてから、後方へと体重を傾ける。
だが恐怖のせいか、それとも体の反射なのか知らず知らずにそれを止めようとする自分がいる。
ただそこで私を前に押してくれるのは、母親に先ほど送ったメッセージだった。
『今から死にます。今まで育ててくれてありがとうございました』
簡単ではあるが、私の遺書だ。
本当はもっと感謝の言葉を書きたかったが、そうしていると勇気が薄れてしまいそうだったからやめた。
こんなメッセージを送ってしまった以上、私はもういい子ではいられない。
私はいい子でなければならなかった、それだけが存在意義だったから。
ならいい子で居られなかった自分はどうするべきか。
そう、死ぬしかない。いや、死ぬべきだという方がより正確だと思う。
大丈夫、こんな邪魔者がいなくなった後の世界ではきっと幸福な世界が待っているから。
こうして今死のうとしているのが遅すぎるぐらいだ。
お母さんも、市川さんも私の事がいなくなった世界に慣れて、その世界できっと幸せに暮らしてくれる。大丈夫、全部良くなるはずだ。
それを自覚した途端、先ほどまで鉄の様に硬かった体がすんなりと動いてくれる。
一瞬の浮遊感、そして風を切る音が聞こえる。
瞬間体中に感じる激痛。
そしてすぐに何も感じなくなった。
……こうして、私の人生という物語は終わるはずだった。
いや、終わらなければいけなかったのだ。人間である以上、死んだ後に物語が続いてはいけないのだ。
だというのに、私は気づけば真っ白な空間にいた。
死後の世界というのは案外地味なものなんだなと考えていると、何処からともなく声を掛けられた。
『ハロー、子羊。どうしてこんなことをしてくれたのかな』
その声は軽薄そうで、そして妙に癪に障る声だった。
何も考えずただ日々を浪費する人種。
私が一番嫌いな連中だ。
「別に何でも良くないっすか?」
話をしようとするとついつい慣れてしまった、いつもの話し方が出てしまう。
もうすでにいい子であり続ける意味なんて無くなってしまったというのに、慣れというのは恐ろしいものだとつくづく思う。
声の主の正体を探すべく当たりを見渡してみるが、人影らしきものは一切見当たらない。
何かしらの通信機器で話しかけているのだろうか?
『うんうん、実に君らしい良い返事だ。とはいえ、このままだと僕も困るんだよね。この後の試練に影響が出ちゃうから』
「試練って何のことっすか」
虫の知らせというのはおそらくこのことをいうのだろう。
こいつがいう試練と言う言葉にどうもよい印象が持てなかった。むしろ、いままで積み上げて来たものを全て台無しにしてしまうような、そんな予感がした。
『もちろん、生き返りの試練のことだよ。ほら、君ってまだ寿命が来る前に死んじゃったでしょ、だから生き返るチャンスを与えようと思って』
嫌な予感程よく当たるというのは、まさにこの時のために存在しているのだろう。
「……そんなこと望んだ記憶はないっすけどね」
生き返る、どう見てもありえない馬鹿げた事ではあるが、なぜだかこいつが言っていると本当の事に思えてしまう。
『こんな状況でも怒声の一つも出ないなんて、君は本当に人間かい? 君の中で『いい子』であることはそこまで大切なんだね』
怪しげな声は呆れかえった口ぶりでそう言った。
「……なんでそのことを知ってるんっすか」
『いい子』であること、それは私にとって心情であり、生きる意味だった。だがそのことを口にしたことはないはずだ。私の演技の事を知っていた市川さんですら、そこまでは知らないはずなのに。
『うーん、それはまあ僕が神だからかな』
普通なら馬鹿らしいと一蹴していたと思う。だけど、この声を直接聞いていると本当の事だと思えてならないのだ。
宗教なんてついぞ興味はなかったが、軽薄そうなこの男の声には何故だかそう思わせるような神秘性を纏っていた。
「他の人に生き返る権利を譲渡とか出来ないんっすか。もっと必要としている人もいると思うっすけど」
私のような人間じゃなくて、明日を生きたくて生きれなかった人にそんな権利は上げてしまった方がいい。
その方がよっぽど建設的だし、喜ばれるだろう。
『これがそうもいかないんだよね。っと、よじ、準備が出来た。これ以上君と話しても埒が明かないし、それじゃあね』
神と名乗る男がそう言った瞬間私の意識は遠くなっていった。
私に出来たことと言えば、遠くなる意識の中で自称神に対して、「こいつ絶対、神様ではなくて悪魔のたぐいでしょう」と恨みの言葉を思うだけだった。
次に意識を取り戻したのは、記憶にある学校の屋上だった。
どうやらフェンスを上る途中だったようだ。
ちょうど今私はフェンスから、乗り出している形になっている。
しばらくその姿勢で止まっていたが、少し考えてから結局フェンスから降りることにした。風が強いここに余り長居したいとは思えなかった。
足が地面に着くと靴を脱いでいるせいか、ジャリッとした足元の感覚が妙に気持ち悪い。
ああ、靴下の汚れを落とすの面倒だな。
そんなことを考えながら、私は再び上履きを履いた。
それと殆ど同じ時だった、肩から息をしながら市川さんが屋上に駆け込んできたのは。
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