一の浪 始まりの気まぐれ②
②
夢から覚めた時のような気怠さに目をこすって抗う。ゆっくりと目を開けると、丸く切り取られた陽の光が私の視界に飛び込んできた。
「っ……!」
眩んだ眼を右手で庇いながら、丸まるようにして寝ていた身体を起こして伸びをする。それから前にかかっていた髪を後ろへ払った。ちらと見えた髪色は艶のある綺麗な黒、いわゆる濡れ羽色で、少なくとも肩甲骨くらいまではありそう。黒髪ロング、カノカミの趣味なのかしら?
まあいいか。とりあえず、新たな人生は女として生きなければいけないみたい。前の性別は思い出せないし、どうでもいいんだけれど。どうせこれにも大した理由は無い。
四つん這いになって、のそのそと丸い光の先、外を目指す。今いる空間は十分に広いので立ち上がって移動する事もできそうだけれど、まだ立ち上がるには体が怠かった。
外に出ると、そこは深い森の中だった。木々の隙間から差す光は十分に明るいから、不気味さは感じない。後ろを振り返ると、大きな木があった。その根元に、人一人入るには十分な大きさの
改めて伸びをする。あんなところで寝ていたのだからポキポキと鳴ると思っていたけれど、案外で身体は凝っていなかったみたい。それに、たぶんこの体は柔らかい。魔物を相手にしなければいけないのだとしたら戦う必要があるし、良い事ね。激しく動いても怪我をしづらい。
視線を下に落とす。白いワンピースのような、ローブのような、無地でシンプルな作りの服だ。素っ裸で放り出されたわけでは無くて安心した。カノカミの求める面白さとは違うし、無いだろうとは思っていたけれど。人によってはそれはそれで面白いのだろうし。
改めて身体を見る。細身だけれど、胸は服の上からでも膨らみのわかる程度にはある。足も長いし、日本人的な体型ではないかもしれない。まあ、特別大きい胸という訳でもないし、動き回るのに邪魔にはならないだろう。ただ下着の確保は急ぎたい。今付けている物だけでは不潔だ。
身長は、比較対象が無いから分からない。手足は小さそうだし、百六十もない程度では? 体格の大きさはそれだけで武器になるのだけれど、これで大きい方と考えるのは難しい気がする。
まあ、こんな所かな。どんな顔かも気になるけれど、鏡もなしに……水の音?
ポチャンと聞こえた気がした方に歩く。洞のある大木の裏の方だ。回り込んでみると、澄んだ水を湛えた大きな池があった。よく見ると中央辺りから噴き出しているようだから、泉か。魚がいる。さっきのは、魚の跳ねた音かしら?
泉が木々を映しているのを見て、覗き込んでみる。そこに映ったのは、アメジストのような瞳の、可愛い女の子の顔だった。自分の顔を見て可愛いって、ちょっとナルシストみたいだけれど、今初めて見た新しい顔なんだから仕方がない。実際、可愛いと思う。幼さは残っているけれど、やや美人よりか。お人形みたいと形容されるような顔だ。つり目って程ではない。でも目じりはすっとしている。美人寄りに見えるのはこのせいかな。この世界、この地域の基準じゃどうか分からないけれど、自分の顔に自信が持てるのならどっちでもいいか。
うん、満足した。あとは、この水が飲めたら良いんだけれど。
魚もいるし、透明だし、飲めそうではある。……やっぱり怖い。どうにかして知れたらな。
そう思った時だった。自分の中で何かが動く感じがして、目の前に何かが現れた。
「ひゃいっ!?」
その柔らかくて高めの声が自分の声だと認識するのに、一拍必要だった。誰も聞いていないのに、ちょっと恥ずかしい。いや、カノカミは聞いてるか。アレは、まあ、いいか。
仮にも神に対してあれ呼ばわりはどうかとも思うけれど、仕方ない。思い返してみると、カノカミと初めから呼び捨てのように呼んでいた。前世の私は祖父母に倣ってさん付けで神様の事を呼んでいたのに。……そういう事は覚えてるんだ。個人情報は全然覚えていないのに。
いや、そんな事より、今は目の前のこれだ。眼前に現れた半透明の、板のような、画面のような。イメージとして似たものを上げるなら、パソコン画面のウィンドウのだろか。そこにはツラツラと文字が並んでいる。一番上の行には『泉』とだけあり、その下には『状態』『成分』などと続いている。それらの横には、下向きの三角形。
……ウィンドウ、ね。
試しに『状態』と書かれた項目を指で触ってみると、思った通りその下に新たな文字が現れた。そこには、『魔素濃度高』と『清浄』、そして『飲料可』の文字。良かった、これで飲み水の心配はいらない。
そうすると、ここを拠点にするのがいいか。たぶんこの状況もカノカミの意図したところだろう。理由は、すぐに死んでは面白くないから、かな。
泉の水を両手で掬って、口に運ぶ。うん、美味しい。身体の芯まで染み渡るよう。それに、なんだか力が湧き上がってくるみたい。
この画面みたいなやつは対象から離れても消えないようだし、洞に戻って色々触ってみよう。ここだと魔物が来た時にすぐ見つかって危ない。
何時間経ったか、面白くて夢中になってしまった。今見ているこれは『
要するに表示される情報の全てが真実でSNSの存在しないインターネットね。厳密にはインターネットというのは可笑しいけれど、イメージとしてはそれが分かりやすい。正確に言うなら、『智慧の館』がデータベースで、私に与えられた力が検索エンジンかな。情報に恣意的な嘘が無いって意味じゃ、ネットより図書館の方が近いかもしれない。
カノカミの使い方次第、って言う意味がよく分かった。確かにこれは、道具に過ぎない。ここにある知識をどう使うかが大事だ。使う人次第では、ただの暇つぶしの道具に成り下がりかねない。
知識をどう使うか、か。きっと、これを与えられた以上、死ぬまで考え続けなければいけない事なんだろうなって、そんな気がする。何となくだけれど。
「んっ……ふぅ」
伸びをすると、流石に身体が凝っているのを感じてしまった。
それにしても、これは危険ね。私みたいな活字中毒には、危険すぎる。油断すると一日中これを読んでいるかもしれない。思考だけで操作できてしまう手軽さ、文章の中の文字を多重に検索する事で無限に現れる文字、本当に危険。
実際に、前世の私は食事なしに水だけで丸二日間、ぶっ通しで本を読み続けていた記憶がある。直ぐに食べ物を得られる日本なら問題ないけれど、ここじゃあそのまま餓死しても可笑しくない。この辺で
……もう少しくらい、読んでてもいいんじゃないかしら? ほら、知識は無駄にならないし、何があるか分からない、法則も色々と違う異世界だし?
「だめだめだめ! お腹空いた! 行く!」
よし、行こう!
洞の縁に手を掛けて、外へ出る。なんだか無駄に気力を消費した気がするけれど、きっと気のせい。うん、きっと。
さて、食べられる木の実か何かはあるかしら? そうだ、探しながら魔力を扱う練習をしようかな。魔力で身体能力を強化できるみたいだし、魔法もある。正確には魔導で、魔法は魔導の枠を超え、理を無視する域に至った術全般の事らしい。魔法を使う人を魔女や魔法使いと呼ぶのだそうだ。まあ、とにかく、やっておいて損は無い。
えっと、良い訓練の方法はっと。一度閲覧したものなら、曖昧に思い浮かべるだけで候補から探す必要もなく欲しい情報にたどり着けるのだから、本当に便利。
まだこれからどうなるか分からないけれど、ちょっとワクワクしてきた。さっきまでより景色が明るく見える。楽しくやっていけるような、そんな予感がする。魔力は使えば使うほど増えるらしいし、そうすると出来る事も増える。ある程度魔力が増えたら家でも作ってみようか? いずれは街に行ってみたいけれど、それは追々で良い。
ああそうだ、カノカミをしばくんだった。とりあえず不老を目指したらいいんだったっけ。魔力の元になる魂の力がどうのとか色々あったけれど、とりあえず魔力の量が一定ラインを超えたら不老になれるって事でいいみたい。さっきの泉のような魔素濃度の高い水は魔力の回復を助けるらしいし、全然夢じゃない。
うん、良いね。自由だ。
あ、あの木の実、食べられるみたい。ちょっと高いけれど、ジャンプすれば取れ――
「――ッ!」
……人の声? 硬い物どうしを打ち付け合うような音も聞こえる。
どうしようか。相手がどんな人間か分からない。木の洞に隠れてやり過ごすのも手だ。
……行こう。もし街に行くのなら、人の情報は欲しい。でも、隠れて、こっそりだ。
息をひそめて、足音を立てないように、ゆっくりと移動する。木々に音を吸われるからなのか、目的の場所には思っていた以上に早く着いた。
茂みの後ろに隠れて、隙間から様子を窺う。
そこにいたのは、人間が三人と、灰色で二足歩行の狼が四体。狼の身長は人間の一.五倍くらい。ライカンスロープという魔物だ。人間の方は、文様の入ったフード付きのローブを着た女性と、たぶん、軽鎧を纏った若い男性が二人。女性の手には長い杖、男性たちの手にはそれぞれロングソードと槍がある。剣を持った方は逆の腕に盾も装着していた。
女性が氷の槍をいくつか生み出して撃ちだした。殆どは避けられてしまったけれど、その内の一本が一体の足に突き刺さって地面に縫い留めた。すかさず剣士がその首を刎ねる。
喉がゴクリとなった。初めて生で見る、命のやり取りだ。衝撃を受けたのは否定しない。それでも、思ったよりはマシだった。死んだのが魔物の方だからというのもあるかもしれない。
このまま、残り三体も。そう思って見ていた先で、もう一人の男性が槍を掴まれてしまった。穂先を折られながら引っ張られて、男性は体勢を崩す。そしてそのまま、喉笛を食い千切られた。
「うっ……」
吹き出る鮮血。その匂いが、私のいる辺りまで漂って、周囲を満たす。気分が悪い。
男性は息絶える前に腰に差していた予備の武器らしい剣をライカンスロープに突き立てて、一体を道連れにした。
女性が叫ぶ。何と言ったかは分からない。知らない言語だ。その杖から、炎が迸った。怒りの炎だ。冷製さの欠片もない、仲間の敵を森ごと焼き払ってやると言わんばかりの、激しい炎。
だけれど、ライカンスロープの灰色の毛皮は、炎に強い。熱気を吸い込んで呼吸器官が潰れる事はあっても、その身を焼きつくすには、オレンジ色の炎では足りない。
炎を突き破って出てきた一体が女性の杖を砕き、更には頭を砕く。即死だ。
剣士は、もう一体の爪に盾ごと押さえつけられていて、助けに入れなかった。彼の叫んだのは、女性の名前か。許さない、そう続けたのだと、何故か理解できた。同時に、それが彼の最後の言葉になる事も。
女性を殺したライカンスロープはそのまま、仲間と力比べをする剣士に向けて爪を振るった。強い憎しみの籠った視線を向けられたまま、無慈悲に。
私は動けなかった。ただ、声を上げないように、音をたてないようにするので必死だった。幸いな事に、鋭敏であろうあいつらの鼻は炎に焼かれ、機能していない。私に気が付くことなく、仕留めた三つの獲物を食らっている。
恐ろしい。
気が付くと、そこに命ある者はいなくなっていた。血の跡と、砕かれた二つの武器のみが残っている。剣と盾はライカンスロープが持っていったらしい。
もう一度、周囲にあいつ等がいないことを確認して、ゆっくり茂みの向こうへ行く。
杖は砕かれ、最早ただの木片だ。燃料にするくらいしか使い道は無いだろう。
槍の柄を拾う。穂先を折られていても、私には少し長いくらい。
怖い。槍の柄を持つ手が震える。
命のやり取りを見たから? 他人が死ぬ所を見たから?
違う。私はそんな、お優しい人間じゃない。
自分も、ああなるかもしれないと思ったからだ。
柄を握る手に力が籠った。震えが止まる。
そうだ、まずは、強くならなくちゃいけない。あいつらや、もっと強い敵に襲われても返り討ちに出来るくらい、強く。カノカミを殴るとか、家を建てるとか、そんなのはずっと後だ。
私は生きたい。まだ死にたくない。その為なら、他者の、ましてや敵対者の命なんて、厭わない。人間を殺すことになっても、どれだけ殺してでも、生きる。
その為の手段はもう、持っている。
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