4,青年
「これよりナメラセを執り行う」
父親はそう言うと、食事ののった盆を直樹の前に寄せた。
「なほるゐ様にご飯を食べさせてあげて」
補足するように亜実が言う。
直樹は再び隣の青年に目をやった。畳に置かれた食事に釘付けで、溢れ出た涎がぽたぽたと顎から滴っている。
その小さく俯いていた顔がピクリと上がり、直樹と真っ直ぐに視線を合わせた。呆けていた口が、不意に動く。
「は、や……く」
たどたどしく紡がれた言葉に、いや、意味のある言葉を発したということ自体に、直樹は衝撃を受けた。
何なんだ、これは。
この青年は。この状況は。亜実は、その父親は。牢屋は、地下は、手足は――
強張った背に何かが触れ、ビクリと体を震わせた。ガバと振り向けば、亜実が柔和な笑みを浮かべている。彼女は直樹の手に自分の手をそえると、箸へと誘導した。
「みーんなね、やってることなんだよ」
耳元で囁かれる。
箸が米をつまみ上げ、青年へと運ぶ。
「この世のものを食べさせれば、この世に留め置ける。これはそういう儀式。そして、施した人間には、なほるゐ様との繋がりができる。守ってもらえる」
青年が必死に身を乗りだし、大きく口を開けた。箸まで舐めるようにして、米を口内に収める。恍惚の表情で咀嚼し、嚥下すると、また鳥の雛のように口を開けた。
「ここの人たちはみーんなここに来て、なほるゐ様との繋がりをつくる。うちはそれが途絶えないように、きちんと管理する。だから、直樹くんも、ね。いずれ結婚するんだから……」
美味しい、美味しい、と言いながら青年はたくさん食べた。口の周りを拭いて、下の世話をして。亜実と父親がお経のようなものを唱え始めると、彼はじきに眠ってしまった。
「おかしい……」
夜、やっと亜実と二人きりになれた直樹は、そうこぼした。
「あの地下の子……何なんだよ。手足が無いからとか、狂ってるからとかいう理由で、地下に閉じ込めてるわけじゃないんだろ? 喋ってたし、他の住民たちにも知られてるみたいだし」
「何って、なほるゐ様。神様だよ?」
「人間だよ!」
思っていたよりも大きな声が出てしまって、直樹は自分で自分の声に怯んだ。でも、ごくりと唾を呑み込み、亜実を指差す。
「あれは、虐待だ。人権侵害、犯罪だ。ここはおかしい。亜実も、おかしい」
地下牢での光景を思い起こす。亜実も、父親も、不当な扱いを受けているはずの青年も、みんな当たり前の顔をしていた。ここではあれが普通で、誰も疑問など抱いてはいないのだ。
昼から凍りついていた思考が、漸く正常さを取り戻し始め、直樹は強烈な吐き気に襲われた。
「明日になったら俺は帰る。無理だ、こんなの」
「ダメ!」
間髪いれず亜実が叫んで、抱きつく。
「明日まではここにいて。明日はお祭りなの。ほら、邪気を払うって言ったでしょ? それを目の当たりにしたら、わかるから。神様だって」
「わかるわけないだろ」
「わかるよ! それに、明日は物忌みで外に出てはいけないの。外に出ないで、絶対に! お祭りが終わっても無理って思ったら、その時は引き留めないから……」
直樹の意思はすでに決まっていた。亜実が泣きつけば泣きつくほど、よりそれは固くなる。
あの道を自分で運転して帰るのは恐怖だが、背に腹は代えられない。自分にすがりついたまま寝てしまった亜実を見つめながら、直樹は明日への心の準備を進めた。
ふと、彼女の寝顔に、青年の寝顔が重なる。顔立ちがどことなく似ている気が――
大きく乱れた直樹の呼気に、ゼーゼーという喘鳴が混じった。
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