第34話 侯爵の誤算
「クソッ、忌々しい……!! まさか、ただ逃げ出すだけに飽きたらず、機密文書まで盗んでいくとは……!!」
城内の一室、薄暗い地下の一角にて、アウラ・デリザイアは怒りも露わに叫ぶ。
ミルクを手中に収め、"紅蓮の鮮血"を従わせる、あるいは激発させて正当防衛の名目で叩き潰せると考えていたアウラだが、彼は何よりもまずミルクを甘く見過ぎていた。
そこらの商人に拾われ、奴隷同然に使われても反抗一つ出来なかった腰抜け。
精霊眼の"本来"の使い方も知らない獣人の小娘。
そして何より、血塗られた傭兵に少しばかり優しくされただけであっさりと絆される、世間知らず。
そんなミルクが相手なら、少しばかり甘い顔で贅沢をさせてやればあっさりと靡くと考えていたのだが……予想はあっさりと覆されてしまった。
いや、逃げ出すだけならまだ想定内だ。よほど無理だろうとは思っていたが、もし万が一脱出されてしまったのなら、その時点で一旦計画を白紙にし、損切りしてしまえばいいだけの話だと考えていた。
だが、ミルクはただ逃げるだけに収まらず、アウラがこれまで行って来た取引や契約、事業などの情報が詰まった文書を根こそぎ奪い去ってしまった。これが、あまりにも痛い。
(文書の守りは完璧だと思っていたのですがね……まさか、スライムに運ばせるなどという裏技で突破されるとは思いませんでした……!!)
ミルクはほとんど気付いていなかったが、あの部屋には幾重にも盗難・持ち出しを防止するための備えが仕掛けられていた。
まずは、部屋全体に仕掛けられた対魔法の妨害結界。
これによって、物理手段以外の魔法を用いたあらゆる侵入や逃走、および文書の奪取を防止している。
そして、持ち出しの許可を得た者以外が文書を持って部屋を出た瞬間、警備の騎士に警報が届く通報用の魔法に加え、睡眠魔法まで即座にかけられる仕組みになっていたのだ。たとえ精霊眼のような特殊な力があっても対処出来ないよう、四方八方から同時に。
ロクな魔法も使えないミルクに、これらの守りを突破することなど不可能だった。騎士の見張りも付けているのだから、あの無知な小娘がそれら全てを突破し、書類の山から必要なものだけを素早く見出し、強奪するなど出来るはずがない。
ところが、ミルクはこれら全ての障害を、スライムを使うことで一切スルーして文書の持ち出しに成功していた。
スライムの分裂は、あくまで生物としての生命活動の一環であり、魔法ではない。
文書を体内に取り込むのも、人で言えば単に口の中に物を詰めて飲み込まないように気を付けているようなものだ。大量に持つことは出来ないが、やはりこれも妨害出来る要素ではなかった。
文書持ち出しの際にかけられる睡眠魔法も、スライム相手には無力だ。何せ、スライムに"睡眠"などという機能はないのだから、そんな魔法が効くわけがない。
そして、ミルク自身は文書を一つも持たずに外に出たため、文書に押された印蝋を目標として発動するこれらの魔法は機能しなかったのだ。
通報それ自体は、問題なく機能した。が……いくらなんでも、一体一体が物理攻撃のほとんどを受け付けない大量のスライムを相手に、領内トラブルによって警備が薄くなった侯爵家の騎士達で対応しきれるはずがない。
しかも、魔法攻撃によって大切な書類を消失させていいものかと、残った騎士達が攻撃を躊躇ってしまったこともあり、ほとんどを取り逃がす結果に終わった。
ミルクには重要書類を見分ける能力がない、という部分も、まさか数の暴力で根こそぎ奪うなどという力技で突破されるなど、アウラにとっては想像の埒外だ。
そして何より……もう一つ。
「最後の保険だったあなたに裏切られたのは、本当に痛かったですよ……やってくれましたね」
「…………」
アウラが現在いる場所は、侯爵城の地下に作られた地下牢だ。
そこに囚われているのは、アウラが雇っていた暗殺者の一人……ミルクを逃がした最大の元凶であるクロだった。
そう、クロは「命令を受けていない」と言っていたが、そんなことはない。むしろ、最も苛烈な命令を受けていた。
──もしミルクが逃げ出すようなことがあれば、その場で殺して死体ごとどこかに隠せ、と。
クロは、その命令を実行しなかった。
それ以前に、ミルクがスライムを従えていることも、その力を借りた戦闘スタイルを有していることさえアウラに教えなかった。
もしクロがそれらの情報を伝え、アウラの命令に忠実に従っていたのなら、ミルクが自力でこの城を脱出することも、ましてや機密文書を持ち出すことなど到底不可能だったはずなのだ。
それを誰よりも理解しているからこそ、アウラの機嫌は限界まで傾いている。
「あなたの妹の命を救ってやった恩を忘れて、よくもまあこの私に噛み付けたものですね。最期に、何か言い残すことはありますか? 一度くらいなら、言い訳を聞いて差し上げましょう」
殺すことは確定だとばかりに、アウラは吐き捨てる。
それに対して、クロは……全身を嬲られ、ボロボロになった体を起こしながら、小さく笑った。
「……別に、ねえよ。金のなかったあの頃の俺達にとっちゃ、ただの解熱剤すら高級品だったからな。サーヤがあんたに救われたことは紛れもない事実だよ。裏にどんな思惑があったにせよ、それを仇で返したことは申し訳ねえと思ってる」
ただ、とクロは顔を上げる。
本来の名を捨て、誰よりも大切だった妹と離れ、暗殺者として血塗られた道を歩みながらその成長を陰で見守る毎日。
その最中、妹と似たような年頃のミルクに出会って、彼女の優しさに触れ……思ってしまったのだ。
「アイツを見てたら……これ以上、サーヤに後ろ指差されるような生き方はしたくねえなって……そう思っちまっただけだ」
「そうですか。それは残念です」
何一つとして残念そうな感情も覗かせず、それだけ言って踵を返す。
その途中、一度だけ振り返ったアウラは、冷たい声色で告げた。
「今はそれどころではないので、あなたの処分は"鮮血"への対処が終わってからです。まあ……それまでここで放置されて、あなたが生きていられたらの話ですが」
ミルクが持ち出した文書の情報が広まれば、デリザイア家とその地盤は大きく揺れ動くだろう。乗り切れるかどうかは、初動の対応にかかっている。
それが落ち着くまでにかかる時間は、アウラをしても読み切れない。あるいはそれに忙殺されている間に、クロのことなど忘れてしまうかもしれない。
そんな彼の言葉を、クロは鼻で笑い飛ばした。
「それならそれで、俺にはちょうどいい末路だな」
「ふん、精々後悔しながら死ぬといい」
吐き捨てながら地下を後にするアウラを見送り、暗闇に閉ざされる視界。
その中で、クロはミルクのことを思い出していた。
『あまり、悪い人には見えなかったから……?』
『私、ミルク。あなた、名前は?』
『えへへ……ありがと、クロ』
彼自身、どうしてミルクに温情をかけたのか、よく分かっていなかった。
妹に顔向けできないと思ったのは確かだが、同年代の子供というだけなら、ミルク以外にもたくさん見て来た。どうしてその中でミルクだけが、と。
だが、そんな疑問の答えは、もはやどうでも良かった。
「……俺はもう終わりだが、主はこの程度で諦めるほど柔じゃねえ。……精々気張れよ、ミルク。それから、"鮮血"のクソ共」
誰も聞いていない牢屋の中で、ただ一人。クロは静かに、ミルク達へとエールを送るのだった。
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