反撃の魔法使い
三隅 泡
第一部 ミッドヒストリー
第一章 待ち続ける母親
ダーティガット通り5番地に住むコーネル一家は人目につかないよう、ひっそりと暮らしていた。通り自体が暗い雰囲気を醸し出していたが、コーネル家はその中でさえも影が薄い家だった。コーネル一家は夫と妻と赤ん坊の3人家族で暮らしている。しかし隣人でさえ、たまに聞こえる赤ん坊の泣き声以外で人気を感じることがないほどの静けさだった。暗くなると赤ん坊の気配しかしないような家にパッと明かりがついて、赤ん坊が1人で暮らしているのかと思って不気味がる者や、育児放棄で親はどこか遊び歩いているのかと噂する者もいた。
一家の主人であるコーネル氏は国の軍隊の中将を務めている。国中の人間は誰一人として中将という上級士官がこんな陰気なところに住んでいるとは想像もできないだろう。色白で細身、常に目の周りにはクマが張っていて、体の所々から骨が浮き出ている。風が吹いたら今にも飛んでいってしまいそうほどヒョロリとした見た目をしており、「私は今から倒れますからどうか助けてください」と言わんばかりに、見る人を不安に思わせる風貌をしている。
奥さんは八方美人という言葉にぴったりな人だった。他人と関わる際は争いごとを極力避けて常に愛想よく振る舞っていた。自分の意見を常に持つ人間だが、他人に流される生き方をしていた。
奥さんはコーネル氏の事を深く愛していた。息子よりもずっと夫を愛していたが、夫に、息子が一家で最も重要な存在だと言われてからは息子も愛するように努力し大切に育ててきた。
外出する時は家の近くの商店街で果物やら野菜やらの食べ物を買うぐらいで、そのため1日のほとんどを家で過ごしていた。1日の大半を過ごす家の中でも、赤ん坊の世話を四六時中しなければならなく、趣味に使える時間は1日でも1,2時間ほどしかなかった。それも家の中でのみに制限され、読書以外の趣味は作れなかった。そして習慣として特に気を付けていることがあった。それは、夢で見た内容を紙に書くことだ。ただ、使っていた紙は羊皮紙で値段が高かったため、文字をできるだけ小さく書いていた。
そんな、ところどころ灰色で塗られたような一家にとって怖いものというものはこの国にいくらでもあったが、最も何よりも死ぬよりも怖かったのは、息子が一家の秘密を漏らすことだった。
───コーネル家の秘密が誰かに知られてしまったら一巻の終わりだ。
秘密がバレてることを想像しただけでも心臓の鼓動が聞こえてくる。この一家にはそれほどの、重要な秘密があったのだ。そして、息子は一家の秘密を受け継がなければならないという重すぎる使命を、生まれた瞬間から託されていた。
コーネル氏は息子を愛していた。この子がきっと私たちを救ってくれる、それがコーネル氏の、息子が生まれる前からの決まり文句だった。コーネル氏はほとんど家に帰ることがなかったほどに多忙だったため、息子は母親の愛情を多く受けて育っていった。しかしそれもこの日を境に過去のものになる。
沈んでくるような曇り空が広がっていた日のことだ。普段から暗い雰囲気のダーティガット通りがより一層暗く感じる。賑やかな商店街がすぐ近くにあるというのに閑散としており、灯りがついていなければ何年も前から人が住んでいない様な雰囲気だ。その5番地。コーネルという表札がつけられた家の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。母親が赤ん坊を抱いて揺さぶっているようだ。赤ん坊の名はの名はニック・コーネル。たった生後8ヶ月の男の子だ。物語はここから始まる。
コーネル夫人は、泣きじゃくるニック坊やをやっとのことで寝かしつけ、テーブルの上に置かれたベビーベッドに静かに、神聖なものを扱う様に置いた。ベビーベッドは簡易的で、楕円形の木造りのカゴの中に布を敷き詰めただけのものだった。一息つこうと紅茶を入れ、砂糖をたっぷり入れた紅茶を飲んで、ニック坊やの頬にちょこっとキスをしてから買い物に出かけた。
しかし、家と商店街とのたかだか4軒の家の間を通ることにさえ平常を装いながら気を張り詰めなければならなかった。家の屋根の上にフクロウがところどころ止まっており、そのうちの一羽がこちらをじーっと見ている。コーネル夫人はその視線に気付きながらもなるべく気付いてないフリをして、「私は何の変哲もない一般的な善良な国民ですよ」と言うような面持ちで歩いていた。一歩、また一歩と歩くにつれて、だんだんと人々の話し声や足音が大きくなってくる。商店街に着くと大勢の人が買い物や談笑をしていて、ついさっきまでいた場所とは比べ物にならないほどの賑やかさだった。日常的な光景ではあるが、1日の数分程度しかいられないこの光景を見て、コーネル夫人はほんの少し口角を上げ、人混みの中へ入っていった。
家に帰るとまだニック坊やがすやすやと眠っていた。今のうちに、と思い何か張り切っている様子だ。
────1年の中で今日しかない結婚記念日。ニックが眠っている間に夕食の支度をある程度済ませておかなくちゃ。
豪勢な夕食を振る舞うとようだ。材料は、ストゥルトゥス鳥のモモ肉と胸肉。シュガービーツの根。猫の目リンゴ。じゃがいも。牛乳。バター。塩。コーネル夫人はさっそく料理を始めた。さっそく鍋にバターを溶かして鳥肉をいれて炒め始める。鳥肉が茶色になってきたら、切ったシュガービーツと皮を剥いたじゃがいもを丸々入れて炒める。何分か炒めたら水を加えて沸騰したところで皮を剥いた猫の目リンゴを丸々入れてしばらく煮込む。煮込んでいる間に牛乳やら塩やら追いバターやらを加えて混ぜる。題して、猫の目リンゴと鳥肉のシチューは無事完成した。シチューは温め直せるけど他の料理は今作ると冷めるから、と他の料理は夫が帰ってきてから作る様だった。
時は少し進み、あれから8時間後。コーネル家の時計は夜の10時を回っていた。コーネル夫人はあれから一切眠っていなかった。遅いわね…、もうとっくに帰ってきてもおかしくない時間なのに。何かあったのかしら。そう思いながらニック坊やと共に夫の帰りを待っていた。コーネル夫人は暖炉近くの机に置かれた鍋を見てさらに夫の帰りを待ち焦がれる気持ちに駆られた。
「あうぁ…あうぅ」
ベビーベッドからぷっくりとした丸っこい手が出ている。ニック坊やがミルクを欲しがっている様だ。コーネル夫人は手に持った本を伏せて椅子から立ち上がり、ベビーベッドからニック坊やを持ち上げ、ベッドに座り、抱え込んだ。服を肩から胸の下あたりまで下ろすと、右肩から右腕の肘あたりまで赤くただれているのが見えた。乳房をニック坊やの顔の前まで手で持っていく。左右どちらとも授乳し終わるとニック坊やは満足げな顔をした。ベビーベッドに戻すと、すぐにぐっすりと眠ってしまった。
コーネル夫人も、仮眠を取ろうかしら、と思うと、今まで無視していた疲れがどっとのしかかってきた様な感覚に襲われた。夫の帰りを待って、少しでも夫とお喋りがしたいという願望と、本の続きが気になって仕方がないという好奇心があったが、睡眠欲には逆らえなく、ベッドに横たわるとすぐに落ちる様に眠りに入っていった。
コンコンコン。
コーネル夫人は意識を徐々に取り戻す。
─────今は何時だろう。あぁそうだ、そんなこと気にしてる場合じゃない。今のノックは、夫が帰ってきたということなんだから!
コーネル夫人の目はすっかり冷め、椅子から立ち上がった。
おかえり!もう!帰ってくるのが遅いわよ。それと、今日はなんの日か覚えてますか?そう!結婚記念日!だから夕食はあなたが大好きなシチューを作ったの!今すぐに用意するわ。他にも色々料理を振る舞うからテーブルに座って待っててね!……そんなことを言おうと妄想しているうちに、無意識にドアのかんぬきを外して扉を開けていた。
「おかえ…り…」
目の前に立っていたのは髪の長いストレートヘアの男と、縮毛の男だった。2人とも銀髪で灰色の目を持ち、体格はがっしりしている。群青色のチュニックと黒のズボンに、白色のレースでできたマントを纏ったペアルックスだった。2人を見た瞬間、コーネル夫人は反射的にドアを閉めようとした。2人の男が誰だか幼い頃からよく分かっていたからだ。長髪の男が閉められようとした扉を止め、口を開き、落ち着いた口調で言う。
「誰だぁお前。俺はこの家にガキがいるって聞いてきたんだが。何か知らないか?例えばアンタの後ろのテーブルの上にあるカゴの中に赤ん坊が眠っているとか。」
それを聞いた瞬間、狙いは自分で、自分が殺されるか連れて行かれるかと思っていたコーネル夫人は、狙いはニックだけということが分かり疑問を抱いた。一家の秘密がバレるという最悪の事態は免れそうだが何としてもニックを守らなければならない。コーネル夫人は2人を睨み続けていた。そして今見ている光景に何か違和感がある事に気づいた。コーネル家の正面の家の屋根の上に光る、小さな小さな二つの円があったからだ。普段そんなところに灯りなんて付けていないのにと思ったが、そんな事を気にしてる場合じゃないと抑制して意識を男たちに逸らした。縮毛の男が長髪の男の持っていたドアを代わりに持ち、ドアと長髪の男の間から顔を覗かせて口を開いた。
「テメェ俺たちを知らねえのか!?知ってるはずねえよなあ!知ってたらそんな反抗的な態度をとって生意気な顔で俺たちを見ることなんかできねえからなあ!」
長髪の男がため息をついた。そして徐々に声を張り上げながらヒステリックに言う。
「うるせぇなぁ。馬鹿みてえに騒いでんじゃねぇよ!」
「ああ、すまない…悪い。兄さん。」
縮毛の男は一歩引いた。
「冷静に見てみろ。コイツはお前の言う通り、自分が愚者であると証明しちまった。なんせ愚者だからな。だがいいか、この女には存在価値が2つある。1つ目は女であることだ。女は1人として例外はなく男の性欲の捌け口になる。それが今のコイツの存在を支えている。2つ目が顔だ。キリッとした二重の目、綺麗な鼻筋、そしてこの柔らかい唇。ん?この感じどこかで…。」
長髪の男はコーネル夫人の唇を触った。直後に、今まで注力して見ていなかったから気づかなかったが、服の隙間から僅かに見える赤い皮膚に気づいた。コーネル夫人は唇を触らる事を嫌がろうとしたが、勘付かれるような事を言われた瞬間、そんな事どうでもよくなっていた。
────私の家庭問題に巻き込ませるわけにはいかない。もしバレたら一家全員タダじゃ済むはずがない。ニックは殺され私は死ぬより恐ろしい日々を送る事になるだろう。それだけはどうしても避けなければ。
縮毛の男が言った。
「使い捨てた奴隷かそこらの奴じゃないか?」
縮毛の男は、見覚えがあるとしてもいちいち気にすることでもないだろう、と思っていた。それを聞いたコーネル夫人は胸が締め付けられるような感覚を味わった。コーネル夫人はその原因を十分に予測できるほどの心当たりがあった。
「兄さんの言う通り、かなり美人だ。娼婦街に堕とすのはもったいねぇな。専属の娼婦にしてやってもいいなぁ」
2人はコーネル夫人の顔をまじまじと見下ろしている。コーネル夫人はどうしたらニック坊やをこの危機的状況から逃れさせられるのかと考えていた。
「へぇ、そうですか。どうもありがとう。何なら今すぐにあなた方のお宅に行って相手をしてもよろしいですわ」
コーネル夫人は強気に言ったがそれは一蹴された。縮毛の男が笑いながら言う。
「冗談も休み休み言えよ。お前が俺の相手になってもいいだって?お前ごとき奴隷の入れ違いのような人間が...」
話を遮り、衝動に駆られるように長髪の男が動き出した。瞬時にコーネル夫人の両腕を捕まえ、地面に向ける。足を引っ掛けて転ばし、コーネル夫人は地面に倒れた。さらに手を押さえつけ、足に体重をかけて手足の自由を奪う。ついに気づかれてしまったと思い、コーネル夫人は縛りを解こうと、手足を力いっぱい動かして抵抗したが無駄だった。
「何か引っかかっていたんだ。今それがわかった。今思い出した。顔も声も目も全て。何より決定的なのは首元に火傷のあとがあるということだ。ずっと前に…。コイツはヒストリア家の長女、アンナ・ヒストリア。2年前に失踪した、王に刃向かった大罪者だ。まさかこんなところにいるとは。連れ戻してヒストリア家の主に差し出せばどれほどの借りが出来ることか…。」
長髪の男は杖をズボンの杖専用のポケットから取り出して手に持つ。何をやられるかわからない未知に対して危機感を感じたコーネル夫人は咄嗟に詠唱呪文を唱えた。
「エクレイシス!(爆発せよ)」
すると手の甲が発光し始めた。長髪の男は咄嗟にコーネル夫人を抑えていた手を放し、逃げようと後退りした。コーネル夫人はすかさず握り拳をつくり甲を2人の前へ出す。
二人の目の前で小さな爆発が起こった。コーネル夫人は咄嗟に手を引いた。
────あの家に戻るなんて死んでもごめんだ。
家に戻りたくない気持ちと、子を守らなければならない気持ちがコーネル夫人を動かした。ニック坊やを抱いて裏の窓から逃げようと考える。ニック坊やは何が起こっているんだろうと不思議そうな顔をしながら、大きな目をこちらに向け、ぱちくりとまばたきした。コーネル夫人がニック坊やを抱こうとしている時だった。足元に縄が投げられた。
「ペリオリーディオ!(束縛せよ)」
長髪の男が10センチほどの小さい杖を振り、勢いよく言った。投げた縄はコーネル夫人の足を縛りつけ、転ばせた。ニック坊やはまだベビーベッドの中にいる。コーネル夫人はニック坊やを守れるようにすぐに体勢を直し、ニック坊やに攻撃が当たらないように立ち塞がった。しかし体勢を直すときに、あまりにも子供を守ろうとする一心で2人の男に後ろをとらせてしまったため、その最中に背中に火の攻撃魔法をを受けた。その瞬間、火で背中が炙られ始めると同時かその直前だった。コーネル夫人は瞬間のうちに脳裏に幼少期の頃のある日の記憶が浮かんだ。
12年前。アンナ・ヒストリア、8歳の時。セルペンス家への奉仕を行った日の事だった。ヒストリア家では他貴族家へ奉仕する事を義務付けられていた。そして、その中でいかなる問題が起きようと全責任はヒストリア家にあるとされていた。
その日、セルペンス家にヒストリア家の中でアンナだけ来るように、と呼びつけられていた。セルペンス家への奉仕は初めてだった。お母さんは、2人ともアンナと同じくらい年齢だから心配しないでねと言ったが、セルペンス家への奉仕の時に傷を負って帰ってきた母親を思い出すと心配せずにはいられなかった。
ヒストリア家とセルペンス家を含む全ての貴族は国の中心部、ドミナトール城に暮らしている。そのため、城の通路を通って行かなければならなかった。城は案内人がいないと迷子になるほどの大きさだったため、アンナは案内人に連れられて地下にあるヒストリア家管理地下街を出た。
地下から階段を上がって地上の階層に出ると、雰囲気が地下とはガラリと変わり、通路でさえ壁、柱、床、天井が凝った作りになっていた。アンナは羨ましく思いながらも見惚れ、これだけは毎回の奉仕でも変わらなかった。どこに行くかも何をされるのかも分からず、同じような光景の道をひたすら歩かされた。途中で案内人が3回代わり、目的地に着いた頃には足が痛くなっていた。
目の前には巨大で重厚な扉が立ちはだかっている。案内人が扉の中央に垂れ下がっている紐を2回上下させて上についた呼び鈴をチリンチリンと鳴らすと、少し待つようにと言われた。アンナは中から聞こえてくる微かな声に耳を澄ませた。
「いいかい、可愛い坊やたち。魔法の練習をさせてあげる代わりに一つ約束させておくれ。これからくるヒストリア家の奴は決して殺してはいけないよ。」
大人びた女性の声が優しく呼びかけていた。
「なんで殺しちゃいけないんですか?」
男の子の不思議がった高い声が聞こえた。
「おもちゃを壊したらもう遊べなくなってしまうだろう?それと同じようにヒストリア家の奴らも殺してしまったら動かなくなって遊べなくなってしまうんだ。遊べないおもちゃは嫌いだろう?」
男の子は分かりましたと言った。すると別の男の子の声が聞こえた。さっきの男の子と同じくらいの声高さだったが落ち着いた口調だった。
「その…。僕たちが魔法の練習をする時にママがいると気になって練習に集中できないと思うんです。ママに褒めてもらうおうと意識しちゃうだろうし…やりすぎちゃうかもしれないし。」
「わかったわ。2人で思う存分楽しみなさい。ママは自分の部屋にいるから何かあったら呼んでちょうだいね。この後すぐに鈴を鳴らすのよ。」
そう言うと、「はいママ」と2人の声が重なって聞こえてきた。この一連の会話を聞いている最中、アンナは常に背中にとてつもない寒気を感じていた。2つの足音のうち1つは段々と遠ざかり、もう一つは段々と近づいてきているようだった。そして呼び鈴の音が部屋の中から聞こえた。案内人が扉を開けた。それを見た瞬間、取っ手の部分に黄金の蛇の装飾が施されていることに気づいた。
中から銀髪の縮毛の男の子が出てきた。大きい目をこちらに向けてアンナの顔をまじまじと見ている。アンナは内心不安だったが、その男の子の純粋な目つきを見て少し安心した。それに男の子の灰色の目がとても美しく思えた。案内人から背中を押されて部屋の中に入る。
部屋の中は煌びやかな装飾が施されていた。ガラス窓からは陽光が射し、部屋の左右とその奥に正方形の角を担うように巨大な柱が4本、床から天井まで見上げるほどに高く立っていた。4本の柱はそれぞれ裸の女性の形に彫られていた。裸の女性の足元には小さい、と言っても実寸サイズだが布をまとった男性が何人もその巨大な足を手で、もう耐えられないと嘆くかのように支えていた。それをみたアンナは少し恐怖を覚えた。そしてどうやらもう1人の男の子は椅子に座っているようだった。それを見た瞬間アンナはゾッとした。椅子に座りながらこちらを凝視し、口角を上げて口が三日月のように曲がっていたからだ。
「ソイツを早くここへ連れて来い!」
椅子に座った男の子が声を荒げて言った。アンナの近くにいる男の子は、はいと言ってアンナの手を掴み部屋に引きずり込もうとした。しかしアンナは地面に根を張っているかのように動かなかった。
「名前は…なんて言うの?」
アンナが男の子の手を握りながら言った。
「僕か?僕はメルゴーだ。兄さんはメルギー…。あー。教えたらダメだったかも。忘れて。それよりも早く動けよ。兄さんが待ってるんだ。」
この男の子はメルゴーっていう名前なんだ、それよりもあの子に近づきたくないと思った。メルゴーはさらにアンナの手を強く引っ張った。アンナはこけるように前に歩いて行き、メルギーの前まで手を引っ張られた。近くで見るメルギーの銀色の髪は流れ落ちる水のように綺麗だった。
「前から試してみたかった魔法があるんだ。メルゴー、ソイツを縛りつけろ。」
メルゴーは兄の言うがままに従い、アンナを縄で縛りつけようとした。アンナは恐怖のあまり逃げ出そうとしたが、急に目の前の2人に従わなければならないという義務感の駆られて反抗することを許されなかった。足を縛られ手を後ろに縛られたアンナはメルギーの前に立ちすくむしかなかった。
そしてメルギーがアンナの方へゆっくりと手を向けて何か叫んだ。いい加減に文字列を叫んでいるように思えたがその文字列が何か意味をなしているかのようにメルギーの手のひらが静かに発光し始めた。その光が目で追えないほどに赤く染まっていった瞬間、風に吹かれる炎のように赤く染まった光がアンナの目の前に現れた。咄嗟に背中を向けようとしたが間に合わなかった。アンナは床に倒れた。そして赤く染まった光が火であることを理解するのに時間はかからなかった。右腕上部が燃えるように痛かったからだ。今までに感じたことがないような痛みがアンナを襲った。悶え苦しむ暇もなく、そこから記憶は途絶えた。
さっきの記憶が再開したかのように皮膚が焼ける感覚が戻った。しかし背中に痛みがあることから現実に引き戻されたことがわかった。聞き覚えのある呪文だと思ったらそれだったか、と思った。今すぐにでも悶え苦しみたい気分だったが、そんな余裕はなかった。
────私は2人を殺せるほどの魔力を持っていない。防衛魔法を使ったって無駄に時間を稼ぐことは分かりきっっている。
2人の方へ体を向けて手のひらを前へ出す。
「フォス・セラシウス。(光よ輝け)」
コーネル夫人は悶えるような痛さを我慢しながら、声を振り絞って言った。2人は眩しそうに目を手で覆っている。
────今しかない。
逃げる選択肢はない。戦力的にも圧倒的不利。防衛魔法も無駄。残された選択肢は一つだった。コーネル夫人はニック坊やの方へ顔を向ける。ニック坊やは何が起こっているのか何一つ理解していなかったが、いつもとは違うバタバタとした雰囲気を少し楽しんでいるようだった。コーネル夫人がニック坊やを見るとすぐにニック坊やは体をクネクネとうねらせ口をもごもごしだし、手を握りしめた。ミルクが欲しい時のサインだ。
────ごめんね。おっぱいはもうあげられないの。でも心配しないで。お父さんが帰ってくるまであなたを守るためにできる限りのことをするから…。私は愛する人を傷つける奴を差し違えてでも殺す。ニック、あなたは何があっても自分を守るのよ。
コーネル夫人はそう強く念じ、蓋をするように自分の体でベビーベッドを覆い、無詠唱呪文を心の中で唱えた。
────アスディア・フォリッシュ。(解離せよ)
「クソッ。目障りなことしやがる。」
縮毛の男が光に照らされる中言った。徐々に光が弱まっていく。逃げるなんて不可能だ。きっと攻撃魔法を仕掛けてくるはずだ、2人の男はそう思い守りの体勢に入った直後だった。目の前にはベビーベッドの上に倒れるようにのしかかっていたコーネル夫人がいた。
「おいおい、勝ち目がないとわかって心中でもしやがったか?」
縮毛の男がコーネル夫人にゆっくりと近づきながら言うと、長髪の男がそれに返す。
「それ以上近づくな!何があるかわからんぞ!ヒストリア家は代々奇妙な魔法を使うと言われている!我々に楯突く奴なんだ!おい!近づくんじゃない!」
何を言っても無駄のようだった。
────兄さんはわかっていない、かろうじてゴミ箱にしがみついてるこのバカな母親にそんな力があるとでも?昔から思ってたんだ。兄さんは臆病だ。
縮毛の男は兄の言葉を無視し、コーネル夫人の髪を掴んで頭を持ち上げ、地面に叩きつけようとした時にそれは起こった。
何かが縮毛の男の心臓を貫いた。コーネル夫人の頭は手から離れていった。どこから攻撃を受けた?そう思い今にも倒れそうな中、床に倒れたコーネル夫人から、心臓に突き刺さったどこかから伸びている謎の物の正体に目を逸らした。それを見た瞬間、目の前で起こっている光景が夢か現実か区別できなくなった。まだ感情があるかもわからない、今目の前で起こっている事を理解できるはずもないような赤ん坊が、歯を食いしばり眼をかっぴらきながら、小さい右腕をこちらに向け、その手の人差し指で自分を指し、人差し指が鋭く伸びて心臓を貫いていることがわかった。
すると、伸びていた人差し指がシュッと縮み、元の大きさに戻った。左胸から大量に出血した。
────あれ?家が傾いていくぞ…?
縮毛の男は倒れ、血が床に広がっていく。長髪の男は今目の前で何が起こったのか理解できなかった。弟の左の肩甲骨あたりから血まみれの何か鋭いものが出てきたと思ったら、その何かは瞬時に縮んで弟が後ろに倒れた。何かの正体はあのベビーベッドの中にいるに違いなかったが、それを確認する勇気はなかった。
────ママと…王に報告しなければ…
長髪の男は一心不乱にドアを開け、外に出ようとしたが、それは叶わなかった。ドアの前に誰かいたからだ。長髪の男はそいつに突き飛ばされた。倒れた先には死んだ弟の顔が横に並んでいた。何なんだ?なぜ俺は突き飛ばされた?もしかして俺もコイツと同じように殺されるのか?そう困惑しながら長髪の男は絶叫し、自分を突き飛ばした男の顔を見る。
────中将、コーネル。こいつ…!
長髪の男はこれまでにないほどの怒りで震えていた。
「貴族の犬が貴族の俺に逆らうだと!積んだ金を返してくれったてそうは行かないぜ!残念だったな!お前の愛する妻は死に、お前が殺してくれと懇願した子は化け物になった!お前が俺に反した事を王に伝え、そして今にお前は死刑になるんだ!」
そう言い放ち、笑いながら長髪の男の体がだんだん小さくなっていった。
────逃げる気か。
コーネル氏は扉を閉じようとしたが、閉じる寸前に蛇がするりと隙間を抜けて外へ出た。扉を開け道に出る。コーネル氏は杖を上着の内側から取り出し、止まったハエ払い落とすように振った。その杖は先っぽに特殊な形状の物がついていた。杖の先は蛇を捉えている。
「ベリオスケーオ。(燃え尽きよ)」
杖の先が眩い光に満たされた瞬間、そこから何か光るものが飛び出し蛇に当たった。すると紫色の炎が蛇の全身に渡り、天に昇るように燃え尽きた後に残ったのは灰だけだった。灰が風に吹かれ散っていったところを見みると、コーネル氏は家の中へ引き返した。
コーネル氏は倒れているコーネル夫人と縮毛の男を一瞥し、ベビーベットを見た。まるでそこに何もないかのように仰向けになった縮毛の男を踏んづけたが、コーネル夫人だけは踏まないように足元を見て歩いた。ニック坊やを前にしたコーネル氏は呟いた。
「ニック。私たちは進み続けなければならない。どんなに愛する人を、自分自身を失おうとも。」
コーネル氏はこれでもかと言うほど目を見開いて喋っていたが、本人はそれに気づいておらず、無意識だった。
その後コーネル夫人の方を向いて、横に行ってしゃがみ、心臓に手を当てる。
────そうか…。だが、前に見た通りだ。ひとまずは問題ないだろう。この後は2人を証拠が残らないように完全に始末する。ニックにはどう説明するか…。ああ、そうか。何も知らせなくていいのか。12歳になるまで、ひとまずこのことは…。
月夜に照らされたコーネル氏の頬は、残酷なほど渇いていた。
反撃の魔法使い 三隅 泡 @togattehikaru
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