第2話 初日

 木柴に押され教室へ入ると、中は無人だった。


「って無人かよ。他のヤツらはどうしたんだ?」

「うははは。まだチャイムまで時間あるからな。こんな娯楽施設だらけの学校で、予鈴が鳴るまで教室にいるやつなんていねーよ」

「私もこの時間は光宙カフェで、本とか漫画を読んでるかも。授業以外ではあんまり教室にはいないよね」


 そうか……教室ってのはそういう認識なのかこの学校では。飽くまで教室は勉強するだけの場所、と……どんだけ娯楽施設多いんだここ。というか、さっきチラッと見えたけど喫煙所なかったか? 高校に堂々と喫煙所置くとか理事長狂ってるだろ。教育委員会があるのによくまかり通ったな。


「おや、ここにいたのかボーイ……」


 一瞬、柑橘系とミントのようなハーブ類の良い香りが鼻腔を突き抜けたと思いきや、それは突然背後のゼロ距離にまで迫ってきていた。そして、耳の奥底までほのかな息風と女性の囁き声が響いてくる。


「ひぃやぁん!!」


 人間そうそう耳を鍛えられる訳ではない。唐突に女性の声で囁かれるのは、童貞の俺にとってビッグバンどころではなかった。思わず、お尻を触られたウブな少女のような悲鳴を教室に響かせてしまった。


「ククク……すごい声をあげたなボーイ。お尻を触られたウブな少女のような悲鳴だったぞ」


 振り返ると、からすの濡れ羽色のような長髪が特徴の、スーツを着た教師らしき女性が立っていた。


「あ、北条先生おはようございます」

「よっ、センセーおはようさん。はは、お前もやられたな」

「ああ、おはよう。そして初めまして転校生の佐藤クン。君の事は後ろ姿だけで分かったぞ。私がクラスの担任の北条ほうじょうだ」

「ど、どうも……ゼェゼェ……」

「クク……案外ウブで可愛いじゃないか」


 北条と名乗る教師は、ニヤリと笑みを浮かべる。どうやらこのクラスの担任の先生のようだ。なんちゅー挨拶を交わすんだこの教師は全く……まだ心臓の鼓動が早い。近距離での囁き声、女性らしい香水の香り、肩をくすぐる長い髪……怒涛の総攻撃をされた反動は未だに収まらずであった。

 北条先生は黒板の方へと歩いていき、チョークを手に取る。


「私はこういう者だ。覚えておいてくれ」


 カッカッと先生は黒板に文字を大きく書いていく。そして先生が手をはたき、書き上げたフルネームを俺の方へ見せる。


 北条 珍子


「……」

「読んでみてくれたまえ佐藤クン。さあ!」

「…………」


 俺は腕を組んで考え込んでしまう。そんな訳はないのだと。まず真っ先に思い浮かべてしまった倅の事を慌ててかき消す、あり得ない。女性の名前に付ける訳がない。女性に生やしていいモノじゃない。それを喜ぶのは一部の変態だけだ。

 ていうかなんで先生は読ませようとしてるんだ? 確信犯か? もし、そのままの読みであったら、彼女のご両親を殴るとしよう。別の読み方でも殴るかもしれない、なぜこの漢字にしたんだと。考えろ──きっと何か別の読み方があるはずなんだ(この間2秒弱)

 チラリと二人の方を見ると小田さんは恥ずかしそうにうつむき、木柴は手で口を押さえながら笑いを堪えている。おい! その反応だとどう見てもアレじゃないか! 言っていいのか!? 転校初日にド下ネタを叫んでいいのか!?

 くそ、ダメだ……やはりあの言葉以外読めない。どう読んでも例のアレになってしまう……このまま叫べるワケがねえ、俺には無理だ!!


「わからないか?」

「よ、読めません……読みたくありません……」

「んだよ佐藤、わかんねえのか? 仕方ねえな、俺が読み上げてやるよ。北じょ──」


 木柴がニヤニヤしながら先生の名字を言う最中、彼の顔面に超速スピードで投げられたチョークがクリティカルヒットする。木柴の顔は、一瞬にして自身の鼻血で真っ赤に染まっていく。


「ぶべばらぼふぁー!!!」


 もはや弾丸の速さで投げられたチョークは、彼の鼻の奥までしっかりと刺さっていた。狙撃地点の方を振り替えると、北条先生がプロ野球の投手でしか見たことのない投球フォームで木柴を睨み付けていた。


「木柴……私の名前を卑俗な言葉で発音するんじゃない! 誰がチ○コだ貴様ァ!!」


 うわ、言った! 本人が、女性が、教師が、教室の中で! 生徒の前で!!


「お……俺まだ北条しか言ってな───」

「言い訳無用だ! このギガンティックマザーファッカーがァ!」

「ミギャアアァーッ!」


 木柴に向かって次々と弾丸が発射される。あ、あぶねえ……本能に任せて軽率な発言しなくてよかった。


「全くどうしようもないな木柴は……佐藤クン、私は北条珍子ともこと言うんだ。覚えておいてくれたまえ」

「あ……はい。宜しくお願いします」


 なんちゅー教師だ……まるで爆弾だ。見てる分には面白いが、いつ飛び火しないか心配でたまらないぞ……。

 俺は改めて北条先生を見やる。外見はかなり若く、俺らと変わらないと言っても過言ではない、20代なのは確実だろう。顔立ちは一言で言って容姿端麗。髪も美しく健康的で、身体も細身で引き締まっており悪いとこなしなのだが……若干……その、胸があまり──


「誰が貧乳だ無礼者ーッッ!!」

「ごぼぶじゃああああ!」


 視線が分かりやすかったのか、思考が読まれたのか。おそらく前者だろう。俺は木柴と同じようにチョークの弾丸を鼻の穴に食らい、辺りに鮮血を撒き散らした。

 暫くしてチャイムが鳴り、それと同時に誰もいなかった教室にぞくぞくとクラスメイト達が入ってくる。俺という見知らぬ顔がいるのが珍しいのか、ちらほらと視線を感じる。

 ホームルームになると北条先生に教卓に呼ばれ、自己紹介をするように言われたので、簡単に自分の名前を名乗り挨拶を済ませる。自分の席は真ん中の列の一番後ろで、隣に小田さん、そして前に木柴という席だった。

 これ以上は、特にこれといって特別な事をするわけでもなく、北条先生がそのまま教室に残り英語。そして数学、理科と普段の座学授業が続く。初めての場所、見知らぬ教師といつもと違う授業の光景に新鮮さを感じつつ、午前の授業を終えた。意外だったのは、授業内容に自分が存外ついていけていたという事だった。

 一人になりやすい転校初日のお昼の時間になったが、さてどうしようか……と考える間もなく、木柴がイスごと後ろに振り返り、俺に話しかけてくる。


「よう佐藤! この学校には慣れたか?」

「転校数時間で慣れるわけないだろ、こんな要塞に」

「せっかくだし飯食いに行こうぜ。学食にも色々あるからついでに案内してやるよ」

「お? おお……そうか、ありがとな。そうしよう」


 危うくソロ飯になる所を、木柴が何気ないきっかけを作ってくれたおかげで回避できた。ありがとうな……こうして友は増えてゆくものだ。


「待ちたまえ」


 俺と木柴が教室を出ようとした時に、教室の扉にもたれかかっていた声の主……北条先生が俺たちを呼び止める。どうしたんだろうか?

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