第16話 禍獣〈ケモノ〉

「……えっ?」


 黒猫が禍獣ケモノである、という織江の言葉に、朱乃は目を見開いた。そうしてゆっくり首を回して傍らの黒猫を見やる。

 黒猫は、猫だった。黒い毛並みの小さな子猫。

 けれど、よくよく目を凝らして観察すれば、黒い体毛は影のように揺らめき、墨色の炎のように燃え上がっている。

 ——禍獣ケモノだ。

 確かに黒猫は、禍獣だった。

 柔らかくて暖かい毛並みは、幻だったのか。

 朱乃の荒んだ心を確かに癒してくれた時間は、嘘だったのか。

 朱乃が黒猫を禍獣として認識した途端、モヤついていた意識がすっかり晴れた。胸の内はすっかり冷え切って、正された認識に朱乃のくちびるがわなわなと震え出す。

 力が抜けた足と腰が、朱乃をその場にへたり込ませた。


「そ、んな……どうして……」

「朱乃様、こちらへ! 早く、お早く、朱乃様!」


 箒を構えた織江の必死な声。それが朱乃に正気を取り戻させた。

 このままでは、いけない。

 咄嗟に脳裏に浮かんだのは、無慈悲に潰され爆ぜてしまった敬史たかふみの姿だ。

 あんなふうに終わりたくない。

 朱乃は腰を抜かしながらも懸命に立ち上がり、そうして、畳の上をもがき這いながら、禍獣と化した黒猫から距離を取る。


「お、織江さま……これはいったい……」

「……こんなこと、今までなかったのに。やはり、陛下のお力では、もう宮殿すら守れないの……?」


 青褪めた顔で織江が呟く。どうやら悠長に次の帝を選定するような時間は残されていないらしい。


(もし、陛下のお力が途絶えたら……どうなってしまうの)


 恐怖に震える朱乃が大窓から外を見ると、真っ赤な夕焼けが滲む空の彼方が割れていた。

 否、割れたのは空ではない。

 帝が国に、皇都に、宮殿に、幾重にも張り巡らせた結界だった。

 そのひび割れた結界の隙間から覗く、幾つもの赤く光る目。墨色の炎をまとう禍獣たちが鋭い爪を研ぎながら、ニタリとした顔を覗かせている。

 あんなものが地上に降りてきたら、きっと、ひとたまりもない。

 宝鞘邸が禍獣の爪の一振りで半壊したように、人々が住まう家屋も簡単に破壊し尽くされてしまうだろう。

 朱乃が恐怖に囚われ、目の前の禍獣の存在を一瞬忘れた、その時だった。


ミャァオ!」


 と、禍獣がひとき。猫のときとはまったく違う、しゃがれた声で啼いたかと思うと、朱乃に飛びかかったのだ。

 けれど織江が、咄嗟に朱乃の腕を引き寄せた。


「朱乃様っ!」

「……あっ」


 ぐい、と強く引かれた腕の痛みに、思わず眉を顰めた朱乃は、次の瞬間、ハッと息を呑む。びしゃり、と赤く生暖かいものが、朱乃の顔を濡らしたからだ。


「お、織江さま!?」


 禍獣の爪に傷つけられたものは皆、腐食して朽ち果ててしまう。たとえ傷が浅くても、禍獣の毒には抗えない。

 それを思い出した朱乃の顔から血の気が失せた。

 ガタガタと指先が震え、歯の根もガチガチ鳴って噛み合わない。朱乃の目尻には、大粒の涙が今にも溢れんばかりに溜まっていた。


「織江さま、織江さま! そんな……どうして庇ったりなんか……」

「ねえ、怪我はない? ……ああ、泣き顔は朱和とわにそっくりね」


 傷を負い、血を流し、それでもニコリと完璧な笑顔で笑って見せた織江の口から、朱乃の母——朱和とわの名前が溢れた。

 朱乃は母が何者か、知らない。教えてもらう前に、母も父も事故にあって亡くなってしまったから。

 だから、思いがけず母の名前を聞いてしまった朱乃は、織江に聞き返していた。


「……は、母を知っているのですか?」

「知っているも何も……三峰朱和はかつて奥ノ宮ここで暮らしていたから」


 織江は、貼り付けた笑顔のまま、ふと遠くを見るような目をしてそう告げた。


「朱和は言っていたわ。娘を選定者にしたくない、と」

「母が……知っていた?」

「ええ。……自分の子供に、大きな責任と運命を好き好んで背負わせたい親はいないのじゃなくて?」

「あの……母は、どうしてここを出て行ったのですか? どうして三峰の名前を捨てたのか、聞いていますか?」

「結婚して三峰でなくなれば、あなたが選定者になることはないだろう、と」


 ふ、と吐息だけで織江が笑った。


「……短絡的なところが、朱和らしいわね」

「それが詭弁であることは、わたしにだって、わかります」

「そうよね、朱和の抵抗はすべて無駄だった。わたしも、朱和の娘が選定者になど、なってほしくなかった」

「もしかして、わたしを追い出そうとしていたのは……」


 朱乃は、はじめて織江と会話をしたときのことを思い出して、そう言った。

 けれど織江から明確な答えが返ってくることはなかった。織江は柔らかな微笑みだけを朱乃に返す。


「けれど、もう、無理。あなたを帰してあげることは、もうできない。禍獣ケモノがこんなところまで入り込んでしまったから。……朱乃様、申し訳ありません。私共はもうあなたに縋るより他にないのです」


 瀕死の織江が、朱乃の手をぎゅっと強く握りしめた。織江の血の気の失せた冷たい指に、朱乃は奥歯を噛み締める。

 朱乃は無力だ。

 次の帝の選定者だなんて言われていても、なんの力も持っていない。

 目の前で死にかけている織江を助けることもできなければ、朱乃と織江を興味深そうに見つめている禍獣を祓うこともできない。

 璃人に出会って恋を知り、自分の運命を瑤慈から告げられたから。少しは変われたと思っていたけれど、何者かになれたような気がしていたけれど、朱乃は朱乃のまま。

 なにも変わらずここにいて、なにもできずに泣くばかり。 


「わたしは……わたしには、なんの力も……」


 悔しさとともに、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。

 ひとつは織江の白い手に。もうひとつは奥ノ宮の畳の上に。けれど泣いたところで、やっぱりどうにもならなくて、絶望だけがひたひたと這い寄り迫っている。

 すると——。


「おい、どうした朱乃!? 大丈夫か!」


 ドタドタと慌ただしい足音に続いて、襖戸が勢いよく開けられた。

 開いた襖戸の向こうにいたのは、逆立った黒い髪に紫色の目を困惑で揺らした狼軌だった。


「狼軌さま!」

「なんだコイツは? ……もしかして、コレが禍獣ケモノか!?」


 狼軌はすぐさま朱乃と織江の前に出て、盾になるよう立ち塞がった。


「下がっていろ、朱乃。朱乃に手出しはさせやしない」


 長身で筋肉質な背中は広く、たくましかった。

 狼軌は口の中で何ごとか呟くと、禍獣に向かって両手を掲げた。その途端、薄い青色をした光の盾が現れる。

 ——結界だ。狼軌は文字通り、朱乃たちの盾になったのだ。


(狼軌さまなら、織江さまを癒せるかもしれない……!)


 今朝、廊下で朱乃の傷を癒してみせた狼軌なら、と。淡い希望と期待で朱乃の心が潤いはじめる。

 けれど、それまで静観していた禍獣の目が、狼軌の結界を目にして爛々と輝き出したではないか。

 玩具にじゃれつく猫のように結界に飛びかかり、こじ開けようと爪を立てはじめたのだ。

 そのせいで結界の維持に負荷がかかっているのか。狼軌の額に汗が滲みだす。


「……クソっ、オレだけじゃあ、時間稼ぎしかできねぇ」

「ろ、狼軌さま……っ、織江さまが……!」


 狼軌の背に守られながら織江を介抱していた朱乃から、悲痛な声が上がった。

 禍獣の爪に傷つけられた織江の傷口が、腐食して紫色に腫れあがっている。織江の顔は笑顔のままだったけれど、苦痛で滲んだ汗のせいで前髪が額に張り付いていた。

 狼軌は結界の維持で精一杯。朱乃はなんの力もない。誰も織江を癒すことができないなんて。


「狼軌さま、織江さまを助けて……」

「……すまん、今ここで結界を解けば、オレたちはアイツに喰われちまう」

「……承知しております。私のことは気になさらず、どうか朱乃様の身の安全を優先していただきたく」

「そんな……織江さま……っ!」


 状況を正確に認識できていないのは、朱乃だけだった。どうしようもない運命を受け入れることができていないのも、朱乃だけ。


(どうしてわたしは、役立たずなの)


 織江を抱きしめて、ただ、ぼたぼたと涙を流すことしかできない朱乃は、自分の無力さを呪った。

 ただ、助けを待つことしかできない不甲斐なさを、朱乃は呪った。

 すると——。


「朱乃さん、無事!? 今、助っ人呼んだから!」

「樹那くん!」


 息せき切って樹那が転がるようにして部屋に入ってきた。

 そうして——次にあらわれたのは、冬の森を思わせるような灰銀の毛並み。天狼に成った璃人であった。



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