第17話 祈りと叫び
「璃人さま……っ!」
朱乃の呼びかけに応えるように、
身体の芯を揺さぶるようなその声は、朱乃の胸の内側に小さくも頼もしい火を灯す。
じわりと広がり勢いを増すその火は、次第に焔へ成長してゆく。
熱い、とても熱い。けれど、とても心地いい。
朱乃は、墨色の炎を纏い、猫のようにニンマリと赤い目を細めて嗤う
手には髪から抜き取った紅金魚の簪を握りしめて。
(璃人さま……どうか、どうか……ご無事で)
組んだ指の爪先が白くなるほど懸命に祈る。璃人に贈られた簪に、朱乃の祈りが染み込んでゆくかのよう。
お願い、どうか。無事でいて。
朱乃の祈りが届いたのか。あるいは、璃人が持つ力なのか。
禍獣は墨色の炎毛を逆立てて、白い牙を剥き出しにして璃人を威嚇していた。
先ほどまで、怯える朱乃や負傷して血を流す織江を見て嗤っていた禍獣の姿は、そこにはなかった。いるのは、天狼と成った璃人に怯え、唸りる禍獣だけ。
朱乃たちを守るために結界を維持していた狼軌が、ホッと息を吐けるまで禍獣が後ずさる。
「そこの人、結構やるじゃん。頑丈ないい結界だね」
と。樹那が狼軌に声をかけた。
「おい、ガキ。今オレを馬鹿にしたのか!?」
「捻くれてるオトナだなぁ、褒めたんだよ! 僕たちに宿った神力は、望みを具現する。あんたの結界が立派なのは、あんたが大切なものを護りたいと思う力が誰よりも強いからだ」
「う、うるさいっ! いいから早く、そこの女をどうにかしろ!」
狼軌は照れたのか。ぶっきらぼうにそう言うと、すぐにひび割れた結界を修復すべく両腕を掲げた。そんな狼軌の耳の先は、遠目から見てもわかるほど赤く染まっている。
狼軌の意外な側面を見たような気がして、少しくすぐったい。朱乃が口元をモゴモゴさせていると、
「朱乃さん。織江さんの治癒は僕に任せて。僕の治癒術は、誰よりも秀でている自信があるんだ。特に毒や病にはよく効くよ。だから安心して、織江さん」
「……樹那さま……申し訳ありません」
「いいよ、いいよ。怪我人は黙って治癒を受けてなきゃ」
樹那はそう言うと、苦痛に耐える織江の傷口にそっと手をかざした。
すると、である。織江の傷口から、するすると呪詛のような呪いと毒とが溶け出してゆく。それを見て、朱乃は思う。
(ああ、
実際、禍獣がまとう墨色の炎は呪いであった。
恨みや嘆きがまとわりついて燃え上がり、生命を喰らっても満たされない。禍獣とは、そういう生き物である、と信じられてきた。
織江の身体に刻まれた怨嗟の傷が、樹那の力によって消えてゆく。織江を包む暖かな光を眺めながら、朱乃はぽつりと呟いた。
「……樹那くんは、誰かの傷を癒したい気持ちが強いんだね」
「当然だよ。僕は皇都花街・弥栄橋の主だ。僕の街を支えてくれる姉さんたちを、寿命以外で死なせるわけにはいかないからね」
織江を癒しながら、樹那が胸を張ってそう言った。
「じゃあ、璃人さまは……?」
天狼に成ることができる璃人は、どんな思いを抱えているんだろう。
そして、迷える民を率いて導く君主として。
(璃人さまは、本気なんだわ。本気でこの国を導こうとして下さっている)
ひとり禍獣と戦う璃人の姿。それを見つめる朱乃の心が、きゅうと鳴る。
朱乃には璃人のように、禍獣と戦う力はない。
狼軌のように、皆を守る盾にもなれない。
かといって、樹那のように傷を癒すこともできない。
(なんて無力なんだろう。わたしにできることって、なんなの。わたしはただ、次の帝となる方を選べばいいだけなの?)
そう思った朱乃の脳裏によぎる、嫌な予感。背筋に落ちる冷たい汗。
それは、今日の正午。口ノ宮で自分の運命と役割を伝えられたとき。
あのとき朱乃が次代の帝を選んでいたら、禍獣は今ここにあらわれなかったのかもしれない、ということ。
朱乃が選定できなかったせいで、織江を傷つけ、皆を危機に晒してしまったのかもしれない。
(そ、んな……もしかして、全部、わたしのせい?)
朱乃の心臓が早鐘を打つように速くなる。呼吸は次第に浅くなり、指先が冷たくなってゆく。
璃人の勇姿に勇気づけられ、朱乃の胸に灯った焔が凍りつく。
喉の奥が張りついて、鼻の奥がツンとする。
朱乃がなにか言おうともがいても、声にはならずに荒く乱れた呼吸だけが漏れ出した。
(ごめんなさい、ごめんなさい……っ!)
誰に責められたわけでもないのに、自罰的な朱乃の心が朱乃自身を責めるから。乾いたはずの涙腺が、再び濡れてしまうのに時間はかからなかった。
そうして——。
奥ノ宮にまたひとり、駆けつける青年がいた。
「朱乃様、ご無事ですか!?」
「……瑤慈さま?」
「陛下を安全な場所にお移ししておりました。
余程、急いできたのだろうか。肩で呼吸をしていた瑤慈が、禍獣と戦う璃人や、結界を張り直している狼軌に聞こえるように大きな声でそう叫んだ。
「……てぇことは、存分にやっていいってことだな?」
「ええ。決して
「おうよ!」
狼軌は威勢よくそう応えると、璃人と禍獣の元へと駆け出した。
朱乃がふと、大窓越しに空を見上げると、ひび割れていた結界はすっかり修復されていた。赤紫色をした空の彼方に、もう亀裂は見えない。
璃人もまた、狼軌とともに禍獣を追い詰めている。
そうして、璃人の神々しいまでの戦いぶりを見て、璃人がほう、と息を吐いた。
「あれは……あの天狼は、璃人殿下ですかね。……ははっ、凄まじい」
瑤慈が吐き出した呟きはどこか自嘲的で、羨むような響きが混じっている。
まるで、瑤慈に力があれば今すぐにでも璃人や狼軌に加勢するのに、とでも言うかのよう。
(自分の無力さを嘆いているのは、瑤慈さまも同じ……)
無力であることに悔しさを覚える人間の方が、きっと多い。
誰もが特別な力を手にすることができるわけじゃないから。力を手にしたとして、それが戦闘向きとも限らない。
(わたしは、わたしにできることを、しよう)
と。朱乃が前向きになったのと、織江の治療を終えた樹那がなにかに気づいたのは、ほとんど同じだった。
「まずい、もうすぐ陽が沈んじゃう。僕らは陽の光なしに力を使うことはできないから」
「それって……大変なことなんじゃ……あっ! り、璃人さまっ!」
ハッと息を呑んだ朱乃が見た光景は、墨色をした怨嗟の炎をまとう爪が、力を失い天狼から人の姿へ変化する璃人の肩を裂こうとしている瞬間だった。
「——璃人さまぁっ!」
朱乃の叫びが時間を止めたのか。あるいは、過集中によって時間密度が高まったからだろうか。
禍獣の爪が璃人に届くその瞬間が引き伸ばされて、
握りしめていた紅金魚の簪に、朱乃の祈りと叫びが収束してゆく。
それは光となって、奥ノ宮のみならず、宮殿すべてを真っ白に包み込んだ。
——すると。
黒墨の影が、霧が晴れるように、さぁ……と消えてゆき、中からあらわれたのは——膝下までまっすぐ伸びた黒髪と、燃えるような赤い目を持つひとりの青年だった。
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