第15話 不吉な予兆

 玄狼国では一二〇年に一度、皇権移譲の儀が行われる。

 豊穣の女神に与えられた力は悠久ではないからだ。

 およそ一二〇年で力は衰え、新たな国主を立てて王朝を改めなければ、大地は災禍や禍獣ケモノに呑まれて荒れ果てる。


 建国時、豊穣の女神と結ばれた国主は、男女の子を成した。

 男の子は天狼の力を得て次の国主となり、女の子は女神の血を継ぐ巫女となった。

 新たな国主となれる資格を持つ者は、天狼に姿を変えることができる人間だ。


 天狼となれるのは、国主の子孫だけ。

 次の国主を選ぶことができるのは、女神の血を受け継いだ姫の子孫——三峰の女だけ。


 一二〇年巡るたび、国内外から天狼に成れる男子を密かに集め、次代の国主を決める。

 そうして資格ある者と選定者が結ばれることで、新たな女神の力が与えられ、新たなる一二〇年を治める力を得るのだ。


◇◆◇◆◇


「にゃぁ〜ぁん」


 朱乃の意識の外側で、猫が鳴いた。

 ハッと気づけば、奥ノ宮の窓際に置かれていた椅子に腰掛けていた。大窓から差し込む光の色は柔らかく、午後三時を回ったところだろうか。

 朱乃は、自分が口ノ宮の間からどうやって戻ってきたのか、思い出せずにいた。

 覚えているのは、瑤慈が朱乃に向かって深く深く頭を下げて、朱乃に三人の帝候補の中から婿を選んで婚姻してくれ、と懇願したところまで。

 あれから、どうなったのだろう。

 話はどこまで進んだのだろう。

 気になるところは山のようにあるけれど、朱乃は今、奥ノ宮でひとりきり。記憶と心と思考とを整理する時間をもらった、ということだろうか。


「にゃぁーん」


 再び、猫の鳴き声がした。

 聞き覚えのあるその声は、はじめて璃人に出会った雨の夜に聞いた声と同じ。

 そんな馬鹿な、ここにいるはずがないじゃない。だってここは宮殿で、一番警備が手厚い奥ノ宮だ。窓はあれどもはめ殺しで、出入り口は襖戸ひとつしかないのに。

 そう思いながらも、朱乃は椅子から立ち上がり、猫を探しはじめた。


「……猫ちゃん?」

「んなぁー」


 甘く蕩けるような鳴き声で猫が鳴く。

 朱乃は猫の鳴く方へ歩みを進めた。腰を低くして、ゆっくり慎重に。息を殺して、猫の姿が視界の端に触れやしないか確かめる。

 すると——一体、どこに隠れていたのか。朱乃の足元で、柔らかな毛の感触と温かな気配が感じられた。猫は朱乃の足首にするりと擦り寄って、頬や額をこすりつけている。


「……あなた、どこから入ってきたの?」

「んなぁーご」


 朱乃の問いに鳴き声で返事をした猫の毛は、黒かった。黒猫は大きな目を細めて、喉をゴロゴロ鳴らしている。

 そっと指を差し出すと、黒猫は朱乃の指先をフンフンと嗅いでから、自ら撫でられに行くかのように頬を擦りつけた。

 その艶やかな毛並みと黒猫の小ささに、どうしてか朱乃は既視感を覚える。


「もしかして、あなた……雨の日に会った猫ちゃん? あれから元気にしてた?」

「にゃ!」

「そう……よかった」


 黒猫は朱乃の前でゴロリと横になり、黒く柔らかな毛で覆われた腹を見せた。

 誘うように何度もコロコロと転がって、撫でてもいいのだ、と言うように、朱乃にあざとく甘い視線を送ってくる。

 ひとりぼっちの朱乃が、黒猫の誘惑に勝てるはずがなかった。

 だから、つい、うっかり。


「なぁに? もっと撫でて欲しいの?」


 朱乃はそう言うと、黒猫の柔らかな腹にそっと手を伸ばした。

 ふっかふかの黒毛が指と指の間を通り抜け、温かな体温が朱乃の寂しさを癒してゆく。密集した柔毛が心地よい。思わず朱乃の目尻も下がる。

 なんて、可愛い。可愛らしいのだろう。

 朱乃はすっかり、黒猫が魅せる愛くるしさと柔らかさに囚われた。名もなき黒猫を撫でている。ただそれだけで満たされてゆく。

 けれど、撫ですぎたのか。あるいは黒猫の機嫌を損ねたのか。急に翻意した黒猫が朱乃の手と腕とを蹴り出した。


「わ! あ、ごめんね、撫ですぎちゃったね」


 手入れのされていない足の爪が、朱乃の柔肌を切り裂いて赤い線を引く。朱乃はその引っ掻き傷を、痛いとは思わなかった。

 肌に引かれた傷を見て、朱乃が思い出したのは璃人の顔。

 澄んだ青空のような青い目と、冬の森を思わせるような灰銀色の髪。朱乃の身体に刻まれた傷を癒すために使ってくれた力は、とても優しく暖かかった。

 そういうことを思い出した朱乃は、傷口から伝う血をぼんやり眺めながら黒猫に向かって呟いた。


「……猫ちゃん、お話聞いてくれる?」

「にゃぁん」

「ほんと? 聞いてくれるの?」


 黒猫は、朱乃の言葉に同意したわけではないんだろう。

 それでも朱乃は、黒猫の短い鳴き声を都合よく捉えて、ぽつりぽつりと話しはじめた。


「……わたしが選んだ人が、次の帝になるんですって。わたしのお母さまが、女神様の血を引く子孫だから」


 正直な話、朱乃はその話を瑤慈から聞くまで、選定者が如何いかなるもので、どのような運命が待っているのかなんて、気にしなかった。

 ただ、宮殿へ行きさえすれば、璃人ともっと一緒にいられるのではないか、と下心を抱いたからだ。

 それに、瑤慈に「助けてほしい」と言われたことも大きい。

 朱乃は、困っている存在に滅法弱い。

 助けられるなら、助けてあげなければ。という思いによって、後先考えずに行動してしまうこともある。それが、今は亡き両親の最後の教えだったから。

 爵位をもらった貴族であれば、助けを求められたら手を差し伸べよ。そう言われて育ってきた朱乃にとって、誰かを助けることは呼吸することと同じこと。

 つい、滅私奉公になってしまうところが、朱乃の悪い癖ではあるけれど。

 そうやって宮殿に招かれて、お役目を果たそうとしたところに立ち塞がったのが、朱乃の自由意志によって次の帝を選ばなければならない、という壁だ。


「わたし、選べるのなら璃人さまを選びたい。璃人さまと一緒にいたい」


 けれど、と朱乃はどうしても考えてしまう。

 けれどこれは、朱乃の我が儘だ。朱乃が選んだ候補者が、そのまま朱乃の夫となるのだから。

 朱乃が璃人を選んでしまえば、璃人は朱乃のものになる。

 帝としての適性など関係なく、璃人が玄狼国げんろうこくの帝になってしまうのだ。


「……わたしの気持ちだけを優先して決められることじゃないの」

「にゃぁ……ん」


 黒猫が、迷い悩む朱乃を慰めるように擦り寄った。ふかふかの黒毛が朱乃の心に触れて、キツく締めつけた欲望を緩めてしまう。


「璃人さまを選んじゃ、だめなのかな……」


 そう呟いた朱乃の目から、光が失われた。ぼんやり見つめる先は、黒猫の目。まるで催眠にでもかけられたかのように、朱乃から意思が溶け出してゆく。

 朱乃の目には、もう、黒猫がまとう闇しか映っていない。




 失われつつあった朱乃の意識を、この世に繋ぎ止めたのは織江の声だった。


「出ていけ、出て行きなさい!」


 血を這うような怒鳴り声とともに、桶に汲んだ冷水を織江が朱乃に浴びせたのだ。

 織江の後ろには茉由もいた。朱乃を見つめる茉由の顔は青褪めていて、目尻は濡れていた。

 どうしてこんな酷い仕打ちを。朱乃は叔父家族たちから受けていた虐待を思い出して、身体がブルブル震えだす。


「ご、ごめ……ごめんな、さいっ、ごめんさない!」


 黒猫を庇うように抱き込み、丸まって、朱乃は訳もわからず謝り続けた。

 けれど織江の暴言は止まらない。


「こんな……こんな宮殿の奥深くに入り込むなんて。どこから入り込んだの!? 茉由、人を……帝候補の方々をお呼びして!」

「は、はいっ!」


 織江が茉由に指示を出し、茉由は慌てて駆けていった。

 朱乃の安堵は束の間で、すぐに箒らしきもので織江に何度も打ちのめされる。


「早く出ていけ、出て行きなさいよ!」

「い、いや……やめ、やめてくださ……っ。……お、織江さまっ! 猫を……子猫は助けて上げて!」


 朱乃が必死で詰まる喉を震わせた。吹けば飛ぶようなか細い声は、鬼の形相で箒を振るう織江の耳に——届いた。


「……っ!? あ、あ……朱乃、さま?」


 朱乃に抱き込まれていた黒猫が、するりと離れて「にゃあ」と鳴いた。

 織江の双眸が驚愕で見開かれる。揺れる織江の黒目に、ようやく朱乃の憔悴しきった顔が映った。


「……あなた、まさかその黒い影が猫に見えるの? それは禍獣ケモノよ」



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