第14話 次代の帝候補たち

 窓際に配置された物書き机の上に飾られた時計の長針と短針が、頂点を指す。

 ——正午が来た。

 奥ノ宮の襖戸の外から「お迎えにあがりました、朱乃様」と、瑤慈の硬い声がする。予定時刻ちょうどの来訪に朱乃の心臓が、ドキリと跳ねた。

 聞きたいことは、山ほどある。

 交わしたい言葉は、海ほど深い。

 朱乃はごくりと唾をひと呑みして、瑤慈の元へと足を踏み出すのだ。




 朱乃が連れてこられたのは、宮殿の中でもっとも豪奢な部屋だった。

 奥ノ宮が美しく繊細な部屋ならば、この口ノ宮くちのみやと呼ばれる謁見の間は、力強く華美な部屋だった。

 金細工と宝石で彩られた欄間に、金箔と鉱物を砕いて作った岩絵具で描かれた襖絵。龍と女神がいきいきと描かれた襖絵は連作になっていて、口ノ宮のすべての襖絵を繋げると、玄狼国げんろうこくの創世神話があらわれる。

 口ノ宮には、朱乃以外の全員が揃っているようだった。

 次代の帝候補である璃人、狼軌、それから樹那。璃人の側には浮立もいる。


(あっ……璃人さま……)


 およそ一日ぶりの再会に、朱乃の胸がキュウ、と鳴る。頬が赤らみ、朱乃の意志とは関係なしに口元がむずむずと動き出す。

 ほんの半日前には璃人を疑っていたというのに、なんて様。いとしいひとの顔をひと目見てしまえば疑心は霧散し、暗鬼は撤退するしかない。

 朱乃はほわりと温もりが灯る胸をそっと押さえながら、口ノ宮の上座に座った。そうして、他に誰がいるのか見渡した。

 部屋の下座、もっとも上座から遠い場所には、瑤慈と同じ黒い狩衣を纏い、顔を隠すように黒半紙の面をつけた神祇官たちが数名。

 彼らの前に横一列に並ぶのは、玄狼国の宰相や政務官、近衛衛士たち。

 部屋の奥には一段高くなった高座には御簾がかかり、誰かが座する気配がしていた。

 ——今上陛下だ。

 そうして朱乃の隣に座った瑤慈が、高座に向かって頭を下げた。


「玄狼国の太陽、偉大なる今上陛下にご挨拶申し上げます」


 その言葉が放たれると同時に、朱乃以外の全員が一斉に座したまま頭を深く下げるから。朱乃も慌てて頭を下げた。

 宝鞘家は帝から爵位を承っていた。けれど、朱乃自身が宮殿に上がったこともなければ、公の場に公女として参加したこともない。

 礼儀作法はあっているかしら、とドギマギしながら、朱乃は瑤慈の話を聞くことに注力することにした。


「——差し迫る皇権移譲の儀を執り行うべく、豊穣の女神の血をひく選定者ならびに、次代の帝候補をお連れいたしました」

「……そうか。苦労をかけたな、瑤慈」


 朗々と述べる瑤慈に対し、御簾の奥から返ってきた声は弱々しい。朱乃が幼い頃、一般参賀で聞いた帝の声よりも掠れていて、聞き取りづらい。

 今にも咳き込みそうなほど儚げな声を怪訝に思ったのは、なにもしらない、知らされていない朱乃だけ。

 璃人や狼軌、樹那たちは神妙な面持ちで俯いていたし、瑤慈に至っては、言葉を詰まらせて鼻を啜る音まで聞こえてきた。

 朱乃がチラリと盗み見ると、瑤慈は少し涙ぐんでいる。


「いえ。……っ、……それでは朱乃様。すでに帝候補の方々と顔合わせがお済みかと思いますが、ご紹介させてください」


 けれどすぐに瑤慈は滲む涙を引っ込めて、くるりと高座に背を向けて気丈な声を張った。高座の向こう、御簾の奥からは、今上陛下が近侍とともに退席する気配すらある。

 朱乃が、なぜ? と思う暇は与えてもらえなかった。

 瑤慈が帝候補の紹介をはじめたからだ。


「大陸より参られた、璃人殿下」


 璃人の名とその響きに、朱乃の関心は高座から璃人へ注がれる。

 朱乃も瑤慈を倣って高座に背を向けると、柔らかく微笑みを浮かべる璃人と浮立に視線を送り、微笑み返す。


「……朱乃さん、昨夜はよく眠れただろうか」

「璃人様……はい! しっかり眠れましたよ」


 それだけの短い会話だけで、朱乃の心は満たされたように暖かく、パチリと爆ぜて火の粉が舞った。

 意識をしても、しなくても。朱乃の頬は勝手に緩む。

 ——と、そこへ。不機嫌な狼軌の声が水をさす。


「そこ。イチャイチャすんなよ、抜け駆け野郎」

「あんたはもう少し、上品な口のきき方したほうがいいと思うけどね」


 口の悪さを見せた狼軌を軽口で茶化したのは、樹那だ。

 目を釣り上げた狼軌が「なんだと!?」と、今にも立ち上がって樹那の胸ぐらに掴みかかりそうなほど、前のめりになっている。

 一触即発か、と思われた雰囲気を、瑤慈が冷徹な言葉で釘を刺す。


「静かにしてくれませんかね。この場の主役はあんた達、候補者じゃない」


 途端に静かになる狼軌。舌打ちをしながら姿勢を正す狼軌の様子を、樹那がニンマリと笑みを浮かべて見ている。

 瑤慈はひとつ咳払いをして、話を続けた。


「……続きまして、玄狼国南方領より参られた、狼軌殿」

「傷はもう大丈夫かな、朱乃。また怪我させられたなら、オレのとこに来るんだよ」

「は、はい! 今朝はありがとうございました」

「可愛いなぁ、朱乃。そんな金魚の簪なんかより、お前に似合う花簪を贈らせてほしい」


 先ほど見せた悪態と威勢の良さは、何処へやら。

 樹那いわく、裏表が激しい狼軌の、これは表面だろうか。まるで猫のよう。刺々しさも荒々しさも薄れて猫撫で声を出す狼軌に、朱乃は思わずクスリと笑った。


「最後に、皇都花街・弥栄橋やさかばしの主、樹那様」

「朱乃さん、今度お腹いっぱいご飯、食べよう!」

「うん、樹那くん。いいよ、そうしよう」


 樹那の明るさと気安さには、今朝も今も助けられている。

 けれど、樹那の経歴を聞いて怪訝な声を立てた者が、ひとりいた。


「……樹那様は、弥栄橋の主なのですか?」


 浮立が眉を寄せ、疑わしい者を見るような目で樹那を見ている。

 途端に、口ノ宮の間の空気が凍りついた。誰も彼もが樹那を冷ややかな眼差しで見つめている。その冷ややかさは、朱乃にも覚えがあった。

 樹那には助けてもらったのだから、助けてあげなければ。

 そう思った朱乃が咄嗟に口を開く——前に、樹那は堂々と笑って浮立の言葉を肯定したのだ。


「そうだよ、おかしい? 弥栄橋にある遊郭も料亭もお茶屋も、全部ぜーんぶ、僕のもの。大陸の王国の王子だとか、豪族の跡取りだとか。そんな立派な血筋じゃないけど、誰よりも女性を敬い、大切にできる自信があるよ」

「それだけではありませんよね。花街の主なら、当然、皇都の裏事情にも詳しいはず。……あなたが皇都・裏社会のボスなのですか?」


 慎重に問いかける浮立に、樹那は変わらず笑顔で人差し指を口の前に立てた。


「ふふっ、それについては発言を控えさせてもらうノーコメントだよ」


 朱乃は感心して呆けたまま。他人は見かけによらない、を体現している樹那が、頼もしく見える。と同時に、朱乃に向かって右手をひらりと振る樹那は、可愛らしい。

 そうこうしていると、話を先に進めたい瑶慈が咳払いをひとつ。朱乃も皆も、姿勢を正して瑶慈へ視線を送る。


「それでは、今後のお役目と段取りをご説明させていただきます。——朱乃様、今までご説明することができず、申し訳ありませんでした」


 瑶慈の深く頭を下げた謝罪に、朱乃は恐縮しながら首を横へと振った。


「だ、大丈夫です。……あの、わたしは次の帝になられる方を、お選びすればいいのですよね?」

「はい、そうです。朱乃様がお選びになった者が、次の帝となり、新たなる王朝が誕生いたします。そして——」


 勿体ぶって間を置いた瑶慈が、ひと呼吸ののちにこう告げた。


「朱乃様には次代の帝の妻となっていただきます」

「えっ……えぇ!?」


 思わず声を上げてしまった朱乃を、誰が責められるだろうか。

 途端にブルブル震えだす指先をしっかりと握りしめ、朱乃はその手を膝の上に押しつけるように置いた。


(わたしが選んだひとが、次の帝で……わたしの旦那さま? わたし……結婚するってこと? 結婚しなくちゃならないってことなの?)


 ぐらぐらと地面が揺れる。喉の奥がカラカラに乾いて切ない。心臓がドキドキ鳴っている。朱乃は、自分が次の帝を選ばなければならないことよりも、突然降って湧いた結婚の話に心が乱れた。

 果たしてそれは、叔父に強制された敬史との結婚と、なにが違うのだろう。

 自分で選べるだけマシなのか、強制されていることには違いないけれど。

 朱乃の混乱と動揺は目立って表にあらわれなかった。せいぜいが震える指先を隠した拳だけ。心臓に灯った焔は、今や消えゆく寸前で、婚姻を結ばなければならないという事実に打ちのめされている。

 怖い、恐い、ああ、こわい。

 自分の運命が、人生が、ゆく先が、自分の預かり知らぬところで決まっていく様が、とても、こわい。

 そうかといって、諦めて受け入れることも、こわい。

 自分の胸の内にも、燃えるようながあったことを、知ってしまったから。


「玄狼国は豊穣の女神の力を借り受けて治政を行っておりますが、借り受けた神力が尽き、衰える周期があります。それがちょうど、一二〇年目の今代なのです」

「そ、それとわたしの結婚と、どんな関わりがあるのですか……」


 朱乃は詰まる喉を懸命に開いて、下細い声で問いかける。

 開いた喉ではっきりと発声しているはずの瑤慈の声が、朱乃の耳には遠く聞こえた。


「衰えた神力を再び国に宿すためには、女神の血を引く一族である三峰家の女性のお力添えが必要なのです。朱乃様には酷な話であるとは思いますが、どうかこの国を存続させるためにも、どうか、どうか……」


 再び深々と頭を下げる瑤慈に、朱乃は頷くことも言葉を返すこともできなかった。ただただ、膝の上で握り締めた自分の拳を見つめることしかできなかった。



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