第13話 選定者の役割
炊事場では不自然なほど速やかに朝食膳の受け渡しが行われた。
御膳の上には、蛤の汁物、大根と青菜の漬物、焼き魚と麦飯が乗っている。どれも作りたてで湯気が立ち、空腹の胃を優しく刺激するような美味しい匂いを放っている。
樹那に案内されて炊事場にたどり着いた朱乃は、たどたどしく朝食を要求したけれど、嫌な顔はされなかった。炊事場で働く飯炊きたちは忙しくしていて、朱乃が誰であるのかなんて気にしていなかったのだ。
(誰も彼もがわたしに興味があるなんて、なんてことを思っていたのだろう)
受け取った膳を両手でぎゅっと握りしめながら、朱乃は自分を恥ずかしく思う。わずかばかり頬も朱に染まっている気もする。
熱を持った頬を扇ぎたいけれど、両手は塞がっている。どうしようもなくて眉を八の字に垂れ下げていると、隣をゆく樹那が朱乃の膳を覗き見ながら口を開いた。
「朱乃さんはさ、次の帝を決める選定者なんでしょ? だったら、やっぱり朝食は豪華だったりするの? 好きなものだけ食べられたりする?」
樹那の鮮やかな緑色の目が好奇心で輝いている。
朱乃には、自分の食事が豪華かどうかなんて、わからない。少なくとも飯炊きに手渡された膳は、特別な膳じゃなかった。
他の使用人と同じ膳。黒塗りで飾りはなく、四つ脚のうちひとつは塗装が剥げている。樹那が渡された御膳よりも、品数がひとつ少ない。
恥ずかしい、というよりは、気まずさが上回った。けれど朱乃は、目を伏せて言葉を選びながら自分の境遇を伝えた。
「樹那くん、あのね……わたしも樹那くんと同じなの。だから、これから炊事場に行くって言われて、親近感覚えちゃったくらい」
「え? 待って、どういうこと? 朱乃さんて、選定者でしょ。それなのに、なんでそんな……」
途端に樹那の表情が曇った。心配をかけたかったわけじゃないのに、暗い顔をさせたいわけじゃなかったのに、うまくいかない。
朱乃は取り繕うように笑ってから、すぐに話を変えようと、
「ねえ、樹那くん。狼軌さんもそうだったけれど、どうしてわたしが選定者だって断言できるの?」
と。樹那の言葉で引っかかった話に深く突っ込んだ。
朱乃は狼軌にも樹那にも、自分が次の帝の選定者であることを伝えていない。
瑶慈から、朱乃が選定者であるのだ、と知らしめてもらうこともできていないのだ。だから、彼らが風の噂や人伝てに知ったわけじゃないこともわかっている。
それなのに、どうして。
朱乃が口にした疑問は、きょとんとした顔の樹那が受け止めた。樹那は瞬きを二回、パチリパチリとしてから鼻をスンと鳴らして啜って笑ってみせた。
「僕たちは、薄いながらも天狼の血を引くから、鼻が効くんだ。朱乃さんが選定者だってことは、すぐにわかったよ。だって、凄くいい匂いがするんだもの」
「に、匂い?」
思ってもみなかった答えに、朱乃は膳を抱えたまま自分の肩や二の腕の匂いを嗅いだ。
けれど朱乃がいくら必死に嗅いだところで、樹那のいうような匂いはしない。自分の匂いに鼻が慣れてしまったからだろうか、それとも、狼軌や樹那、そして——璃人にしかわからない匂いがあるのだろうか。
「樹那くん……わたし、そんなに匂うの?」
「甘いような、痺れるような、今まで感じたことのないいい匂い。天狼の血を引くものは皆、選定者に惹かれるっていう御伽話も、あながち間違いじゃないなって思ったよ」
「そんな御伽話があるんですか?」
「少なくとも、僕の家にはね。僕の家は商家だけど、昔々のご先祖様に皇家のお姫様が降嫁されていてさ。だからだと思う」
ふかふかの毛並みと、心がほっと解けるような安心できるいい匂い。
朱乃は、璃人が灰銀色の毛を持つ美しく大きな天狼に変化して、助けてくれた日のことを思い出す。
瑤慈はあの時、天狼に変化できることが次の帝の証である、というようなことを言っていた。ならば、樹那も狼軌も、璃人のように天狼になれるのだろうか。
「……じゃあ、璃人さまも皇家の血が流れているのかな」
「璃人? もしかして、抜け駆けして朱乃さんに会いに行った、あの狡賢い大陸狼のこと? 規則を無視するような奴がいいの、朱乃さん」
「で、でも、璃人さまは本当に親切にしてくださって……」
「忍んで逢引きして、ちゃっかり簪を贈るような男が、親切? ……まあ、親切にするでしょ、朱乃さんと結ばれた男が次の帝になるんだから」
「……えっ!?」
結ばれるって、どういうことなの。朱乃の心臓が、途端に激しく燃え出した。
朱乃は自分が選定者と呼ばれていることから、自分が指名した者が次の帝になるだけだ、という自覚と覚悟はあった。
けれど、樹那が言うには、朱乃と結ばれた者が帝になるらしい。
(結ばれる、というのは……つまり、結ばれるということ?)
朱乃の頭の中は支離滅裂で、胸の内は刹那の間に焼け爛れていた。
胸に灯った火は燃えて、劫火のように燃え猛っているというのに、背筋を流れ落ちる汗は冷たい。
もし、もしも。と考えてしまったから。
あれも、これも、もしかして。と思い返してしまったから。
これまで璃人から受けた情が、温もりが、優しさが、すべて偽りだったのではないか、と。朱乃がふるりと首を振ると、髪に刺した紅金魚の簪が、しゃらりと鳴った。
(駄目、駄目よ、駄目。もう決めたじゃない、利用されていてもいいって。馬鹿な女だって笑われてもいいって)
けれど、こうして事実を第三者から突きつけられると、駄目だった。燃え尽きたはずの璃人への疑念や不信が、焔の種火が、灰の中からチロチロと燃え上がる。
(疑いたくない。疑いたくないのに……やっぱり璃人さまは、わたしを利用していたの? 玄狼国の帝になるために……わたしと結ばれるために、優しくしてくれていただけだったの?)
璃人とたった一日会えないだけで、璃人への信頼と信用がどうしようもなく揺らいでしまう。
会いたい。璃人と会って話したい。
そうすれば、胸の内に巣くった不安や恐怖がなくなるだろうに。
朱乃が心底怖いと思うのは、璃人が囁いてくれた燃えるような言葉が嘘偽りなのではないか、ということ。許して解けた心を、弄ばれたのではないか、ということ。
動揺してなにも言えなくなってしまった朱乃に、樹那が遠慮がちに話しかけた。
「もしかして、神祇官からなにも聞いていない……とか?」
「……うん」
「あの神祇官、そういうことするんだ……。気持ちはわからなくもないけどさぁ……」
樹那が遠くを見る目で深いため息を吐いた。眉を寄せて、唇まで噛んでいる。
なんて優しい子なんだろう。
だから朱乃は慌てて首を横へ振り、そうして瑶慈から聞かされた話を教えることにした。
「あ、あのね。まだ準備が整っていない、って瑤慈さまがおっしゃられて……。だから、数日もすれば教えていただけるんじゃないかと思うの」
「朱乃さん、やっぱり人が良すぎるよ。あの神祇官はねぇ——」
「樹那様、それ以上は控えていただきたい」
噂をすれば影がさす。地を這うような冷たい声が、朱乃と樹那の背後から響いた。
恐る恐る振り返れば、そこにいたのは昨夜のように黒の狩衣に身を包み、険しい表情を浮かべた瑤慈だった。
「なんだよ、聞いてたの。人が悪いね、あんた」
「じ、樹那くん!」
「大丈夫だよ、朱乃さん。僕はこう見えても次の帝候補だよ。大陸狼も野蛮な豪族も、僕より先に朱乃さんに接触してたんだから、これくらい許されるでしょ。——そうでしょ、神祇官」
樹那は、わざと瑤慈を挑発するような笑みを浮かべてそう言った。けれど瑤慈は険しい表情をそのままに、ゆるりと首を横へ振り、
「……朱乃様との接触は、本日の午後以降、日取りを決めて行われるはずですが?」
「そうだったっけ? それならごめん。余計なことを言いそうになったのも、謝っておこうか?」
「結構です。……朱乃様」
「は、はい」
蚊帳の外かと思って油断していた朱乃は、急に名前を呼ばれて背筋を伸ばした。御膳の上でお椀に入った汁物が、たぷりと揺れる。
「本日正午、奥ノ宮までお迎えに上がります。昼食は取らずにお待ちいただきたい」
「わ、わかりました、瑤慈さま。……お待ちしております」
「樹那様もお部屋にお戻りください。迷っているようでしたら、お部屋までお送りしますか。それとも御膳持ちでもいたしますか」
「いいって、ひとりで戻れるし御膳だって運べるから。子供じゃあるまいし……」
そう言う樹那の頬はぷくりと膨れていて、幼さとあどけなさが残る表情だったけれど。
朱乃はそんな樹那を微笑ましく思って、くすりと笑った。すると。
「ともかく! 朱乃さんには平等に僕たちを見てほしい。だから今度、朱乃さんに似合う簪を贈らせてね!」
樹那はパチリと片目をつむって、朱乃に向かって朗らかな笑みを見せた。
璃人が見せる笑みとは違い、もやつく心が晴れ渡るような清々しさ。
一陣の清良な風が吹き抜けたような。
あるいは、夏の日差しを受けて煌めく清流の光のような。
胸の内で燻り燃えていた焔が、あっという間に沈下して、灰も残らず吹き飛んでしまったような。
だから朱乃は、名残惜しげに何度も振り返りながら自室へ向かってゆく樹那を、彼の姿が見えなくなるまで微笑みを浮かべて見送った。
そうして樹那の背が見えなくなった頃。
「……それじゃ、行きますよ。朱乃様」
瑤慈が静かにそう言って、朱乃の両手から御膳をサッと取り上げた。朱乃は御膳持ちになってしまった瑤慈のあとを、静かについてゆく。
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