第12話 二人の帝候補
「あっ、あの……!」
もしかして、帝候補の方なのですか。と尋ねようとした朱乃の口は、青年の人差し指でいとも
璃人の指とはまた違う、皮の厚い無骨な指先。少しばかりざらついた指が、朱乃の薄く開いたくちびるを閉じるようになぞってゆく。
「紅金魚のお嬢さん、不粋な真似はやめてくれ。オレはただ、通りすがりのヒーローになりたいだけの男なんだ」
青年はそう言うと、紫眼を細めて微笑んだ。犬歯を剥き出しにした野生的な凛々しさが滲むその笑みに、朱乃は少し見惚れてしまう。
思いがけず熱を持つ頬に、朱乃はトクトクと脈打つ胸を押さえた。
(いけない、わたしには璃人さまがいるのに)
朱乃は、自分が惚れっぽい女ではない、という自覚がある。それなのに、どうしてかこの青年には運命染みた引力を感じて仕方がない。
もしかして、以前の生活で会ったことがあるのかもしれない。と、記憶の底をあさっても、それらしき人物に心当たりはない。
それならこれは、朱乃が次代の帝の選定者で、彼が帝候補だからだろうか。
(もし、そうなら。わたしが璃人さまをお慕いしているこの気持ちは、もしかして。……いや、いやよ……そんなはず、ない)
朱乃の戸惑いを、青年がどう感じ取ったのか。彼は朱乃を落ち着かせるように頭を撫でて、低くゆっくりとした口調で名前を告げた。
「お嬢さん、オレの名前は
「わたしは……朱乃と申します」
姓を告げなかったのは、宝鞘を名乗るべきか、三峰を名乗るべきか迷ったから。
宝鞘と名乗って、女官たちのように軽んじられたくはなかったし、三峰と名乗って、狼軌の態度が掌を返すように変わってしまう姿も見たくない。
煮え切らない心境でいた朱乃に、狼軌が気づいたのか、否か。彼は少しも気にした様子を見せずに、ニカリと笑った。
「朱乃か。いい名前だ。それで……もしかして朱乃は迷子かなにか?」
「そ、そんなにわかりやすかった……でしょうか」
「わかりやすいったらないよ。宮殿内をキョロキョロしながら歩くだなんて、宮殿に不慣れな人間しかいないからね。——それで、朱乃はどこに行きたいの」
「わ、わたしは……」
炊事場に、と言いかけて、朱乃は咄嗟に口を噤んだ。
狼軌はきっと、帝候補だ。少し派手な衣装をしているものの、まとう着物はすべて絹。肌も髪も、手入れが行き届いていて身なりもいい。
そんな狼軌に、炊事場へ案内して欲しいだなんて、言えるだろうか。朱乃が考えるまでもなく、そんなことは言えない。
朱乃に芽生えた自尊心と欲とが、素直に助けを求めることを邪魔している。
「はは。言えない、って顔してるね」
「す、すみません……っ、でも、わたし……」
「いいんだ、朱乃を責めているわけじゃない。オレも最近宮殿に上がって、ようやく慣れた頃だからさ。だから朱乃の気持ちもよくわかる。官服も着ていないオレが、信用ならないってことだろう?」
自虐的な笑みを見せる狼軌に、朱乃は慌てて首と手とを左右に振った。
「ち、違います! そんなことありません!」
「そうなの? じゃあ、そうやってオレの気をひいているのかな?」
「……え?」
一体、なんのこと。と、疑問に思う余地は、与えられなかった。狼軌が力任せに朱乃の腕と肩とを捕らえ、廊下の壁に押しつけたから。
「きゃ……っ!」
そうして狼軌は、朱乃が逃げられないように腕で檻を作って閉じ込める。
先ほどの、傷を治してもらったときとは、大違い。息がかかるほどの距離で、険しく歪んだ狼軌の紫眼が、朱乃を鋭く見つめている。
それだけで済んだのなら、まだよかった。狼軌が朱乃の首や髪、耳の後ろの匂いを、執拗に嗅ぎ出したのだ。
狼軌の湿った吐息が朱乃の肌に触れるたび、朱乃は悲鳴を上げそうになる口を、必死な思いで覆って押さえる。
ニカリと笑ったときに見えた狼軌の鋭い犬歯と、
「……犬臭ぇ。大陸狼の臭いがする」
狼軌が鼻梁に皺を寄せて、幾度か鼻を啜ったあとで、そんなことを呟いた。そうして朱乃の髪を飾っていた紅金魚の簪をするりと抜いて、掲げてみせる。
しゃらりと揺れる金魚の飾り。狼軌の大きな手に捕われて、今にも食べられるか握り潰されるかしそう。
(璃人さまから頂いた簪……だめ、それは、だめ!)
そう思った途端、朱乃の意志が身体に通じた。
「か、返して……お願いですから、それを返してください!」
「……大陸の、北の方の臭いが染み付いている……あいつ、上手くやりやがったな」
手を伸ばし、踵も上げて、紅金魚の簪を取り戻そうとする朱乃。けれど狼軌の視界には、必死な朱乃の姿など、少しも映っていなかった。
狼軌は、朱乃から取り上げた簪を目を細めてじっくり見遣り、そうして匂いを嗅ぎ出した。
そして——。
「朱乃。——あんた、選定者か」
と。存分に簪の匂いを嗅いだ狼軌から、確信に満ちた言葉が放たれた。
けれど朱乃はそれどころではない。狼軌の視界に朱乃が映っていなかったように、朱乃の耳には狼軌の声など届いていない。
(簪……わたしの簪! 大事な大事な、璃人さまから頂いた簪……!)
すると、である。
「熱っ……! な、なんだぁ?」
「朝っぱらから、なにやってんですか、あんたは!」
狼軌が簪に熱を感じて手を離したのと、廊下の角から見知らぬ少年があらわれて狼軌の頭を叩くのは、ほとんど同時だった。
狼軌の手から転げ落ちた簪が、板張りの廊下の上をカラカラと転がり滑る。紅金魚の簪は、新たにあらわれた少年の足元で止まった。
少年は、紅金魚の飾り簪を拾うと、すぐに朱乃に手渡した。
「綺麗な簪だね。はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
簪を受け取った朱乃は、すぐに飾りを確認する。
大丈夫、欠損はない。汚れもない。傷もない。璃人から贈ってもらったときと、同じまま。朱乃はホッと安堵して、その場にズルズルとしゃがみ込んでしまった。
「大丈夫? ……ごめんね、お嬢さん。この人、裏表が激しくてさ。近寄らない方がいいよ」
「い、いえ、大丈夫です。狼軌さんには傷を癒してもらっただけで、それ以外には、なにも。本当に、なにも……」
「お嬢さん、人がいいなぁ。いいんだよ、こんな人、庇わなくてさ。僕は
「わ、わたしは朱乃と申します」
「あ、君が神祇官が言っていた選定者かな。朱乃さん、僕でよければ宮殿を案内するよ。行きたいところがあるんでしょ?」
樹那は、朱乃よりも少し低い背丈で、上目遣いでそう言った。
毛先がくるりと丸まった茶色の短髪に、新緑のような鮮やかな緑色の目。コロコロと変わる表情は明るく、どこか子犬のような愛らしさ。服装は洋装で、清潔感のある白シャツに、グレーのズボンをサスペンダーで止めている。
樹那と狼軌は知り合いなのか、気安い間柄のようで、戸惑う朱乃を
「おい、樹那! それはオレの獲物だ。勝手に横取りすんじゃねぇ」
「わー、こわーい。これだから野蛮な豪族は……。獲物ってなに。失礼じゃない? 朱乃さんが震えてるの、わからないの?」
「オレが南方領の豪族だからって、愚弄してんのか。オレもお前も、等しく皇家の天狼の血を引く人間じゃないか」
「だから尚更、黙ってらんない。選定者にとって簪は命と同じものだって、神祇官が言ってたでしょ。それを強引に奪うなんてどうかしてる。……行こ、朱乃さん」
「あ、ちょっ……待ってください!」
狼軌に向かって盛大なため息を吐いた樹那に手を取られ、強引に連れて行かれようとしたところで、朱乃はその手を解いた。
朱乃にはまだ、狼軌に言わなければならぬ言葉があるから。だからすぐに狼軌に駆け寄って、彼の手を握りしめた。
「傷のこと、本当にありがとうございました」
助けてもらったのなら、必ずお礼を言うこと。できれば言葉だけじゃなくてお返しもすること。それが朱乃が両親から受け継いだ信念だから。
朱乃は狼軌にそう告げて、爽やかな達成感を胸に抱いて樹那と共にその場を離れた。
「朱乃さん、君ってほんとにお人好し。そんなんじゃ宮殿で生き残れないよ」
宮殿の廊下に、樹那の呆れたようなため息が漏れた。にゅ、と唇を尖らせて不満を述べる樹那に、朱乃はふるりと首を振る。
「でも、助けてくださったのは、事実ですから」
「……そっか」
樹那は朱乃の本心を疑っているようで、尖らせた唇をへの字形に曲げて眉を寄せていた。そうして不機嫌なまま朱乃を伴って、幾度も廊下の角を折れ曲がり、行き先も不明なまま歩みを進めている。
幾度目の角を曲がっただろうか。さすがに朱乃も不安になって、先をゆく樹那に声をかけた。
「あ、あの……樹那さん? 一体、どちらへ?」
「炊事場」
「えっ?」
返ってきた樹那の言葉に、朱乃は思わずどきりとした。
炊事場は、朱乃が向かっていた場所だ。ひと言も告げていないのに、どうしてわかったのか。途端に朱乃の心に疑いの霧が立ち込める。
けれど樹那は、そんな朱乃の猜疑心すらお見通しのようで、ニコリと笑った顔を朱乃に見せた。
「朝食を取りに行くから付き合ってよ。ここの女官たちは、僕みたいな商家の人間には冷たくてさ。やっぱり、貴族の高貴な血っていうの? そういう血統主義なところがあるみたいで、居心地悪いんだよね」
つい数分前まで樹那が朱乃に向けていた表情は、天真爛漫な朗らかな笑顔とは真逆の表情だったせいだろうか。樹那の口から語られた話に親しみを覚えてしまったから。
だからだろうか、上目遣いで笑う樹那の表情に、朱乃の胸はキュウ、と締めつけられるように鳴っていた。
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