第11話 どこにいても同じ

「神祇官殿は、あのようにおっしゃられておりましたが——私共は、貴女を認めませんし、受け入れることはありません。私共が面倒を見る義務はございませんわ」


 冷たく尖った織江の声が、薄暗い廊下に残された朱乃の心に突き刺さる。

 嫌われることには、慣れていると思っていたのに、うまくいかない。

 冷淡な視線と険しい表情。十数の対の目が、朱乃を見ている。

 宮殿に来る前、朱乃の心臓は確かに熱く燃えていた。けれど今は、冷や水をかけられたかのように凍えて、痛い。


(璃人さまが、熱を分けてくれていたのに違いない)


 震える朱乃の髪に飾られた紅金魚の簪が、しゃらりと揺れる。朱乃はその微かな音だけで、冷えてしまった心に小さな火が灯る気配を感じた。

 しっかりしなくては。なんのために、宮殿に来たのか。

 朱乃は細く灯った火をよすがにして、自分の心を奮い立たせた。細い指を握りしめ、一度、奥歯を噛んで息を吐く。

 織江の険しい表情に気圧されながらも、朱乃は彼女の目をまっすぐ見つめた。


「あ、あの! わたし、生家が禍獣ケモノに壊されてしまって、帰るところがないのです。だから……!」


 朱乃の告白に、たちまち女官たちがざわめいた。

 あちらこちらから上がる声は、非難よりも憐れみが多く、それまで朱乃を見つめていた冷たく鋭い視線が、途端に生温く粘ついたものへと変わってゆく。

一番厳しい視線を朱乃に寄越していた織江も例外ではない。


「……そういうことでしたら、私共も鬼ではありません。食事くらいは用意して差し上げましょう」

「あ、ありがとう、ございます!」

「ただし。ご自分の世話は、ご自分でなさってください。食事も用意するだけです。朝、昼、夕に炊事場まで取りに来ること——いいですね」

「は、はい! それだけで十分です!」


 宝鞘邸で、女中のごとき振る舞いを強要されていた朱乃にとって、自分の世話を自分ですることは当たり前のことでしかない。むしろ、誰かの手を煩わせなくて済むならば、それに越したことはない。

 それに、食事を用意してくれるだなんて。

 今まで、叔父夫婦のために作った食事の余り物で、どうにか自分の食事を作っていた朱乃には、織江の言葉はありがたいものでしかない。


「本当に、ありがとうございます、織江さま」


 朱乃は心の底から感謝の意を告げた。あまりの嬉しさに目尻が少し濡れるほど。

 そんな朱乃が下げた頭を上げると、唖然とした顔の織江と目が合った。すぐに織江は取り繕うようにコホン、とひとつ咳払いをして、


「その草臥れて擦り切れた着物くらいは面倒を見て差し上げましょう。いくら招かれざる客人であろうとも、奥ノ宮で過ごす女人がそのような見窄らしい格好で宮を彷徨うろつくだなんて……想像しただけでもゾッとするわ。……茉由まゆ

「はい、織江様」


 茉由と呼ばれた少女が、一歩前に出た。

 歳の頃は、朱乃と同じか少し下。茶色の髪を二つに分けて三つ編みにしており、低めの鼻梁に薄いそばかすが散っている。

 そして、茉由の黒目がちな目は、少しも朱乃を見ていなかった。熱心に見つめているのは織江の顔だけ。


「あとは任せましたよ、くれぐれも丁寧なおもてなしをして差し上げて」


 にこり、と仮面を貼り付けたような織江の笑みに、朱乃はなにも言えなくなった。

 あれは、拒絶の笑みだ。茉由が浮かべている笑みも、織江と同じ。気づけば茉由を除く女官全員が、うっすらと笑みを浮かべて朱乃に背を向けていた。

 そうして朱乃は、茉由に背中を押されるようにして、奥ノ宮へ足を踏み入れるのだ。




 奥ノ宮は、青々とした畳が敷かれた部屋である。

 朱乃が新品の井草の匂いに気を取られている間に、茉由は着替えを用意し、布団を敷いてくれていた。その手際はテキパキとしていて丁寧で、湯まで沸かして戻ってくると、


「あなた、宝鞘って言ったわね。もしかして宝鞘侯爵家のお荷物公女さま?」


 それまで黙って微笑んでいた茉由の第一声は、それだった。あまりにも直球ストレートな物言いに、朱乃は面食らって何度も瞬きしながら茉由を見る。


「……えっ? お、お荷物……?」

「そう、お荷物。一度、夜会で敬史たかふみさんにお会いした際に、そう言っているのを聞いたの。お荷物でなにもできない哀れな公女さま。だから敬史さんが娶ってやるんだ、って」

「……っ」


 第三者から聞かされる敬史の言動は、思いのほか朱乃の胸を鋭く刺した。

 朱乃が持つ爵位を狙って、強制的に婚約を結ばれそうになったことは、今でも身体が震えるほど恐ろしい。

 敬史の気分と顔色を窺って、折檻されるかされないかを心配しなければならない日々を思い出すと、璃人に治してもらったはずの傷がズキリと痛む。


「あなた、敬史さんをどうしたの。どうしてあなただけ無事なのよ。禍獣ケモノに襲われた、だなんて。織江様の同情を引いて、さぞかし愉快でしょうね」

「ご、ごめんな、さい……」


 敬史とのいい思い出なんて、なにも、ない。だから、彼の最期は悲惨なものだったけれど、少しも胸が痛まない。

 けれど、そんな敬史の安否を尋ねる他人ひとがいるなんて。

 茉由の鋭い追求にショックを受けた朱乃は、なにも答えることができなかった。ただ俯いて言葉を濁すことばかり。

 そんな朱乃を見た茉由が、フンッと鼻で嗤って口を開く。


「私、あなたみたいな言いたいことも言えない女が、大嫌い」


 憎々しげに言い放った茉由の言葉が、朱乃の心に突き刺さる。


「その汚い着物で奥ノ宮この部屋を汚す前に、さっさと脱いでくれませんかね」

「あ……、すみません。すぐに脱ぎますから」


 言われて朱乃が慌てて帯を解いて汚れた着物を脱ぐと、仏頂面をした茉由に回収されてしまった。

 きっと、あの着物はもう戻ってこない。そんな予感に胸が苦しく締め付けられる。

 白の襦袢一枚になった朱乃は、ずたぼろの着物を抱えて退室しようとしていた茉由に、


「お荷物公女さま、不慣れな環境で緊張していることでしょう。見知らぬ私が世話するよりも、おひとりの方が気も緩むでしょうから、あとはご自分でどうぞ?」


 と。嫌味ったらしく言われて、襖を音が立つほど強く閉められてしまった。

 こうして朱乃はひとりだだっ広い部屋に残されて、名前と簪ひとつしか持たぬ身になったのである。




 翌朝。

 朱乃の目覚めは思っていたよりもこころよかった。

 昨晩、久しぶりに暖かく広い湯船に浸かり、足を伸ばせたからだろうか。ふかふかの布団で寝ることができたからだろうか。

 大窓から差し込む光を受けて快適な朝を迎えた朱乃は、むくりと起きて伸びをした。


「……お腹、空いちゃった。炊事場って、どこだろう」


 くぅ、と空腹を訴える腹をさすりながら、朱乃はひとりで身支度を整える。

 この部屋だけで、食事以外は朝から晩まで過ごせる設備が整っていたし、織江が宣言した通り、着物の心配はいらなかった。

 美しい鳥の彫刻が彫られた桐の箪笥には、何着もの上品で華やかな着物。朱乃はそれに感謝して、一番質素で目立たない着物を選んで身につける。


「……きっと、選定者のために織江さまが心を込めて用意されたんだわ。それなのに、見窄らしいわたしがあらわれたから……」


 はぁ、とひとつ息を吐く。布団を畳んで片付けながら、朱乃は雑念を振り払うように身体を動かしはじめた。

 朝から怠惰に寛ぐ習慣は、朱乃にはない。宝鞘邸で長年、女中として働いていたからか、じってしていることができない。

 掃除用具が押し込められた長櫃を探し出し、拭き掃除用の布を見つけて机や椅子を拭く。窓は開けようとしたけれどはめ殺しになっていて、開かなかった。


「……言葉がキツいだけだもの。殴られたり叩かれたりしない分、幸せ」


 よく磨かれた黒漆に映った自分の顔を眺めながら、ふと思う。頬に残った赤い傷痕を指でなぞり、朱乃はふるりと首を振る。


(このまま、ウジウジしていてもお腹は空いたまま。……行こう、ご飯を貰いに)


 そうして朱乃は襖を開けて、炊事場を目指して廊下を歩いた。炊事場の場所なんて、知らされていない。朱乃の勘だけが頼りだ。

 一歩踏み出し、恐る恐る廊下の角を曲がる。数本行くと左右に別れた分岐路に当たった。どちらに行けば? と迷う朱乃は、迷わず鼻を啜った。


(こっちからお米の炊ける匂いがする……と思う)


 白米が炊けたときの甘い米の匂いをたどって廊下を曲がった。

 けれどその先もまた分岐路で、鼻を頼りに進む先を選んでも炊事場らしき場所には辿り着けない。

 炊事場に近づいているのか、遠ざかっているのかもわからない。わかっているのは、自分の空腹具合だけ。

 廊下の角を曲がる朱乃の手が無意識に簪に伸びて、しゃらりと涼やかな音が鳴る——そのときだった。


「おっと……すまない、お嬢さん。怪我はないかい?」


 角からあらわれたのは、長身で筋肉質な体躯の青年だ。

 黒い髪を逆立てて、紫色の目を柔らかく細めている。まとう衣は漆黒の着流しで、緋牡丹と丹頂鶴が舞う赤い羽織を肩にかけていた。

 青年は朱乃とぶつかる直前で、朱乃が吹き飛ばされないよう優しく抱き止めてくれたのだ。


「わ、わたしの方こそ、ごめんなさい。怪我はありません、大丈夫です」

「でも、お嬢さんの滑らかな頬に傷がついている。……少し触れるよ、動かないで」


 青年はそう言うと、朱乃の頬にそっと触れた。

 触れた指先から柔らかな温もりがじわりと広がる。かつて璃人に怪我を治してもらった時のような、暖かさ。

 朱乃が、あれ? と思っている間に、青年の指が離れてゆく。そうして青年ら、懐からサッと手鏡を取り出して朱乃に見せた。


「あっ……傷が、治って?」

「このことは内緒だよ。神祇官に知られたら、女神から授かった尊い力を無駄に使った、だなんて言われて怒られるから」


 青年は、悪戯っぽく片目を瞑ってそう言った。その仕草に、朱乃の心臓がトクリと跳ねる。

 もしかして、この方は。璃人以外の帝候補なのでは。朱乃の動揺した心臓が、ドドドと激しく拍動しはじめた。



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