奥ノ宮編

第10話 その身ひとつと名前だけ

 朱乃が持っているものは、その身ひとつと名前だけ。

 両親が残してくれた財産は、叔父夫婦の散財と禍獣ケモノによって粉々に。着ていた着物も煤だらけ。ほつれて汚れて、台無しだ。

 宮殿に招かれて、あてがわれた部屋は豪奢で広く、煌びやか。

 けれどこの部屋に、朱乃の物は、なにもない。置物のように、ただひとり朱乃がポツンといるばかり。

 朱乃はなにも、持っていない。財産と呼べるものは、もう、なにも。

 小さな息を吐き出すことすら惜しくて、朱乃は目を伏せた。さらりと流れる自分の髪を横目にみて、なんとはなしに手で触れる。


(……あっ)


 心細くさまよう手が、耳の後ろのまとめ髪に触れたとき。しゃらりと揺れる華やかな音が、朱乃の鼓膜と心をくすぐった。

 まだあった。まだ朱乃にも、財産と呼べるものがひとつだけ。

 紅金魚の簪がひとつ。

 璃人に贈られた簪だけが、身内も財産もすべて失くした朱乃を支えていた。


◇◆◇◆◇


 時刻は数時間、巻き戻る。


 朱塗りの柱と白壁の対比コントラストが美しい皇都宮殿。

 雨上がりで濡れた屋根や壁が、月明かりを受けて、青白く浮き上がっている。

 緑瓦を葺いた屋根は高く、所々に施された金細工が夜明かり燈篭の赤い光を受けて輝いていた。

 広く敷地を取り、丸池を囲むように建てられた宮殿は、まるで隠世かくりよのよう。

 これまで身を縮めて生きてきた朱乃の心を、大いに震わせ、戸惑わせた。

 禍獣ケモノによって生家が半壊したのが、一時間前。

 たった一時間で、心の準備ができるはずもない。朱乃は決意ひとつを胸に抱いただけ。ただ誘われるがままに檳榔子黒びろうじぐろの狩衣を身に纏った神祇官——瑤慈ようじに連れられて、皇都・月ヶ峰つきがみねに広く建つ宮殿へやって来た。

 朱乃を禍獣ケモノの暴虐から救ってくれた璃人りひとも、途中までは一緒だった。けれど。


『言いましたよね、璃人殿下。罰則ペナルティイチ、です。しばらく朱乃様にお会いいただくことは禁止いたします』

『……しばらくとは、いつまでだ』

『決まってるじゃあないですかぁ。ボクが「いい」というまで、でしょう』


 ニタリと嗤った瑤慈の顔と、頬を引き攣らせた璃人の顔が印象的だった。


『朱乃さん、君に相応しい人間になって必ず迎えに行く。だから……』

『はい、お待ちしています』


 と。朱乃と璃人は再会の約束を交わして別れたのである。

 そこから先は、朱乃と瑤慈のふたりきり。神木である珀大樹はくたいじゅを使った木造りの廊下を何度も折れ曲がり、宮殿の奥へ奥へと進んでゆく。


(どこに行くんだろう。どこを歩いているのか、全然わからない)


 等間隔に置かれた紙燈篭の柔らかな光をぼんやり見つめて歩いていると、夜更けにもかかわらず、すれ違う宮人がいた。誰もが皆、立ち止まり、頭を下げてゆく。

 朱乃の前をゆく瑤慈のお陰であることは、明白だ。薄汚れて得体の知れない朱乃に、頭を下げる理由などない。

 それだけじゃない。頭を下げて目を伏せる、その刹那。宮人たちの目が鋭く細められていた。値踏みされているような、憎しみが混じったような鋭い視線。それに気づかぬ朱乃ではない。

 叔父夫婦や従兄であった敬史たかふみから、同じ視線を毎日のように浴びせられていたのだから。


(ここでも同じ……なのかな)


 場所が変われば、立場が違えば、向けられる視線も柔らかなものに変わるのだ、と漠然と思っていた。もう、蔑まれなくてもよくなるのだ、と。

 だって、瑤慈は朱乃が叔父夫婦や敬史に、どのような目に遭わされていたのか知っていたようだったし、請われて宮殿に上がったのだから、それ相応の尊重をされるものだとばかり。


(わたしったら、なんて傲慢なことを)


 途端に頬が、目元が、カッと熱を持つ。朱乃は急に自分を恥ずかしく思った。

 璃人と出会い、まともな人間扱いをしてもらい、情を注いでもらったからだろうか。朱乃は時々、身の内に秘めていた欲が膨れ上がって自制コントロールが聞かなくなるようになった。

 他人に求めすぎてはいけない、もっと謙虚に生きなければ。と思うのに、新しい環境への期待と欲とが清貧を求める心を上回り、こうして顔を覗かせる。

 朱乃は、黙って歩みを進める瑤慈の背中を見つめて、息をそっと吐き出した。

 平静を保つように何度か深呼吸をしながら歩いていると、いつの間にか天幕で飾られた襖を持つ部屋の前にたどり着いていた。


「朱乃様には今後、奥ノ宮おくのみやでお過ごしいただきます」


 薄汚い着物のまま、頬や指先だって汚れが残ったままの朱乃の前に、瑤慈が跪いた。そうして、襖を開け放つ。

 開かれた部屋は、金銀瑠璃で飾られて、奥行きのある広い部屋。調度品はすべて珀大樹で作られているのか、美しい木目を魅せている。天井からは錦の飾り布が吊り下がり、大窓の向こうには青白い月が浮かんでいた。


(なんて、綺麗。こんな部屋、見たことない)


 美しく荘厳な宮殿の最奥には、やはり美しい部屋があった。

 宮殿の敷地へ足を踏み入れたときと同じように、朱乃の身体が畏怖で震える。


「あの……わたしはここで、なにをすればいいのでしょう?」

「お知りになりたいことが山ほどあるのは、承知しております。近々、朱乃様へ詳しいお話をさせていただきますが、今は準備が整っておりません。それまで奥ノ宮でお過ごしいただきたく」

「こ、ここで? こんなに綺麗な場所、わたしには場違いです。それに……それに、わたしがいたらまた、禍獣ケモノが来るんじゃないんですか!?」


 朱乃は、汚れた着物を見下ろして、そう叫んだ。

 頬には禍獣ケモノにつけられた傷が、一本。赤い線を引いている。

 今まで見たこともなかった禍獣ケモノが皇都にあらわれ、人を襲ったのだ。それに、瑶慈は言った。帝の力が弱まっている、と。どこにいても、安全ではなくなった、ということだ。

 宝鞘邸は、朱乃の血が染み込んでいたから狙われた。であるならば、傷を負った朱乃が宮殿ここにいたのなら、禍獣ケモノが大挙して来るのでは。

 今更、あるいは、ようやく死の恐怖を感じた朱乃の全身が、ぶるぶると震え出す。それを見越していたのか、それともただの気休めか。瑤慈が朱乃に微笑みかけた。


「ご心配には及びません、朱乃様。今はまだ、我が君の守護が活きている。奥ノ宮は宮殿の要。豊穣の女神を祀る神殿があるんでね」

「で、でも……」

「はぁ……。朱乃様にはご自分の立場と役割をご理解いただく必要がありますね」


 震えてなにも言えない朱乃に焦れたのか。瑤慈がふたつ手を叩く。

 すると、宮殿の奥まで響くその音は、どこからともなく十数名の女官を呼び寄せて、朱乃の前に並ばせた。

 ふわりとなびく絹の衣。長い髪は一髻いっけいに結われ、眉間のあいだには紅や藍で記された花鈿かでんがひとつ。どの女官も皆、透き通るような美しさを持っている。

 横一列にずらりと並んだ美しい女官たち。その迫力に気圧されて、朱乃はその視線を、跪いたままの瑤慈と女官たちとの間で彷徨わせた。


「す、すみません、この人たちは……?」

「お初にお目にかかります。わたくし織江おりえ。私共は、奥ノ宮の女主人に仕える宮殿女官でございます」


 女官たちの長であろうか、織江と名乗った女官が、ひとり前へ出てそう告げた。

 柔らかな仕草と声で交わされる挨拶。けれど織江は、朱乃に対して膝を折り、頭を下げることだけはしなかった。

 それが宮殿に招かれた客人に対する無礼な振る舞いであることに気づかぬまま、朱乃は深く頭を下げる。


「お世話に、なります。……朱乃、と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「……神祇官殿。このお方が本当に、三峰の女主人なのですか? こんなに見窄らしい方が選定者であると、本気でおっしゃっておられる?」


 途端に、織江の表情が険しく尖る。侮蔑混じりの視線が朱乃の身体を睨め回す。

 ああ、歓迎されていないのだ。と、朱乃が思い当たるのに、そう時間がかからなかった。

 確かに朱乃は見窄らしい格好だ。禍獣ケモノに襲われてから、着替えもさせてもらえず連れてこられたのだから。


「あ、あの……っ」


 これは不可抗力で、と説明をしようとした朱乃を、瑤慈が素早く遮った。


「朱乃様には、いずれ専属の女官をお付けいたします」

「だから私は必要ない、と? この方が本当に朱和とわの娘……?」

「朱乃様にお仕えするのが嫌なのでしたら、していただかなくて結構です、と言ったまで。遅かれ早かれ、奥ノ宮には選定者さまをお迎えすることになっていたはず。このままでは玄狼国げんろうこく禍獣ケモノに蹂躙されて滅びるだけ」

「……っ、神祇官殿はそれでよろしいのですか!?」

「あなたも、今上陛下の神力が衰えていることをご存知でしょう。——国を滅ぼしたいのですか」

「それは……っ」


 怯む織江に、瑤慈はすっくと立ち上がり、


「なににせよ、朱乃様は大事な大事なお方です。くれぐれも失礼のないよう——」


 と。瑤慈は織江との話を切り上げて、朱乃と女官たちに背を向けた。彼の背が夜の闇に染められた廊下の奥へ消えてしまうと、今度は女官たちの冷たい視線が朱乃の身へと降り注ぐ。

 こうして、朱乃の前途多難な宮殿生活が幕を上げたのであった。



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